butterfly kiss「あのね、遠野くん。ちょっとだけ聞いておきたくて」
ふぅ、とひどく慎重に息を吐き、プレゼントの包みをそうっとほどくようなたおやかさで言葉が続く。
「遠野くんはさ、僕にしてほしいことってあったりする? その、そういう時に」
行儀良く膝の上に置いた指をもどかしげに絡ませるようにしながらぽつり、と吐き出されるおだやかな言葉に、息苦しいほどのあまやかな気配が立ちのぼる。こちらをまっすぐに見据えるかのようなまなざしはいつも通りにひどく穏やかで温かいのに、その奥には確かな〝予感〟を帯びた色が隠されているのがありありと伝わるから、いびつに揺らいだ心は音も立てずにぐらりと心地よく軋む。
「あぁ……えっと、その」
答えに窮したまま、手元のクッションをぎゅっと掴めば、気遣うようなやさしいまなざしがこちらへと注がれる。
「ごめんごめん、いきなり聞かれても困るよね。じゃあさ、僕から先に聞いてもらってもいい? ひとまずはその、出来るだけしたくないことからになるけど」
「あぁ――うん、まぁ」
緊張した面もちを隠せずにいるこちらのぎこちない返答を前に、いつものように何気ないようすでおだやかに笑いかけながら、優しい言葉は続く。
「ひとまずは、なんだけど――遠野くんの身体に痕が残るようなことはしたくないなあって思って。キスマークってロマンチックな言い方するけどさ、要は内出血でしょ? 怪我させてることには変わりないよね? それにさ、もし誰かに見られたりして、遠野くんのこと不真面目だって思わせたくないから」
「あぁ、えっと……」
確かにこちらとしても、気をつけてはもらいたいところではあるのだけれど――思いも寄らない答えに戸惑いのまま答えれば、ふわり、と穏やかな笑顔がこちらを包み込んでくれる。
「あと、危ないこととか痛いことも出来るだけしたくないかなぁ。加減が難しいでしょ、そういうのって。まぁ、その――どうしてもって言うんなら、勉強してからで」
思い詰めたようなひどく真面目な口ぶりと告げられる言葉とのギャップに、思わずぐらりと飲み込まれてしまいそうになる。
「鴫野くん、あの」
すこしでも安心してもらえるように――しなやかな指先へとそっと手を差しのばしながら、ぽつりと囁くように僕は答える。
「すごくありがたいんだけど、その……聞いても良い? 僕ってどう思われてるのかって」
誤解を招くような振る舞いを行っていた自身に責任があるのだろう、だなんてことくらいは勿論わかるのだけれど。
すこしだけ冗談めかしたような砕けた口ぶりで尋ねてみれば、いつもよりもこわばって見えた表情には、ふわりと穏やかな優しい色が宿る。
「……ごめんねその、失礼だったよね? なんていうのかな、可能性はいろいろあるでしょ? 極端かなぁとは思ったんだけど、一応」
気まずそうに笑う顔の無防備なあどけなさに、言いしれようのないいとおしさが静かにこぼれる。ふぅ、とちいさく息を吐き、おだやかな決心を込めるかのように僕は答える。
「君には望まないよ、そんなの。無理させるつもりだってないし」
手放しに大切にされることに、どこか座りの悪いむずがゆさのようなものを感じていたのは確かだけれど――そこまで気づかれていたのだろうかと思うと、申し訳なさといとおしさ、その両方がぐらりとのぼせるような暖かさで胸の内からせり上がる。
「ごめんね、鴫野くん。謝らなくていいよ」
「でも、」
もどかしげに震えながら告げられる言葉を封じ込めたい一心で重ね合わせた指先にぎゅっと力を込めれば、見つめ合ったまなざしは微かに潤む。
「ありがとう……それで、」
促すような心地になりながら、ぽつりと囁くように僕は答える。
「鴫野くんはどうなの? なにかあるでしょう、どうしても苦手なことだとか、してほしいことだとか」
「……あぁ、えっと」
途端に、見つめ合うまなざしはぐらりとのぼせたようにあまく揺れる。
「大切なことでしょう? だって」
精一杯のやわらかな響きを装った〝追撃〟を前に、ぽつりと静かにこぼれるような無防備な言葉が洩らされる。
「えっと、その――遠野くんが好きにしてくれたら、それが一番よくて。でも……顔が見えないのはあんまり好きじゃないかな、寂しくなるから。そのくらい? たぶん」
「いいの、それだけで」
「それだけなんかじゃないよ」
もどかしげに手渡される言葉はわずかに震えていて、〝いつも〟のそれとはまるで違う、いびつで温かな色を宿す。
ちっとも知らなかった、こんなふうにひどく気恥ずかし気に、それでいてうんと真摯に答えてくれる姿も、どこかくすぶったような穏やかなぬくもりを携えたまなざしに宿される、ここにしかない色彩も。
そのすべてがこうして、ふたりだけの特別な時間を過ごせるようになったことがもたらしてくれたかけがえのない宝物だ。
「不安になるんだけど、もうすこしくらいは自分のことも大切にしてくれないと」
「そんな人じゃないでしょ、遠野くんは」
わざとらしく煽るように掛ける言葉にかぶせるようにと、やわらかにほつれた言葉が返される。
つくづくこういうところなんだよな、ほんとうに。買いかぶりすぎ、だなんて言葉で済ませられるものではあるのだけれど――いつだって信じたいとそう思わせてくれる穏やかなぬくもりや優しさに溢れていたのが、彼の言葉だった。
「他にはある? じゃあ」
「……うん、」
ひどくもどかしげに――それでいて、まっすぐな思いを閉じこめるようにこちらを見つめながら、ぽつりと優しい答えが続く。
