耳掃除 お風呂に入ろうと部屋に入った時、耳の奥に違和感を感じた。何かが詰まっているような奇妙な感覚が、耳の奥でわだかまっているのである。小指を差し込んで取ってみようとするが、入り口で引っ掛かって上手く動かせない。大した収穫も得られないままに、僕は耳から手を離した。
改めて室内に足を踏み入れると、タンスの前で足を止める。耳の違和感は気になるが、先にお風呂に入るのが得策だろう。耳掻きを使って掃除をするとしても、皮膚をふやけさせてからの方がいい。少しの間考えると、僕はタンスの引き出しを開けた。
一時間ほどでお風呂を済ませると、僕は再び自室へと足を運ぶ。いつもと少しだけ違うのは、右手に耳掻きを握っていることだ。仄かに漏れる光に照らされた廊下を通ると、灯りの前で足を止める。部屋の中を覗き込むと、ベッドの上に転がるルチアーノの姿が視界に入った。
「やっと上がったのか。ずいぶん遅かったな」
ベッドから顔だけを持ち上げると、彼は僕に向かって声をかける。退屈そうに動かされた手元には、僕が買っていたデュエル雑誌が広げられていた。すっかり待ちくたびれたという態度だが、そこまで長く待たせてはいないはずだ。僕がお風呂に入っていた時間なんて、たかが一時間くらいなのだから。
「遅くないでしょ。ルチアーノがせっかちなんだよ」
正面から言葉を返しながら、僕は入り口付近の床に腰を下ろす。手に持っていた耳掻きを握り直すと、そっと耳の中に押し込んだ。慎重に指先を動かすと、先端で皮膚を引っ掻いていく。奥まで押し込むのが恐ろしくて、様子を伺うような動かし方になってしまった。
「おい、そんなところに座って何してるんだよ」
ベッドから僕の姿を見下ろすと、ルチアーノが呆れた声で言う。緑色に輝く冷めた瞳が、真っ直ぐに僕を捉えていた。彼は人間ではないから、僕が何をしているのか分からないのだろう。身体を滑らせて彼の方を向くと、僕は手に持っていた道具を見せた。
「耳掃除をしてるんだよ。人間の身体は代謝するから、古くなった皮膚を取る必要があるんだ」
片手を揺すってポンポンを揺らすと、僕は再び耳に手を伸ばす。周りを傷つけないように気を使いながら、慎重に耳の入り口を引っ掻いた。肌を傷つけてしまったら怖いから、あまり奥までは差し込めない。何度も同じところを動かしていると、向こうから冷めた声が飛んできた。
「だからって、そんなに離れて座る必要はないだろ。いつもみたいにこっちに座れよ」
手を止めて視線を向けると、退屈そうに手元を動かす姿が見える。はっきりと口にはしていないが、僕にほったらかしにされるのは寂しいようだ。しかし、いくら彼に誘われたとしても、ソファに座る気にはなれない。急に彼が体勢を変えたりしたら、先端が耳の中に刺さるかもしれないのだ。
「それは、だって……」
僕が渋っていると、彼は面倒臭そうに身体を起こす。遠巻きに僕の姿を眺めると、何事も無いように口を開いた。
「なら、僕が手伝ってやろうか?」
「…………え?」
予想もしなかった言葉が飛んできて、僕は間抜けな声を上げてしまう。僕の聞き間違いでなければ、彼は手伝ってくれると言ったのだ。状況から考えて、その言葉が示すのは耳掃除になるだろう。しかし、彼に耳掃除の知識があるなんて、これまでに聞いたこともなかった。
「要するに、君は詰まってる耳垢を取りたいんだろう。それくらいなら、僕にだってできるさ」
困惑する僕の目の前で、ルチアーノは自信満々に言葉を吐く。余程自信があるのか、にやにやと笑みまで浮かべていた。彼がここまで得意になっていると、僕としては不安しか感じられない。耳掻きのポンポンを揺らすと、遠巻きに彼を見つめ返した。
