可愛いやつ 深津は耳が良い。チームメイトの足音も、教師が遠くで誰かを呼ぶ声も、誰のものかすぐに判別できた。同級生が近付いてきたのが分かって、振り向かずに名前を呼んだらひどく驚かれたこともある。それぞれにそれぞれの音。特徴的な声や足音。聞き分けるのは昔から簡単で、この特技は男ばかりの寮生活でも役に立った。
コンコン、と控えめなノック音。
深津の自室を訪ねてきたのが誰か、すぐに分かった。顔を上げて、読んでいたバスケ雑誌を一度横に置き、立ち上がる。扉の前まで行って、消灯前の訪問者を念のため覗き穴から確認した。
やっぱりな、と深津は覗き穴から顔を離して思った。予想通り、訪ねてくると思った。
「深津さあん…」
犬がくうんと鳴くかのように情けない声を出した訪問者は、深津がドアノブを回して扉を開けた時、眉毛を下げて口をへの字に曲げて、ちょっぴり拗ねたをしていた。
「沢北」
名前を呼ぶと、一瞬で嬉しそうな顔をして部屋に入ってくる。3年になってから1人部屋になったおかげで、こうして沢北が突然訪ねてきても同室者を気にしなくて済むようになった。
「なんで返信くれないんすか」
「返信?」
「部屋行ってもいい?ってラインしたでしょ」
「気付かなかった、本読んでたピョン」
もう、と言いながら沢北はすぐに腕を伸ばして深津に絡んでくる。扉を閉めた背中をすぐに抱きしめられ、深津は扉と沢北の間に挟まれる形になった。
「会いたかった」
「………」
さっきまで一緒にバスケしてただろ、とは言ってやらない。部活後に夕食をとり、風呂に入り、学校の宿題やら準備やらをして、やっと自由時間。その間離れていたのが寂しい、と沢北は言っているのだ。
「深津さんのにおい…」
そんなもの嗅ぐな、とも言ってやらない。しょうがない。沢北は浮かれているのだ。付き合ったばかりの一つ年上の恋人に甘えたくてしょうがないのだから。
スーハー、と音を立てて深津の首筋を存分に堪能し、やっと沢北は深津から体を少し離した。けれども指先だけは深津の手に絡めたままで、そのままベッドへ移動するよう促す。深津は何も言わず、大人しくそれに従った。しょうがない、深津も浮かれている。
「月バス読んでたんすか」
ベッドに乗り上げた沢北は、無造作に置かれた雑誌を見てそう言った。読みかけのページが開いたままで、そこには来週の練習試合で対戦する相手チームが掲載されている。
「練習試合のために予習してるのに、お邪魔虫が来たピョン」
「だって返信ないから、心配になって」
「ダメって返信しても来るだろ」
「そうなんですけど」
にこにこと笑う沢北は、目元を緩めて嬉しそうだ。ん、と両腕を広げて深津にハグを要求する。深津も深津で、沢北との恋人同士としての触れ合いに照れ臭さを感じながら、嫌な気はしなかったので素直にその胸に飛び込んだ。
「あーー、深津さん最高。だいすき…」
返事の代わりに、大きな背中に腕を回して力を込めた。ベッドの上で真正面から抱き合えば、2人の心音も重なるほどに密着し、心地よかった。自分とは違う体温と肌触りに、一日の疲れが吹っ飛んでいく気がする。張り詰めていた感覚がほどけていくようで、深津は頭がぼんやりとするのを感じながら、体の力を抜いた。
「邪魔してごめんなさい、でも会いたくて」
「いいピョン、来るだろうなと思ってたピョン」
「えへへ」
少し高い位置からはにかむ気配がして、深津も嬉しくなった。鼻先を沢北の肩口にあて、少し吸い込むと確かに沢北の匂いがした。ただ呼吸しているだけなのに、好きな人の匂いを吸い込むたびに胸の奥が切なく疼く。先ほど沢北が深津の首筋を嗅いでいたのも分かる。どうしようもなく幸せだ。
「今日の練習、いつもより軽かったですね」
「うん、来週に向けて調整しないとピョン。やりすぎて使い物にならなかったら意味ないピョン」
「でも深津さんは疲れてそう」
「そんなことないピョン」
「練習の後もミーティングしてたし、監督に呼ばれてたし、あと学校の課題もでしょ」
「練習試合終わるまではそんな感じ、いつものことピョン」
「でも心配」
んー、と沢北が深津の後頭部を撫で、額にキスを落とした。柔らかい感触に、また深津の胸の奥が甘く痺れる。
「オレの前では甘えて欲しいな」
