日傘 その日のネオドミノシティは、朝から信じられないほどに暑かった。太陽の光が真上から町を照らして、アスファルトを灼熱の海に変えていく。外気には梅雨の湿気が残っているから、部屋の外は蒸風呂状態だ。おかげで、商店街のアーチを潜り抜ける頃には、僕は汗びっしょりになっていた。
早足でアーケードの下に入り込むと、僕はTシャツの裾をはためかせる。首筋から流れた大量の汗で、首周りは顔を洗った後のようになっていた。喉が乾いて仕方がないから、鞄からペットボトルの飲み物を取り出す。凍らせるタイプのスポーツドリンクは、暑さのせいで半分近くが溶けていた。
「今日は暑いね。もう夏が来たみたいだ」
タオルで首筋の汗を拭いながら、僕はルチアーノに声をかける。日本中が灼熱地獄のような暑さだというのに、彼は涼しい顔をしていた。日光に素肌を晒しているというのに、顔には汗ひとつかいていない。機械の身体を持つ彼にとっては、太陽の日差しなど対したことないのだろう。
「なんだよ。君は、この程度の気温で音を上げてるのか? 人間ってのは脆い生き物だな」
帽子を団扇がわりにする僕を見上げながら、ルチアーノは呆れたように言う。暑さという苦痛が分からないのか、そこには茶化すような声色が混ざっていた。彼は気づいていないのかもしれないが、今日の暑さは異常なのである。情けない男であるかのように言われるのは、僕のプライドが許さなかった。
「仕方ないでしょう。今日の気温は、六月とは思えないほどに高いんだから。急にこんなに暑くなったら、夏じゃなくても夏バテしちゃうよ」
「君はそう言うけど、今日はまだ三十度じゃないか。去年の八月に比べたら、まだ全然生きてられる暑さだぜ」
「それは、八月の暑さがおかしいんだよ。僕が子供の時には、三十五度を越えることだって珍しかったのに」
とんでもない言い分を返されて、僕は思わず声を荒らげる。四十度を越える夏が普通だと思われたら、誰だって抗議したくなるだろう。歴史が重なれば重なるほどに、地球の気象はおかしくなっているのだ。それは僕が子供の頃から言われていたけれど、ここ数年は特に顕著だった。
「そうだろうな。この世界は、数百年もしないうちに滅びるんだから。君の生きているこの時代にも、その兆しは出ているってことだろ」
唐突に鋭い言葉を投げかけられて、僕は思わず口を閉じてしまう。未来から来た彼が口にしたら、その言葉にも妙に信憑性を感じてしまう。彼の言葉を信じるならば、遠い未来には世界が滅びてしまうのだ。去年にもこのようなやり取りをした気がするけど、今年は特に恐ろしく感じた。
「それに、暑くて耐えられないって言うなら、紫外線対策をすればいいじゃないか。去年だって肌がボロボロになってから、慌てて日焼け止めを塗ってただろ?」
「そうだけど……」
僕が黙っていると、ルチアーノはさらに言葉を続ける。そこまで言われてしまったら、僕の方が悪いような気持ちになってきた。彼の言う通り、暑さを感じるのが嫌なら、自分から紫外線対策をすればいいのだ。しかし、僕が本気で紫外線対策をするとなると、また別の問題が出てきてしまった。
「なんだよ。まだ何かあるのか?」
言葉を濁す僕を見ると、ルチアーノは不満そうに口を開く。少し尖った声色を聞いて、背筋が冷えるような感覚がした。思ったことを素直に伝えたら、彼は必ず怒りを露にするだろう。しかし、神の代行者である彼に対して、隠し事ができるとも思えなかった。
「…………ルチアーノは、紫外線対策をする僕を見て、笑い者にしたりしない?」
結局、少しだけ悩んで間を開けた後に、僕は素直に問いを投げ掛けた。案の定、僕の言葉を聞いたルチアーノは、怒りに眉を吊り上げる。鋭い瞳で僕を睨むと、威圧するような声で怒鳴り付けた。
