君と暮らせたら(罪と罰) 目覚ましで起きる。見慣れた実家の自室の天井だ。階下に行き、顔を洗い、台所へ行って冷蔵庫を開ける。
「あれ?牛乳、無い…」
「あら、ごめんね。最近はほとんど買ってないのよ。アンタも律も居ないと意外と減らなくて」
母が居間のソファから振り返って声をかける。
そう、律もすでに家を出ているから、この家は両親二人だけの生活の場になって1年以上経つ。4人暮らし(エクボもよく居たから感覚的には5人弱だけど。)の頃と違って家の中は物が少なくなり家具もいくつか買い替えられていた。ソファも新しい。「子供が居るとどうしても傷みやすいからって、二人が出ていくまでは母さんが買い替えを渋ってたんだよ」と言っていた。
三人掛けだったソファから、麻布のカバーのかけられた二人掛けの白いソファになってる。
テレビ台の横にあったマガジンラックも物置にしまわれ、前のより一回り大きいテレビ台と新しいテレビが鎮座していた。
「最近はネットプリックスでお父さんと一緒に映画観たりするから」と。
食事も、僕ら兄弟が居た頃は母が毎食手料理を作って用意してくれていたけど、
「成長期だし、子供のためなら頑張って美味しいものを食べさせようって気にもなったけど、二人分だけだと意外と高くつくし、そんなに品数も作れないから最近は冷凍のお弁当を頼んでるの。栄養バランスもいいし。あと、その浮いた時間で二人でジムに通い始めたのよ〜。アンタたちにしてあげられることなんて、もう大して無いかと思ったけど、私達が元気でいると助かるでしょ?」
と言って、母はそこから昔の話をし始めた。
「アンタ、覚えてる?おじいちゃんが倒れた時のこと。介護で兄さんと交代で実家に通わなきゃいけなくなって、あの時は大変だったわ…。でも、丁度あの頃からアンタが霊幻さんの相談所に通い始めてて、ちょくちょく律も一緒に預かってもらってたのよね。土日はお昼を食べさせてもらったり。助かったわ〜」
そうか、僕ってその頃まだ大人が見ててあげないといけない年齢だったんだな…放課後に律と近所を遊んだり、一人で相談所に行ったりはしてたけど、それは保護者が把握できる範疇のことであって、大人の誰かに監督責任を負わせた状態での"自由"だったんだ。
「霊幻さんって、アンタの14コ上でしょ?その頃はまだ25歳だったわけよね。今のアンタと変わらないじゃない。でも、見えなかったわね、歳のわりに落ち着いてたわ。だから私も安心して預けていられたんだし」
そう言いながら母は起きてきた僕のために新しくお茶を淹れ直してくれた。上げ膳据え膳とまではいかないけど、両親は僕が暗い顔で実家に帰っても何も聞かずに家に置いてくれて、洗濯や食事も以前のように世話してくれている。ありがたい。
師匠と暮らして、自分では出来てるつもりだった家事のアレコレが"手伝い"のレベルだったとわかった。新しく買った服と一緒に洗ってしまい師匠のYシャツに色移りさせたり、店ごとに値段の差があるって知らなくて高い店にオーバーコートのクリーニング出してしまって料金にビックリしたり。失敗は大小さまざま数え切れない。
師匠はいつもクーポン券やサービスデーを利用して日々の生活費を抑えてくれたし、食事も野菜のおかずをいつも作り置きしてくれて、僕がパスタを茹ですぎたときも「炒めてナポリタンにすればいい」とフォローしてくれた。師匠は家事初心者の僕の失敗を責めたりせず、なるべくお互いに負担のないように工夫してこうといつも言ってくれていた。
でも、部屋の床がいつもキレイだったのは、師匠が毎日掃除機をかけてくれていたからだったんだなって、一週間ほど寝泊まりしただけでホコリだらけになってる自分の部屋の床を見て気がついた。
師匠と借りていた部屋を出て僕は実家に戻った。
と言っても身の回りのものを持って出てきただけで、完全に荷物を引き上げたわけじゃない。家具だって共用だし、さすがにそれは師匠に迷惑だとわかってる。
でもこれから先どうしたらいいのか何もイメージがわかない。ただ、師匠のそばにいるのはいたたまれなかった。僕に恋をしている師匠のそばになんて…