はちみつを煮詰めたような蕩ける顔で、沢北は深津に微笑みかけた。もともと顔がいいので、恋人に向けたそんな表情もサマになる。つい見惚れてしまった深津は、一瞬時が止まってしまったような感覚になり、ハッとした。
「…生意気ピョン」
口から出たのは照れ隠しのそんな一言で、全く可愛くない。沢北は、えぇーと大袈裟に驚いて、「照れてるんだ」ともっと生意気なことを言う。
「ねえちゅーしたい」
「……」
「おねがい!くっついてたらしたくなっちゃった」
深津が眉を寄せたのを見て、沢北はじれったそうに言った。さりげなく深津のうなじに手を回して頭を固定しているあたり、頼み込めば許してもらえると思っているのだ。
深津はまだキスが苦手だった。一度許せば沢北は何度も何度も強請ってきて離してくれないし、柔らかい唇が深津の上唇を撫で、食み、舌が口内を蹂躙する感覚と息苦しさに、いつも訳が分からなくなってしまうからだ。
初めてキスした時は、こんなじゃなかった、と思い出す。今思えば、ファーストキスは可愛いもので、お互いに作法も何も知らないからただ口と口を合わせただけだった。やがて、欲しがりの沢北が何度もキスを強請り、舌を入れ、唾液を吸って、深津が苦しさに沢北の胸を叩くまでやめてくれないようになった。キスが終わると沢北はいつも余裕そうで、深津はそれが少し悔しい。お互い童貞のはずなのに、翻弄されるのはいつも深津の方で、だから長いキスがまだ苦手だ。
「しない」
「えー!なんで。お願い」
「お前、いつも長くなるピョン」
「今日はすぐ終わらせるから!」
「しない」
「ちょっとちゅってするだけ!ほんとに!」
深津がじとっとした目で沢北を睨む。そんなこと言って、いつもじゅるじゅるしまくるのは誰だ、と言いたい。そんな深津の気持ちを知らない沢北は、完全に甘えモードで深津をぎゅうぎゅうと抱きしめたまま、うるうると目を潤ませる。
「オレとのちゅー、やなの?」
「嫌じゃないけど、今日はしない。もう消灯ピョン」
「なにがダメ?どこが嫌?」
「だから、キスは嫌じゃないけど、長くなるのが嫌ピョン」
「じゃあほんと、短いのでいいから!舌入れないし、重ねるだけ!おねがい深津さん」
まくしたてて必死な沢北に、そんなにしたいのか、と深津は可笑しくなってしまう。フッと笑いが溢れて、沢北はなんで笑うの、とさらに拗ねた顔をする。
「そんな必死になることピョン?」
「だってせっかくイチャイチャしてるのに、ちゅーは出来ないなんて無理。耐えられない。深津さんとちゅーするの気持ちいいからずっとしたい」
あからさまな言葉に、深津も少し顔が火照るのを感じながら、しょうがない、と首を伸ばして顔を近づける。沢北には何もかも許してばかりだ。
「お前、可愛いピョン」
ん?と沢北が首を傾げた。吐息が触れ合う距離で、笑いながら沢北の首に手を回す深津と、ムッと唇を突き出す沢北。
「オレ、可愛い?かっこいいじゃなく?」
「うん、可愛い」
空気が甘く湧き立つ。キスをする時、世界が2人きりのように静かになるのは好きだった。お互いがお互いしか見えていない。長くてしつこい沢北のキスはまだ苦手だけれど、それでも深津は、大好きな恋人のおねだりに弱い。至近距離まで近付いて、お望み通り唇を重ねようとした。その時───。
コンコンコン。
自室の扉が叩かれる音。2人でハッとして、触れる寸前だった顔を離した。顔を見合わせて、扉を見つめた。
コンコンコンコン。
再度叩かれたノック音に、沢北が「……誰?」と小さく呟く。
「この音は、松本ピョン」
深津は立ち上がると、静かに扉に近づいた。すぐに返事がない時、少し急かすようにノックをするのが松本の癖。
「深津、いるか?」
「ピョン」
部屋の前には、英語の参考書を手にした就寝前の松本が立っていた。
「すまん、これ返すの忘れてた。明日1限で使うだろ」
普段通りの松本に、深津はさっきまでキスする寸前だったのを気取られないよう注意しながら、バクバクする心臓を無視して続けた。
「ありがとピョン」
「なんだ、沢北いたのか。もう消灯だぞ」
「分かってますー」
ぶすくれた返事をする沢北を見て、「お前も大変だな」と深津の肩を叩く松本は、沢北が不機嫌な理由を知る由もない。2人はあくまで、秘密の恋人同士だった。
「じゃあな、明日また朝練で。沢北、いつまでもここで遊んでないでさっさと戻れよ。おやすみ」