「ふーん。君は、僕のことを疑うのか? これまでに、君の健康に関することで、僕が君を笑い者にしたことがあったのか?」
「違うよ。そういうわけじゃないんだけど、ちょっと心配だったんだよ。ルチアーノって、そういう意地悪をするのが好きだから」
「そんなの、全然フォローになってないだろ。今日は君の買い物に付き合ってやるつもりだったけど、そこまで言うならやめようかな」
「違うんだよ。謝るから、ちょっとは僕の話を聞いてよ!」
ルチアーノにそっぽを向かれそうになって、僕は慌てて言葉を並べる。せっかく買い物をする流れになったというのに、自分から壊してしまっては台無しだった。ここで彼の機嫌を損ねたら、僕は丸腰のまま灼熱地獄を歩くことになるのだ。屋外コートでデュエルをすることになったら、最悪の場合には倒れてしまうかもしれない。
「分かったよ。一時間だけだからな」
なんとかお許しを勝ち取ると、僕は商店街の奥へと歩いていく。迷うことなく辿り着いたのは、大きめの衣料品販売店だった。あらゆる布製品を扱うこの店舗なら、きっと紫外線対策グッズも揃っているだろう。早足でビルに辿り着くと、正面入り口から中に入った。
自動ドアが左右に開くと同時に、店内から冷たい風が流れてくる。纏わりついた汗が一気に冷やされて、体温が一気に下がっていった。排出口から吐き出される冷たい空気が、僕の火照った身体を直接包み込む。灼熱の屋外を歩いてきた僕にとって、そこは天国のような空間だった。
「うわっ。この店、冷房が効きすぎなんじゃないのか?」
僕の後から店内に足を踏み入れると、ルチアーノは呆れたように呟く。外気の影響を受けない彼の身体は、この涼しさの恩恵も受けられないようだった。とはいえ、暑さの影響を受けないということは、同じように寒さの影響も受けないのだろう。店内が冷えているからといって、彼が風邪をひくようなこともなさそうだった。
「外を歩いて来た人にとっては、これくらいの温度がちょうどいいんだよ。滝のように汗をかいてたら、買い物どころじゃないからね」
タオルで首回りを拭いながら、僕は販売エリアへと歩を進める。フロアを仕切る扉を潜り抜けると、肌を包む空気ががらりと変わった。視界に入り込んでくる光景も、衣服がずらりと並ぶ商品棚へと変わっていく。新発売の商品を並べた棚を通り抜けると、僕はお店の奥へと向かった。
キョロキョロと左右に視線を向けながら、僕は店内を一周する。棚の上に飾られたポップを確かめながら、お目当てのコーナーを探していった。この手の衣料品販売店は、カデゴリーごとに商品が並んでいるはずである。季節商品である紫外線対策グッズは、店内の目立つところに置いてあるはずだった。
店内を半分ほど進んだ辺りで、僕はようやくそのコーナーを見つけた。お店の中央の、水着やアウトドアなどの季節商品を置いてあるスペースに、紫外線対策グッズは並んでいたのだ。日傘や帽子のような定番の品もあれば、布で作られた見慣れない品も置かれている。近づいてタグを見てみたら、そこにはアームカバーやフェイスカバーの文字が書かれていた。
「ここが、紫外線対策グッズのコーナーみたいだね。…………最近はいろいろあるんだなぁ」
並べられたアイテムに手を伸ばしながら、僕は誰に言うでもなく呟く。興味無さげに後をついてきたルチアーノが、ちらりとこちらに視線を向けた。彼の視線の先にあるのは、棚に並べられた奇妙な品々だ。ちらりと全体を一瞥すると、彼は淡々とした声で言った。
「で、君は何を買うつもりなんだよ」
「それを、ルチアーノに聞こうと思ってたんだけど…………」
様子を窺うような声で答えると、ルチアーノは小さくため息をついた。心底面倒臭いとでも言うような、吐き捨てるような息遣いである。再びこちらに視線を戻すと、彼は露骨に眉を潜めた。
「なんだよ、何も決めてなかったのか?」