「少し考える時間が欲しいんです…僕から頼んだ同居なのに勝手なこと言ってごめんなさい。僕の分の家賃とかは師匠の口座に振り込むようにします。足りてなかったら言ってください。」
部屋から出るときに師匠にそう言うと、
「ん、大丈夫だ、わかってる。俺も少し時間置きたいから気にするな。お互いに必要なことだ」
そう言って肩をポンと叩いて笑顔で送り出してくれた。いつもの師匠だ。この人が僕に恋をしているなんて信じられない。なにもかもがチグハグに思えた。
お茶を一口飲んで、ふと尋ねてみた。
「…お母さんは、お父さんに恋をされたと知った時、どう思った?」
「ええ〜〜!!?そんなの忘れちゃったわよ……」
「え、忘れちゃったの?」
「まあ〜そうね〜、一応思い出せるけど…お父さんは元々私の友達の友達として知り合って…ん〜」
「前に話してくれた時は、大学で知り合って付き合い始めたって言ってなかった?」
「う〜ん……もうアンタも大人だし言っちゃうけど、実は私がその頃付き合ってた人の友達だったのよ、お父さん」
「え!」
「その頃の私の彼氏が友達の多い人で、友人らと遊んでるとこによく私も呼び出すから自然とお父さんとも知り合って仲良くなっちゃって。でも向こうも友達の彼女なんだってわかってるんだから、そういうことにならないでしょって気を抜いてたら、ある日いきなり告白されて、すっごい困っちゃった」
「困っちゃ…う、よね。それは…」
「私も、気持ちは嬉しいけど彼氏いるし無理だし、大体私に告白するのって友人として裏切りじゃないの?いいの?って訊いたら、『アイツにはちゃんと告白していいかどうか訊いてから言ってる』って…それ聞いて私、なんか腹が立っちゃってね。彼氏にも、お父さんにも。彼氏には、私のこと本気で好きならお父さんが告白することを許さないで欲しかったし、お父さんにも、そこで『ダメ』って言われたら諦めるつもりだったのか、と」
「複雑な女心ですね…」
「別に複雑じゃないわよ〜!本気で好きなら他の全部を捨ててきてから言えなんて、そんなの私の勝手なワガママよ」
「ワガママ…」
「今思えば、別に彼氏も私のことを大事にしてなかったわけじゃないし友達の気持ちも大事だと思っただけよね。人間の気持ちの話だから、すべて丸く収まる道なんて無いのよね」
「でも、お父さんと結婚したんだね」
「それも結構、紆余曲折あったのよ〜まあ、そのへんはまた今度ね」
そろそろ出なきゃ、と母は洗面台に化粧をしに居間を出ていった。
そうか、好かれて困っちゃったりすることは、よくあることなのかも知れない。モテたことのない僕にはわからないことだ。
モテる、と言えば
「それで私に会いにこっちまで出てきたんだ?片道1時間半かけて」
「うん、急にごめん…ツボミちゃんに会えば、人生で恋したことある唯一の人の顔を見れば、師匠の気持ちになって考えられるかなって…」
「なにそれ!モブくんって残酷というか、本当に自分の欲求に忠実よね。そのくせ自信は無いんだから、私とよく似てる」
そう言いながら、ストローをくわえてグラスをかたむける。大きなターミナル駅近くのカフェ。ツボミちゃんの入りたかった店は土曜日の混雑でテラス席しか空いてなかった。
「まだ3月なのに暑い〜。日に焼けたくないから中の席が空いたら移らせてもらおう」
「ツボミちゃんも自信が無いなんてことあるの?」
「あるに決まってんじゃん!てか例の好きな人にだってまだ振り向いてもらってないし!」
そうだ、ツボミちゃんは生まれて初めて自分から追いたい人が出来て、しかもそれが女性だって聞いて、それで僕も師匠と暮らすって選択肢に気づいたんだ。
その時は、"師匠のことを恋愛対象として見る未来もあるかもね"くらいに思ってたのに、いざこうして求められたら何もかもわからなくなってしまった。
「てか大体話聞いてるからわかってるけど、モブくんが甘え過ぎ!なにそれ、恋されてツラいから家を出てきたって。お師匠さん可哀相〜!二人でラブラブで暮らしてた部屋に今も一人で住んでるんでしょ?」
「だって…!師匠が僕のことを好きなのは僕が弟子だからだと思ってたし…急に恋してるとか言われても、恋をされてる僕がどんな僕なのかわかんないし…師匠に同じ想いを返してあげられないって思うと師匠に申し訳なくて…」