「はーい」
「おやすみピョン」
バタン、と扉が閉まる音と同時に、深津は長く息を吐いた。後ろでは沢北が、また拗ねたまま深津をじっと見ている気配を感じる。
「…いいとこだったのに」
不満そうな声に振り向くと、沢北があぐらをかいて頬杖をついていた。その顔には、不満ですと書かれている。
「別に出なくても、取り込み中って言えばよかったじゃないですか」
「1人で取り込んでるわけないピョン。怪しまれるだろ」
「じゃあちゃんと付き合ってるって言いましょうよ」
「男同士なんて言えるわけないピョン。驚かせて引かれるのがオチピョン」
「あの人たちがそんな事すると思えないですけど」
あの人たち、と沢北が特になついているレギュラーメンバーを連想する。松本、河田、野辺…、確かに信頼のおける友人たちだが、こんなことで友情にヒビを入れたくなかった。
「いいピョン、その話は。今はお前だけで」
「お前だけ?」
深津が再びベッドに戻り、あぐらをかいた沢北の上に乗っかった。拗ねた恋人の機嫌を取らなければ。すると沢北はすぐに嬉しそうに、深津の腰に手を回した。
「お前が可愛いのを知ってるのは俺だけでいいピョン」
「えー!オレ、可愛いじゃなくてカッコイイがいいんですけど!」
「はいはい、かっこいいピョン」
「もう!深津さ…ん、」
まだ喚いている沢北の唇を、深津が掠め取る。柔らかい感触が伝わってきて、その甘さに切なくなる。深津からキスをするのは初めてだった。沢北は一瞬目を見開いた後、大人しく力を抜いた。
「ほんとにこれだけ?」
唇を離すと、沢北が深津を見上げて低く呟く。可愛いだなんだと言っていた時とは違い、情欲の混じった、妖しい目をして深津を見つめる。
「もっとしたいのは深津さんじゃないの?」
キスは苦手だ、沢北から仕掛けられる長いキスは特に。だけど、それは主導権を握られ翻弄されるからで、もしかしたら自分からすれば良いのかもしれない。深津の頭に浮かんだのはそんな考えで、それを知ってか知らずか、沢北は目を見つめたまま囁いた。
「深津さんからして」
膝立ちで沢北にまたがる深津は、恋人の顔を見下ろしながら小さく息を吐く。少し緊張しているが、してみても良いかもしれない。
そっと沢北の頬に手を当てて、顔を近付ける。距離感を見誤らないよう、もう一度優しく唇を触れ合わせて、今度は少しだけその柔らかさを堪能するように吸ってみた。
「ん…っ」
沢北が小さく息を溢すのが嬉しくて、吸った瞬間に開いた唇の間から舌を差し込む。くちゅ、と音がして唾液が絡む。沢北の口の中は少し冷たい気がして、だけどその奥にある舌を深津自身の舌と絡めたら、あっという間に熱くなっていく。
すり、と舌同士を擦り合わせて、唾液を吸って、歯列をなぞった。無意識のうちに顔の角度を変えて、さらに大きく口を開きながら、沢北とのキスを堪能する。
「ん、んぅ…」
「ふふ、深津さ…っ、ん」
ぴちゃ、くちゃ、と音が鳴るのが恥ずかしいのにやめられない。瞳を閉じて沢北の舌を追い、キスに没頭していると、だんだんと息が苦しくなってくる。
「は、ぁ…ん、ん、さわきた…」
「んー、うん、…ひもひい」
少し離して上唇だけをくっつけたまま、沢北がつぶやいた。またすぐに唇を合わせて、今度は沢北が深津の唇を食べる勢いでキスしてくる。
「ん…っ、んぅ、さわき…」
背中を撫で回していた沢北の手が、いつの間にか耳の辺りをくすぐっていた。
「ぁっ!」
そして耳たぶを撫でられた瞬間、今まで出したことのない甘い声が出た。じんわりとした甘いキスの間に、不意に耳をくすぐられて、深津の腰が抜ける。体に痺れが走ったようなむず痒い感覚に驚いた。
「深津さん可愛い」
離した唇から白い唾液の糸が伸びる。かまわず沢北は、腰の抜けた深津をそのまま押し倒し、その上に乗り上げた。
「もっとしたい」
ちゅ、ちゅ、と沢北が首筋に吸い付いてくる。
呼吸が浅くなり頭がぼんやりとしながら、深津はやっぱり沢北にされるがままだ、と思った。自分からキスすれば、まだタイミングよくやめられるかもと思っていたのに、結局うまく出来なかった。最後は沢北にもっていかれた、こんなはずでは。
そう思った時、深津の腰になにか固いものが当たった。おそるおそる視線を下げれば、沢北の下半身が盛り上がっていた。それを認識した瞬間、深津の胸がドキンと跳ねた。男同士だからすぐに分かる。これはきっと、そうに違いない。
