主命以上(主へし馴れ初め) いつ、その時が来てもいいように、最善の言葉を用意していたはずだった。
へし切長谷部は人の美醜というものに興味はなかったが、自身を含め、刀剣男士というものが人間から見ればみな美しくて可愛くて良い匂いがする素敵な生き物、ということは知っていた。本にそう書いてあったので。審神者によって好みは分かれるものの、へし切長谷部という刀剣男士が比較的審神者と恋仲になりやすい類であることもまた、知っていた。本に書いてあったからだ。もちろんその事実におごることなく今日まで良き刀、良き臣下であるよう努めてきたものの、或る頃から審神者の視線がなんとなく、他のものに向けるそれと違う熱を含んでいることに気付いた時は思わずほくそ笑んだ。
しかし、ここでこれ幸いとこちらから行動を起こしてはいけない。本に書いてあった通り、その時がきたら、ただほんの少し黙って、ひと呼吸置いた後、にっこりとほほ笑んで言えばいいのだ。『俺も、貴方のことを慕っております』と。審神者の熱い視線を感じるようになり、近侍の頻度が増え、なんとなく距離が近いな、と感じる頻度も増え、長谷部はいつでもそう答えられるよう、イメージトレーニングも欠かしていなかった。それなのに。
「長谷部のこと、好きになっちゃったんだ」
二人きりの執務室で、大事な話があると告げられ、襖を閉めて、向かい合って座って。ついにきたぞと思い、俺はいつでも大丈夫ですよ主! と拳を握ったものの、膝に置いたその拳にそっと手を重ねられ、見たことのないような優しい笑みを浮かべた審神者と目を合わせたら、長谷部の頭の中は真っ白になった。
「え、あ、あの、」
言葉に詰まり、けれど反射的に重ねられた手を握り返すと、審神者は嬉しそうに目を細める。それも初めて見る表情だった。普段なら豪快に口を開けて笑う審神者が、大所帯が集う広間でもよく通る声で話す審神者が、ただただ静かに微笑んで、囁くように続けた。
「お前も同じ気持ちなら、俺の恋人になってほしいな」
「へぁ……」
最善の言葉を用意していたはずなのに、何度も練習したはずなのに、喉からは情けなく掠れた声が漏れるだけだった。それでも、どうにかごくんと生唾を飲み込んで、答えを待つように首を傾げた審神者の目を見つめ直し、やっと出たのは、用意していた言葉ではなく、言いなれたいつもの返答の方だった。
「主命と、あらば……っ」
「……主命?」
しまった、と思ったものの既に遅く、審神者は顔を曇らせ、長谷部の手を離した。熱が離れ、途端に指先から冷えていく感覚があった。
「長谷部、俺は、命令しているわけじゃないんだよ」
「あ、主、今のは、その」
「でも、そう思わせてしまったならごめん」
「ちが、」
「いいんだよ。お前が優しいから、勘違いしてたみたいだ。主命をきいてくれていただけなのに」
ごめん、と震える声で言うと、審神者は顔を伏せてしまって、もう長谷部と視線も交わらない。その肩が震えているのが分かって、長谷部は「違うんです!」と思わず声を張った。
「今のは、つい、癖というか、いつも言っているので口をついて出たというか、俺は、っ俺も! 主のことが好きで、主命でも、あ、いや、主命とは関係なく、それ以上に、俺は、主を好きで、好きというのは、無論、愛の方で、あ、これは本当に、主命に従っているわけではなくてですね……!」
「ふっ、くく」
「え」
思いつく限りの言葉をあわあわとしながら並べていると、噴き出すような音で中断される。肩を震わせていた審神者が、ふと見れば口元を押さえているものの、ニヤニヤしているのが分かった。
「え、え?」
「ごめん、我慢しようと、っ思ってた、んだけど、っく、ふふ、だはははは!」
混乱する長谷部に、審神者は我慢できないというようについに声をあげて笑い出す。笑いながら懐から出したものを見て、長谷部はぎょっとした。
「そ、それは……!」
「お前さあ、何を愛読してんだよ。『これで貴方も審神者と恋仲!政府特別監修刀別解説完全収録パーフェクトマニュアル』って。口に出すのも恥ずかしすぎるわ」
「あっ、あー!」
「個室とは言え、近侍部屋なんて俺も入る時あるのに、どうして机の上に出しっぱなしにしちゃうかなあ。言っとくけど、今に始まったことじゃないぞ」
「かかか返して下さい!」
「『男審神者』と『へし切長谷部』の頁に折り目ついてるし。わざとかと思ったよ。何? 童貞か非童貞かで対応を変える必要があり……く、くだらねえ」
「わー!わー!」
「あ、こら」
無我夢中で本に飛びついたものの、勢いが余り過ぎた。本に手が届く前に、審神者の肩を押す形になり、慌てて勢いを殺したものの、気付けば押し倒してしまって長谷部の体の下にいる審神者が、びっくりしたように瞬きしてからまたにやにや笑いを浮かべている。
「これもマニュアルに書いてあった? ん?」
「……っ」
最早何をしても墓穴だった。
「お、俺をからかったんですね……? ひどい、さっきのも、全部…っう、うそで……」
顔から火が出る程恥ずかしいし、泣きたい。本の存在も、読んでた頁までバレているとなれば審神者の行動にも合点がいった。
しかし、審神者は「んん?」と不思議そうな顔をしている。
「からかったけど、別に嘘ついたわけじゃないよ」
よいしょ、という声と共に審神者が体を起こすと、長谷部の体もつられて押され、再び距離が近くなる。
「従順で、真面目で、一生懸命で、なのに俺に見られちゃまずい本を置きっぱなしにしちゃうような、ちょっと抜けてる長谷部のことが大好きだし、恋人になってほしいって思ってる」
「えっ」
「ひどいのはお前の方だろ」
「……え?」
「俺の気持ち、気付いてたくせにこーんなクソ政府監修のクソマニュアル本に書いてあること鵜呑みにして焦らすんだもんなあ」
「そ、そんな、焦らしてなど……」
「焦らされたよ、俺は。だからさ」
本はもう、審神者の手から離れていた。代わりに長谷部の頬に触れて、かさついた指先が優しく目尻を撫でる。
「マニュアルも主命も関係ない、お前の言葉でもう一回、返事が聞きたいな」
「っ、俺、は……」
「うん」
撫でる手も声も優しくて、また頭の中が真っ白になった。けれど、つっかえながら、掠れた声でどうにか思いの丈を告げると、審神者はやはり、嬉しそうに目を細めた。
「知ってたよ」
そう、囁いて、優しく笑ったのだった。