「遠野くんの手、すごく好きだから……触ってくれたらうれしいなって思う、すごく」
〝らしい〟としか言いようのないくぐもってもつれた言葉を前に、ふぅ、とわざとらしく息を吐き、囁くような口ぶりで答える。
「おやすいご用なんだけど、そのくらい」
答え終わるのとほぼ同時に、洗い晒しでいつもよりもしんなりとしたやわらかな髪をふわりとかき回すように触れる。
指先をくすぐる感触にうっとりと身を委ねながら、露わになった両耳を、綺麗なその形をなぞるみたいにそっと触れる。輪郭からそっと内側をたどり、ほんのひと時だけ押さえ込むようにふさいでみれば、微かに潤んだ瞳は隠しようのない戸惑いの色に淡く揺れる。
瞬く間に移り変わる鮮やかなその変化に、こんなにもどうしようもなく惹きつけられていたのだとそう気づいたのは、いったいいつからだろう。
「不思議だったんだよね、ほんとのところは」
いつしかぼんやりと赤く染まった耳朶へと指先でそっと挟み込むように触れながら、極力穏やかなそぶりを纏うような口ぶりで僕は答える。
「鴫野くんはちっとも触ろうとしなかったでしょ、僕に。いままでとは違う関係になれたら、って話になってからでも」
壊れ物に触れるようなおぼつかなさで触れられた時には、まるでその先から、新しい自分が形作られていくかのような優しい手触りを感じたのだけれど。
「てっきり嫌われてるのかって思ったくらいなんだけど」
「……ちがうから」
わざとらしく意地悪めいた口ぶりでそう呟けば、すぐさまいじけた子どものような返事を返しながら、しなやかな指先はそっとこちらへとのばされる。
耳の裏から顎へ、首筋へ――なめらかなその手つきはじゃれあいめいたものとはまるで違う確かな期待の色を帯びていて、淡く滲んだ心の内を心地よく軋ませてくれる。
「あのね、遠野くん――ぎゅうってしてもいい?」
「うん」
子どもじみた響きでの問いかけを前に、こくりとちいさく頷いてみせれば、長くてしなやかな腕の中にそっと招き入れられる。
大きくてあたたかな掌はうなじから首筋を、Tシャツ越しの背中を確かめるようにそっと優しくなぞる。
ぐらり、と飲み込まれそうなほどにあまくて、理由なんてすこしもわからないのに、ただ無性に泣きたくなるほどに温かい。
渇いた大地が水や光を喜ぶように、ここでしか得られない安らかさは掌のぬくもりを伝って、心までみるみるうちに満たしてくれる。
「やだったら言ってね、痛かったりとか」
「そんなことないから……ありがとう」
ささやき声で答えながら、しっかりとしなやかな筋肉の羽根の息づく背中や、やわらかな髪をかき回すようにして、この腕の中で息づく美しい生き物の形をありありと確かめる。
さらさらとした布地越しに滑る指先に、こらえようのないもどかしさといとおしさ、その両方がひたひたと押し寄せるのを感じる。
近づきたい、傷つけたくない――薄氷の上を歩くような二律背反の痛みと安らぎ、その両方を教えてくれたのが、この掌をつたうぬくもりだったことを、改めて思い知らされるような心地になる。
こうしてふたりだけの時間を持つようになって初めて知ったことがいくつもある。
鴫野くんは意外に寂しがりだなんてこと。大胆なふうに見えて、ひどく繊細ではずかしがり屋なこと。心を開いてくれている証を教えてくれるかのように、甘えるのが上手なこと。そんなふうにして、ひどくひねくれたこちらにも、甘え方だなんてものを教えてくれるのだということ。
「あのね、遠野くん。すごく好きだよ」
肩口へとそっと顔を埋めるようにしながら、やわらかく湿り気を帯びた吐息が静かに落とされる。ぴったりと顔を寄せるようにしたまま、うんとゆっくりのまばたきをこぼされることで、首筋にはくすぐられるような穏やかでもどかしい感触がつたう。
うんと優しいのにひどく情熱的な想いの証に、いびつな胸の内がますますぐらりとあまく痺れる。
「くすぐったい?」
「うん、」
言葉足らずの返事にはそれでも、少しも否定の意味が込められていないことくらいは、いつになく間近で見つめ合うまなざしの色を通じてすぐに伝わる。
額に、頬に――やわらかに落とされる蝶の羽ばたきは、ただ静かに膨らんでいくばかりのいとおしさをますます募らせる。
「……どこで憶えてくるの、そういうの」
答えに窮する姿がみたいから、だなんて意地悪めいた気持ちに駆られながら尋ねれば、綺麗な形の耳がのぼせたみたいにぼうっと赤くなる。
やわやわと指先でもみしだくように包み込み、そっと唇を寄せれば、痺れるようなあまやかさは肌と肌とをつたいあって、心までまっすぐに届く。
なにかを恐れている――わけではないのだと思う、きっと。
ただ、いまはあともう少しだけ、このもどかしくていびつで穏やかさに満ち溢れたぬくもりに酔いしれていたいだけで。
「きもちいいね」
「うん、」
どちらが先に放ったのかなんてわからない言葉を渡し合いながら、重なり合った肌をつたうあたたかさを分かち合えば、いつの間にか、心の奥底で揺らいでいた言いしれようのない迷いや不安が静かに溶かされていることに気づく。
やわらかで微かな蝶の羽ばたきは、世界の色をゆっくりと、それでも確かに塗り替える。優しいその奇跡のふちをたゆたうような心地で、いつしかくしゃくしゃにたわんだTシャツの裾を、いびつに震えた指先でぎゅっと掴む。
もうすこし、あと少しだけ。
瞳の中で揺らぐ光を確かめ合いながら、ゆるやかで優しい時間は静かに過ぎていく。