ばぼすこちゃんギャルソンが得意気に語る蘊蓄を右から左へと受け流しながら、注がれた赤ワインを混ぜるようにして男はグラスを大きく左右に傾けていた。その度に赤い液体はワイングラスの中で踊るように波打ちながらその色を深めていく。すっかり血と見分けがつかないほど赤を強めた液体を見て、男は満足そうにそれをひと飲みした。
「随分と行儀が悪いのね、バーボン」
「おや、それは失礼しました。なにぶん教養がないものでね……」
呆れたように口に出したベルモットの言葉に、バーボンは悪びれた様子もなくその金糸を軽く揺らして肩を竦めた。その視線の先には闇を知らない東京の夜景が広がっている。ネオンサインがまるで星空のように煌めく街をぼんやりと見下ろしながら、退屈そうに再びグラスを傾け始める姿にベルモットは小さくため息をつき、グラスの中のワインを煽った。まったく、嫌なくらいわかりやすい男だ。
「_____それで、お味はお気に召したかしら?」
「ええ、とっても。最後の晩餐候補になるくらいには。やはり貴女の選ぶ店はどこも外れがない」
「貴方が言うととても本当だとは信じ難いわね」
「まさか。僕はいつも事実しか言ってませんよ」
実際、バーボンの言葉に嘘はひとつも含まれていない。ベルモット程ではないにしろ、腕のたつ幼なじみのお陰で随分と肥えたバーボンの舌もこの店の料理には低く唸ったほどだ。色彩豊かで壁画のような美しさを讃えたテリーヌも、食欲をそそる様なこんがりとした焼き目の中に柔らかくジューシーな身を隠した鴨のコンフィも、優しい風味の中に地中海の広大な海を思わせる海老のビスクもどれも舌鼓を打つほどの美味しさだった。
ただ、バーボンは自分の幼なじみが手がけた料理以上に心躍るものに出会ったことはないし、これから先も出会うことはないだろうと思っている_____それだけのことだ。
手元の腕時計をちらりと覗き見る。短針はもう少しで9の文字に辿り着こうとしていた。幼なじみ兼恋人に帰宅すると約束した時間まであと三十分と少ししかない。目の前の魔女がさながらエリザベート・バートリーの如く赤ワインを口に含む姿にバーボンの顔が苦虫を噛み潰したような表情を浮かべた。この調子ではいつ帰れるかわかったものではない。
「ふふ、親の仇のようにワインを見つめていったいどうしたの、バーボン?」
「……いえ、別に」
「貴方存外顔に出るわよね。……料理も楽しんだことだし、そろそろ行きましょうか」
「えぇ、そうしましょう、それがいい、さぁほら」
「少し落ち着きなさい。犬みたいよ今の貴方」
犬呼ばわりに苛立ちを覚えつつも、確かにこんなことで慌てていても仕方ないと自分を落ち着かせるようにバーボンは深く深呼吸をした。この女の前でみっともないところを見せるわけにはいかないのだ。それがいったい何時、どんな形で弱みになるかわからない。
会計を済ませるべくウェイターを呼びつけるベルモットの姿を横目に見つつ、ポケットからスマホを取り出して画面を確認する。メッセージアプリに届いていた美味しそうなマフィンの写真と待ってるね、と末尾に可愛らしい絵文字のつけられたメッセージに思わず普段は硬いその頬が緩んだ。あいつの料理はいつだって別腹だ、特にスイーツは。ベルモットと食事をするけどきっと小腹が空くだろうから、何か口に入れるもの作ってくれというアバウトな注文も受け入れてくれる心の広い恋人が愛おしくて仕方ない。おっといけない、誰が見てるかわからないんだ。もっと緊張感を持て降谷零。
目を伏せて小さく息を吐いた後、もう一度画面に向き直した。その指先で流れるようにメッセージアプリに文字を打ち込んでいく。後は送信するだけ、といったところで右肩に軽い衝撃を感じ、バーボンはその手を止めた。そのままゆっくりと振り返る。じとりと睨みつけるかのような視線の先には愉快そうに笑うベルモットの姿があった。
「あら怖い顔。ごめんなさいね、誰かへの連絡だった?」
「いえ……それよりどうかしました?」
「実はこの後少し付き合ってもらいたいところがあるの。いいかしら?」
「すみません、今日は少し……」
「色々と話したいことがあるの。……そうね、じゃあもしこの後付き合ってくれたら何でも一つ、お願いを聞いてあげる。これでどうかしら?」
「……随分と、大盤振る舞いですね」
悪い話じゃないでしょう、と血のように赤いリップで彩られたベルモットの唇が妖しげに伸ばされた。
彼女の言葉が真実なら願ってもいないチャンスだ。探り屋バーボンにとっても、公安警察の降谷零にとっても。だが、それと同時にそれは罠なのではと勘ぐってしまう自分がいるのも事実だった。ベルモットは組織の中でも群を抜いて頭が切れる女だ。そんな彼女が、わざわざ自分に有利になるような条件を提示してくるとは到底思えない。イエスと首を縦に振るか、ノーと横に振るか。どちらがより自分の利益になるか。どちらがよりノーリスクでことを進められるか。
メッセージアプリをもう一度開いた。何度見てもそこには恋人お手製の美味しそうな料理の写真と、可愛らしいメッセージが確かに写っている。息を吸って、吐く。_____ごめん、ヒロ。意思が弱くて。ほんとにごめん。途中まで打ち込まれていたメッセージを消して、代わりに謝罪とともに少し遅くなるという旨のメッセージを打ち込んだ。送信。緑色の吹き出しに自分の文面が現れる。
愉快そうに笑うベルモットに心底不愉快そうな表情を浮かべながら、バーボンは小さくひとつ頷いた。
降谷零という男は存外酒が弱い。その日本人離れした容姿のせいで周囲からは勝手に酒が強いと思われているが、実際はその逆で一度飲み比べをすれば誰よりも早く酔い潰れる自信があった。ビールは三杯が正常な思考の限度だ。
ワインやウイスキーなどのアルコール度数が高いものはより限度が低くなる。グラスに換算して二杯も飲めばそれなりに酔いが回るし、三杯も飲んでしまえばもう立派な酔っ払いだ。先程のフレンチレストランでバーボンが嗜んだ赤ワインは一杯と約半分。つまるところ、彼は店の戸を出た時点で既に半分酔っ払っていたことになる。加えて隣を連れ歩いた男が若干理性を飛ばし始めていたことにベルモットは気がついていなかった。