「本当に大丈夫なの? ルチアーノは、耳掃除なんてしたことないでしょ」
「そんなもの、ちょっと調べれば分かるだろ。僕は君と違って手先が器用だから、うっかり刺したりする心配もないぜ」
くすくすと笑みを浮かべながら、ルチアーノはさらに言葉を重ねる。そこまで言われてしまったら、おとなしく従うしかなさそうだった。ここで嫌だと突き放したら、彼は機嫌を損ねるだろう。面倒なことになるくらいなら、恐怖心を耐えた方がましだと思った。
「なら、お願いしようかな」
床の上から立ち上がると、僕はベッドの方へと歩いていく。ベッドの上に横たわっていたルチアーノが、静かにその場に正座をした。普段の彼が決してしないような姿勢に、不覚にもドキリとしてしまう。視線を逸らしながらベッドに座ると、手に持っていた耳掻きを渡した。
「ほら、ここに頭を乗せな」
ルチアーノに誘導されるままに、僕は彼の膝に頭を乗せる。ポンポンが揺れる音がした後に、耳掻きの先端が肌に触れた。探るように付近を撫で回すと、奥の方へと先を伸ばしてくる。慎重に差し込まれた固いものが、耳の内部の皮膚を引っ掻いた。
僕の心配をよそに、ルチアーノは安定した手つきで耳掻きを動かす。優しく耳垢を探りだすと、ティッシュの上に乗せていった。耳の中で感じる指先の動きは、普段の荒々しさが嘘のように繊細だ。片方が終わる頃には、僕の不安もすっかりなくなっていた。
「ほら、反対側を見せな」
ルチアーノに言われるがままに、僕はベッドの上で体勢を変える。彼が場所を変えなかったから、仕方なく僕が移動することにした。反対側に腰を下ろすと、太腿の上に頭を乗せる。さっきまでの緊張がなくなったことで、少し変な意識をしてしまった。
そんな僕の動揺をよそに、ルチアーノは手を動かしている。相当集中しているようで、一切口を開かなかった。優しい手つきで耳の中を探られていると、眠気に襲われてしまう。もうすぐで目を閉じそうになったとき、頭上から声が降ってきた。
「ほら、終わったぞ」
大きい声が耳の中に入ってきて、僕は思わず目を見開く。眠気に負け始めていた僕にとって、彼の大声は目覚ましのような感覚だったのだ。急に意識が引き戻されたことで、心臓がバクバクと音を立てる。深呼吸しながら頭を振ると、僕はルチアーノに向き直った。
「ありがとう。今度は、僕が耳掃除してあげようか?」
ベッドの隅で姿勢を正すと、何気なくそんな言葉を告げる。隣で耳掻きを揺らしていたルチアーノが、驚いたように口を開けた。途中で身体が硬直したのか、左手はピタリと止まっている。すぐに金縛りから解放されると、彼は不満そうに顔をしかめた。
「何言ってるんだよ。僕の身体は代謝なんてしないから、耳掃除なんか要らないだろ」
「そうなんだけど、僕だけしてもらうのって、なんか申し訳ないから。ルチアーノにとっても、悪くない経験になると思うよ」
ルチアーノの手から耳掻きを奪いながら、僕は淡々と言葉を返す。半分は本心だったが、もう半分は繕った嘘だった。申し訳ないと思ったのは、一応は本心と言っていいだろう。しかし、僕の真の目的は、彼の反応を見たかったからなのだ。
「なんだよ。やけに食い下がるな。変なことでも考えてるんじゃないか?」
そんな僕の心中を察したかのように、ルチアーノは鋭い言葉を吐く。心臓がドクンと音を立てて、思わず視線が逸れそうになった。すんでのところで留めると、真っ直ぐに彼を見つめ返す。僕の視線を奇妙に感じたのか、彼の方が視線を逸らした。