「だって、僕には紫外線対策なんて分からないから……」
またしても小さな声で答えると、ルチアーノは再びため息をつく。僕のすぐ隣まで歩み寄ると、目の前に並んだ商品に手を伸ばす。彼にもそこまでの知識は搭載されていないのか、目を細目ながら解説を眺めている。いくつかの商品を手に取ると、乱雑にこちらへと差し出してきた。
「ほら、この辺がいいんじゃないか?」
「あ、ありがとう……」
妙に優しい態度に困惑しながらも、僕は差し出されたアイテムを受け取る。彼が数あるグッズの中から選んだのは、黒の日傘とアームカバーだった。試しに日傘を広げてみると、真っ黒な布地が宙を覆う。わざわざ無地のものを選んだのは、彼なりの優しさなのだろう。
「よし、決まったな。じゃあ、とっとと買ってここを出るぞ」
面倒臭そうに吐き捨てると、ルチアーノはその場から踵を返す。どうやら、率先して買うものを選んでくれたのは、早くデュエルを始めたかったかららしい。しかし、彼が満足したとしても、僕には気になるアイテムが残っていたのだ。彼が手をつけなかった商品の詳細が、どんなものなのか知りたかったのである。
「ねえ、ルチアーノ。この辺は見なくてもいいの?」
離れていく背中に声をかけると、僕は商品棚の方へと歩み寄った。布製品が吊り下げられているポールを一瞥すると、目についたパッケージに手を伸ばす。黒い布地で作られたそれは、マスクとエプロンを合わせたような姿をしていた。僕がついてこないことに気がついたのか、ルチアーノは不満そうに振り返る。
「そいつらはいいんだよ。君がそれをつけても、不審者にしかならないからな」
辛辣な言葉を吐き捨てると、ルチアーノは再び前を向いた。僕の返事も待つことなく、早足で前へと歩き始める。早く後を追いかけなければ、この場に置いていかれてしまうだろう。手に取った布を元の位置に戻すと、僕は早足で後を追った。
「待ってよ! せめて、どう使うかだけでも教えて」
「はあ? そんなの、見れば分かるだろ。こう使うんだよ」
面倒臭そうに言葉を吐くと、彼はポケットに手を突っ込む。光の中から引っ張り出したのは、よくある携帯端末だった。手早く画面の電源を入れると、目にも止まらぬ早さで端末を操作する。彼が僕に突きつけてきたのは、画像の映し出された画面だった。
「…………」
その画像を正面から見つめて、僕は言葉を失ってしまう。画面の中に映っていたのは、黒い布で顔の半分を覆った女性の姿だったのだ。どうやら、マスクの紐の部分を耳にかけた上で、下の布を首回りに巻いているらしい。小柄な女性がつけているからいいものの、その姿はどう見ても強盗犯だった。
「分かっただろ。不審者にしかならないって」
淡々と言葉を並べると、ルチアーノは端末を持った手を引っ込める。乱雑な仕草でポケットに仕舞うと、早足でお店のレジへと向かっていった。僕が代金の支払いを済ませている間も、彼は少し離れたところから眺めている。買い物袋を受け取ると、僕は早足で隣へと向かった。
「やっと終わったな。ほら、とっとと行くぞ」
半ば呆れたような声で言うと、彼はお店の外へと向かう。後を追うような体勢のまま、僕も自動ドアを潜り抜けた。建物の外に出た瞬間から、熱気が僕の身体を包み込む。直前まで天国のような環境にいたから、余計に暑さが身に染みた。
「やっぱり、外は暑いね」
誰に言うでもなく呟くと、僕は買い物袋に手を突っ込む。買ったばかりの日傘を引っ張り出すと、袋から出して幕を広げた。上空に広がる黒い布地が、太陽の日差しを遮ってくれる。直接日光が当たらないと言うだけで、肌に伝わる熱が減った気がした。
「当たり前だろ。夏なんだから」
日傘の下に潜り込む僕を見て、ルチアーノは呆れたように言う。そういう彼の横顔は、夏とは思えないほど涼しそうだった。