「深津さん、ねえもっと」
可愛いことを言っているのに、沢北の下半身は全く可愛くない。深津も少し兆していたので、続きをしたい気持ちは良く分かる。分かるが、でも、このままするのか?と、深津はぐるぐると思考が止まらない。
「ねえ深津さん」
沢北が顔中にキスをしながらせがんでくる。顎にちゅっと吸いつかれた。体が甘いシロップにでも浸かっているかのように、ふわふわとして力が入らない。
セックスの知識なんて何もない、まさか今日になるなんて。なんの準備もしていないし、なによりどこをどうすれば良いのか見当もつかない。普段一人でやるオナニーと同じともいかないだろう。
「深津さん、大好きだよ。もっとしよう」
でも、でも、やり方なんて知らなくても、沢北の体を触って、触られて、気持ちよくなれたら。こういうことをする時の独特の甘い雰囲気にあてられて、沢北と一緒におかしくなってみたい。
そんな風に深津が思いかけた時、ふと部屋の掛け時計が目に入った。
「ねえ」
「さ…沢北…」
「ん?」
とろんとした目で顔を覗き込む沢北に、深津は汗ばんだ指で時計を指差す。
「消灯ピョン、部屋もどれ」
「えっ…ええーーっ!?今!?」
「今ピョン…」
時計は22時58分を指している。消灯時間である23時まであと2分しかない。消灯になれば部屋と廊下の電気が消え、小さな常夜灯のみになる。消灯後に部屋に戻るには、暗い廊下を進まなければいけない。
深津の頭を一気に現実に引き戻したのは、どうにもできない寮の規則だった。
「そんな、そんなエロい深津さん残して帰れって言うの?」
沢北の肩を押し除ける深津に、沢北は息を乱しながら強く抱きつく。
「これどうしたらいいの」
ゴリ、と押し付けられる沢北の下半身に深津はため息をつく。
「…まだ出来ないピョン。それに、俺も苦しいピョン」
深津が顎を下げ、自身の下半身に目をやる。深津も続きがしたい。できればこのまま、もっと気持ち良くなって欲を吐き出したい。キスだけでこんなになってしまった。それなら、その先はどんなに気持ちいいだろう。そう期待するが、やっぱりその未知の体験には怖れも含まれていて、消灯時間を破ってまで続きをするには、2人とも知識と余裕が足りなかった。
沢北が深津の目線につられて互いの下半身を確認する。少し考えた後、寂しそうに頷いた。
「分かった、でも」
沢北が体を起こす。渋々、といった形で不服そうに唇を尖らせ、まだ横になっている深津を振り返った。
「いつか、絶対深津さんの事抱くからね」
熱く見つめて囁いて、唇に一度だけキスを落とすと、沢北は立ち上がりベッドから降りた。その背中を見送る事しかできない深津は、まだじんわりと残る熱を吐息に吐き出しながら、沢北に言われた言葉の意味を考えていた。
「おやすみなさい」
こちらを見ずに沢北が言って、扉が閉まった。いつもより寂しそうな足音が遠ざかっていくのを聞きながら、深津ははぁ、と胸に溜まった息を吐き出し、頭を抱える。
いつか沢北に抱かれる───。
先程の沢北を思い出して、さらに恥ずかしくなり、枕に顔を埋める。
自分からキスしてしまった、キスをしながら耳たぶを触られた、腰が抜けて、沢北に押し倒された。その上…、と、深津は下半身に集まる熱を意識した。今までキスをして抱き合うだけでも、少なからず欲が湧き起こるのは感じていたが、こんなにもしっかりと勃つとは思わなかった。
沢北も同じだったな、と思う。深津はその事に少しだけ安堵する。同じくらい沢北も深津に対して性欲があるのだ、キスやハグだけの関係ではない。どっちが抱かれるとか、そんな話はしたことがなかった。けれど、今日明確に沢北に宣言され、深津の中に「抱かれる」という選択肢が現実味を帯びて襲ってくる。
「全然可愛くないピョン…」
あんなにギラギラした目をする男を、ただ可愛いなんて思っていた自分に呆れてしまう。あれは完全に、深津を喰い明かそうとしている目だ。
独り言を言っても、その声が届く主はもう居ない。考える事、やる事はたくさんあるが、何よりもまず自分の体をどうにかしなくては。
深津はぎゅっと目を瞑り、体に残る甘酸っぱい痺れに浸りながら、そっと下半身に手を伸ばした。