「モブくんは恋と私を結びつけ過ぎじゃないかな?お師匠さんへの好意や愛情と、そんなに質が違う?」
恋とセックスをセットにしてる、と師匠に放った自分の言葉を思い出した。僕は僕で、恋とツボミちゃんをセットにしてしまってるのかな。
「…なんなんだろ、恋って…されたら迷惑なものなのかな。ツボミちゃんもいつも色んな男の人に告白されて嫌そうだし、僕にもこれまで12回も告白されてはそのたびに断って…そりゃ迷惑か…うん…」
「一人で勝手に納得しないでよ。別にモブくんに告白されてきたことは迷惑と思ったことないし。ていうか私はモブくんのこと、男の人の中で一番好きだよ?」
「え」
「でも、モブくんと恋愛したり、付き合ったり結婚したりってのはイヤなの。モブくんに甘えちゃうから。子供の時に八つ当たりしたの覚えてる?覚えてないよね。モブくんは私の甘えを許しちゃう。何を言っても怒らないし応えようとする。私にとってモブくんはそういう存在で、それが当たり前。でも私はそういうふうに図に乗ってる自分が嫌いなの」
「僕はツボミちゃんに甘えられてると思ったことないし、図に乗ってるなんて感じたこともないよ?最初からツボミちゃんは僕の超能力のことを特別扱いしなかった。いつもフラットに接してくれて、だから僕も超能力に頼らないで君を振り向かせられる人間になりたいって思えて、部活にも入って…」
「だから〜それがイヤなの!こ・の・私が!甘えてるってのに、そのことを嫌とも自慢とも思わないモブくんと居ると、私がすごいつまんない凡人に思えてきちゃう……私ってきれいで可愛くて魅力的じゃない?自分で言っちゃうけどさ」
「うん、ツボミちゃんは可愛くて素敵な女性だと思うよ?特別な人だよ?僕にとっても」
「ああ…ダメだ…通じない。違うの…そういうことじゃないの…私の可愛さって、モブくんにとっての超能力くらい特別なの私の中で。すごく強い武器で特権で、自分のことを特別に思うために必要不可欠なものなの。でもモブくんは私が特別に可愛いから好きなわけじゃなくて、ただの幼馴染の私が好きなのよ…それが、私はツラいの。それじゃ満足できないの……でもね、もしモブくんが私のこのズバ抜けた美貌に魅了されて私を好きだなんて言い出したら、それはそれでイヤ………絶対にイヤなんだ」
ツボミちゃんは口元を歪めながら、笑ってるような泣きそうな顔で目を伏せてる。僕の方は見てくれてない。
僕に幼馴染として好かれてるから恋人にはなりたくない、でも一人の美人な女性として求められるのはもっとイヤだ、と。
じゃあ僕はどうしたらいいんだろう。ツボミちゃんが僕に振り向いてくれないのは単に僕が彼女に釣り合わないからだと思って諦めたのに、そんな風に言われたら、中学の頃から君のためにしてきた僕の努力も、想いも、毎回心臓が割れそうになりながらしてきた告白も、全部意味がなかったみたいじゃないか……
「…私、モブくんに超能力を使うなって言ったこと、ずっと後悔してるんだ。超能力だって、モブくんの大切な一部分なのに」
そう言ってツボミちゃんは腕を組んで、横を向いた。その目は遠くを見てる。すごく昔のことを思い出してるみたいな。
八つ当たりって、あの時のことかな。ツボミちゃんが泣きそうな顔で怒って僕に怒鳴りつけたことがあった。あれはなんでだったっけ…
気がついたら、横を向いたままのツボミちゃんの目から涙が流れていた。あまりに静かに流れているから顎からしたたり落ちるまで気づけなかった。思わず椅子から立ち上がったけど、なんて声をかけていいかわからなくて、大通りの車のクラクションが遠くに聴こえる街のざわめきの中で、ただ彼女の次の言葉を待ってしまった。
「………お師匠さんの気持ち、少しはわかった?」
ツボミちゃんは小さく口元に笑みを浮かべて、でも怒りと羞恥のこもった赤い顔でこちらを向き、僕にそう言った。
僕は血の気が引いた。
ツボミちゃんが何を言いたいのかは本当はよくわからなかったけど、僕が師匠にした仕打ちを責められてることだけはわかった。
いきなりナイフで刺されたみたいなショックだった。
続