岬にて 「オレのものになってくれる?」
もう十分お前のものなのに、こんなにお前に曝け出しているのにまだいるのか?という疑問は言葉にならず、無様な呻き声になって漏れ出た。
「はは、一成さん可愛い」
俺の何を見てそう言ったのか知りたくもないが、それでも俺はその時何かを言い返す気力がなかった。顔を寄せられ、唇に熱くキスを落とされながら、今のはプロポーズだったのだろうか、と思った。
こんな、抵抗できない状態の時に言うのはずるい。断れないのを知っていて、そうやってわざと言葉にするのかと少しだけ悲しくなる。断るわけない、気持ちが伝わっていないのかと不安になる。いや、多分、違うんだろうな。
こいつはきっと、明確な証が欲しいのだろう。
気持ちはもちろん伝わっている。愛情も痛いほどに分かる。それでも、お互いがお互いのものである確証が欲しい。欲しくなった。それだけだろう。
馬鹿なこと言うな、もうずっと前からお前のものだ。安心しろ。
そう言ってやりたいのに、漏れ出るのは言葉にもならない音のかけらだけ。動きは止まらない。潤む視界で見上げたら、その中にある顔も泣きそうに見えた。俺がそう思い込んでるだけか。分からないけど、プロポーズにも似た言葉を告げて、泣きそうに笑っている。
相変わらずすぐ泣く。ピョン。
言いたいのに言えなかったな。
結婚を意識し始めているのには、気付いていた。元来、隠し事ができない男。ショッピングモールで宝石店の近くを通る時も、大規模な結婚式場の横を車で通過する時も、結婚に関するコマーシャルが流れる時も、ソワソワとして気まずそうに目線を逸らす。
分かりやすい男だ。
もうすぐ付き合って十年の節目。出会ってからは十三年。想いを告げ、恋人同士になるまでは自分のせいで時間がかかってしまった自覚があるから、その分大切に、この年下の恋人を慈しんできたつもりだ。
別に今更断らないのに。お前のために、海まで超えて来たのだから。
そう思いながら、繋がれた指先を眺める。あの頃、まだお互いが学生だった時は手が触れるのにも緊張して、相手の一挙手一投足に振り回されていたのに、今はこんなにも自然に隣を歩くのが当たり前になっている。
「こっちこっち、一成さん」
「栄治、引っ張るな」
「早くしないと沈んじゃうよ」
手を引かれて向かう場所は、この街で一番夕陽が綺麗だという岬。恋人たちに人気のスポットで、絵葉書や写真集などにも載る観光スポットだ。この街に越して来てから、口癖のように「ふたりで見にいこう」と言っていた。お互いの仕事が忙しくなかなか時間が取れなかったから、約束してから随分と経つが、二人して子供みたいに指折り数えてこの日を楽しみにしていた。
丘を超えた先にある切り立った岬から、海が見渡せた。前髪を撫でる潮風が冷たくて、この風がどこから吹いているのか想像させる。遠い海の向こう、その太平洋を超えた先の故郷である日本へとつながる風。もうずっと帰っていない。
「わあ、すごいね。絶景」
感動のため息をつく。俺も一緒になってその光景に見入った。空には濃い藍色のグラデーション。太陽は沈みかけていて、最後の輝きと言わんばかりに燃えている。今日が終わるまであと少し。夜へと向かうこのひと時を、恋人や家族たちと穏やかに過ごす人々。岬の一部は芝生となっていて、思い思いに寝転び、寄り添いながら夜を待っている。
「これは確かに、絵になる」
この場所は、古くから多くの画家やカメラマンがその美しさを描いてきた場所だ。よく見ると、写真を撮っている人も多くいる。綺麗なものを形に残したい、と思うのも分かる気がする。俺は生憎、絵も写真もやらないけれど、今この光景を、隣にいる人を焼き付けて、残しておきたいと思った。
「綺麗だね」
「…どこ見て言ってるんだ」
俺の方を見ながら言うから、つい笑ってそう返してしまった。呆れて振り向いた先には、それでもうっとりと、微笑みを浮かべて俺を見る愛しい顔。
「一成さんのこと、ずっと綺麗だなって思ってる」
「もうお互いアラサーなのに」
「はは、ほんと。ここまで早かったね」