「そんなことないって。ルチアーノにも、人間の文化を体験してほしいんだよ。ここでやらなかったら、絶対に耳掃除なんてしないでしょ」
正面から言葉を重ねると、彼は大きくため息をつく。こうして彼が呆れ顔を見せるのは、反論を諦めた証だった。どうやら、今回の攻防戦は、僕の言葉が勝ったらしい。まあ、耳掃除くらいのことなら、彼もそこまで恥ずかしくはないのだろう。
「…………分かったよ。ここで良いって言わないと、君はいつまで経ってもせがむからな」
面倒臭そうに吐息を混ぜながら、ルチアーノはそんな言葉を吐く。なんだか子供を宥める親のような振る舞いだったが、許可は許可なので気にしないことにする。右手で耳掻きを持ち直すと、膝の上を軽く叩いた。
「じゃあ、ここに頭を乗せて」
僕が誘導すると、ルチアーノはしぶしぶ頭を乗せる。こうして横になっていると、その姿は年齢相応の子供みたいだ。僕には兄弟がいなかったから、弟ができたみたいで少し嬉しい。そんなことを言ったら怒られるから、絶対に口には出せなかった。
光が当たるように場所を調整すると、僕は耳掻きを下に下ろす。耳元を覆う髪をどかすと、入り口に先端を差し込んだ。周りの皮膚を傷つけないように、慎重に中身を探っていく。しばらく周りの皮膚を探っていたが、何も取れる気配はなかった。
「ほら、何も取れないだろ。とっとと終わりにしろよ」
手を動かしている僕の真下から、ルチアーノの冷めた声が聞こえてくる。意味もなく耳をまさぐられているから、違和感を感じて仕方ないのだろう。これ以上探っても何も取れないから、おとなしく手を引くことにする。耳掻きを引っ張り出すと、しばらくしてからルチアーノが身体を起こした。
「じゃあ、今度は反対側だね」
ベッドから立ち上がろうとする彼に、僕は正面から声をかける。隅に座ろうとしていたルチアーノが、不満そうに表情を歪めた。遠巻きに僕の姿を見つめると、あからさまに尖った声で言葉を返す。
「何でだよ。僕に耳掃除が要らないことは、今ので十分分かっただろ」
「そうかもしれないけど、耳掃除っていうのは両耳でひとつのセットなんだよ。半分だけやっておしまいにするなんて、ちょっと気持ち悪くない?」
「僕は気にしないぜ。どうせ、君がやりたいだけなんだろ」
ちらりとこちらに視線を向けながら、ルチアーノは面倒臭そうに言葉を吐く。ここまではっきり言われてしまったら、流れで押しきることはできなさそうだった。彼に耳掃除をさせてもらうなら、恥を捨ててお願いするしかないだろう。手に持っていたポンポンを揺らすと、僕は正面から言葉を返す。
「そうだよ。だから、もう片方もやらせてほしいな」
「やけに正直だな。……まぁいいか、変なことをしたらぶっ潰せばいいだけだし」
不穏な言葉を口にしながらも、ルチアーノはおとなしく身体を横たえた。仮面に覆われている左半分が、僕の目の前に近づいてくる。髪をどかして仮面を露出させると、間から見えている耳に視線を向ける。至近距離でまじまじと眺めても、構造がどうなっているかまでは分からなかった。
耳掻きの先端を押し込むと、手探りで周囲の皮膚を引っ掻く。当然のことなのだが、いくら擦っても汚れは取れなかった。機械でできたルチアーノの身体は、細胞が剥がれ落ちたりはしないのだろう。しばらく意味もなく引っ掻いた後に、僕は耳掻きを引っ張り出した。
「これで満足か?」
呆れたように言葉を発しながら、ルチアーノが僕の膝から身体を起こす。乱れていた髪を整えると、ベッドの上に横たわった。面倒事が終わったとでも言いたげに、放り出した雑誌に手を伸ばす。なんだか勝負に負けたような気がして、僕は少しだけ悔しくなった。