空いている手で、目元にかかる俺の前髪を払ってくれた。目線に吸い寄せられて、俺を熱く見つめるヘーゼルの瞳を見つめ返す。
波の音が一定のリズムで聞こえ、時々カモメが鳴く音がする。十年目になる恋人と手を繋ぎ、この瞬間を心に刻む。なんて贅沢な時間なんだろう。ずっとこんな時間が続けばいいのに、と思った。この十年、いろいろあったけれど、ただ一人の恋人と今こうして一緒にいられて良かった。楽しかった。苦しい時も辛い時もあったけれど、文字通り支え合ってここまで来た。
激動の二十代を終えて、小休憩。二人で選んだ場所は、自分たちの故郷といえる秋田と同じくらい自然豊かで静かな場所だ。
その事が感慨深くて、昔が懐かしくて、今は楽しい。
「栄治」
何より、名前を呼べばすぐに返事がある距離にいられることが嬉しい。
「ずっと一緒にいたい」
「?うん、もちろんだよ」
分かってない男だな。お前がこの数日何を言いたくて、どうしたいかなんてこっちはずっと分かってるのに、と思ったけれど言わなかった。伝えたいのはそれじゃない。
「結婚するか」
普段から大きな目が、さらにぎょっと見開かれる。あれ、違ったか?だけど、俺が今伝えたいのはこれで、結局全部この言葉に凝縮されてしまうのだ。
開かれたままの目から、ぽろっと涙がこぼれ落ちた。夕陽に照らされて、それはオレンジ色をしていた。綺麗な男の涙は、色まで綺麗らしい。
「オレが先に言いたかった」
握ったままの指先にキュッと力を込められる。
「先に言ったもん勝ちピョン」
「はは、ピョンって、久しぶりに聞いた…」
泣きながら笑う彼の目元を指の背で拭う。染み込んだ涙は少し熱くて、オレンジのままだった。
「実は、ちょっと悩んでたんだ」
俯き加減で少し弱々しい声。悩む。そうだろうな、そんなふうに見えた。
「一成さんが、全部捨ててオレのところに来てくれたのに、まだ欲しがるのかって」
その言葉に、あの態度はそのせいか、と納得した。そわそわしてタイミングを測っていたわけじゃなく、単純に不安だったらしい。だけど何を?今更、断るわけもない。
「結婚って簡単なものじゃない。恋人とはまた違うよね。お互いの全部を、最後まで一緒にっていう決断。オレ、深津さんしかいなかったからそれ以外考えられないけど、でももしかしたら深津さんはこれから…───」
途切れた言葉は、俺の唇の奥に消えた。ベッドの上ならまだしも、外では滅多にしない、俺からのキス。
ちゅ、と音を立てて唇を離す。薄茶色の瞳の奥で、夕陽の赤が燃えていた。
分かっている。その不安も、愛情からくる的外れな思いやりも。この恋人は、不安になったり焦ったりすると呼び方が高校時代に戻る。分かりやすくていいけれど、それでも名前で呼んでほしい。もう、みんなの「深津さん」じゃなくお前だけの「一成さん」なんだから。
「俺にもお前だけだ」
それだけ言って、もう一度唇を重ねた。少しだけ上唇を甘く吸って、また離す。こんなキス、お前としかした事がない。ずっと俺のエースで、初めて実った恋で、大事な人。
夕陽が沈んでいく。空は赤とオレンジと、薄いブルーから濃い藍色へ。太陽の光を残した雲も、どんどん灰色になっていく。手を繋ぐ二人の影もやがて濃くなり、一つへと。
「先輩を差し置いて先に言おうなんて、生意気ピョン。沢北」
「生意気って余計」
「事実だピョン」
「でもそんなとこも好きでしょ、深津さん」
息だけで笑って見せて、肯定の代わりに背中に手を回す。たくましい肩に頬を寄せ、その匂いを吸い込んだ。潮風と、暖かさと、大好きな恋人の匂い。これから、家族になる匂い。
「深津さん、大好き」
「うん、俺も。沢北」
懐かしい言葉で、懐かしい呼び方で互いの愛を確かめ合う。沢北は、栄治は、もう不安じゃないだろうか。
「結婚しましょう」
頷いて、ぎゅっと抱きしめた。始まりの十代、燃え盛る二十代。迎える三十代は、熱を残した濃いブルーの穏やかな季節。
恋人が、家族になる。
暖かな夕陽を見送った、初夏の岬にて。
June Bride Fes. 2024.06.30