妖パロ『おい、聞いたか』
『聞いたって、何をだい』
『諸伏んとこの末の子だよ。齢を十五を超えたそうだ』
『ああ、確か三毛の男子だろう?息災じゃないか。同じ三毛でも、確か遠縁の子は十年も生きられなかったからねぇ。人の姿にも化けられるようになったらしいじゃないか』
『こりゃ後継ぎは末の子か上のお兄さんかねぇ。親父さんももう長くはないだろう。あの子らのどちらかが当主になりゃ猫又の力も強まるんじゃないのかい』
『親父さんも猫又の中じゃなかなかな御人だったが、種族というのは恨めしいねぇ……どう足掻いても短命で非力だ。あの子らが変えてくれるといいんだが』
『おい、今度は諸伏のとこが狙われたんだってな……』
『らしいな……上のお兄さんと末の子が生きていただけでも幸運だわ』
『まったくだ……これから何事もなく無事に過ごすことができればいいんだがねぇ……』
『おい、聞いたか』
『聞いたさ、今日もまた誉をあげたんだろう?』
『ああ……あいつはほんとに猫又かい?三毛の男子っつうだけでここまで変わっちまうのか?』
『俺に聞かれても知んねぇよ、言えるのはこの戦が終わるまで下手に出歩かない方が良いってことさな。今は味方と言えど、いつ食われるかたまったもんじゃねぇ』
『ほんと、敵ながら憐れに思うよ……くわばらくわばら』
春の柔らかな陽光が青々と生い茂る新緑の若葉に降り注がれる。前日の大雨によって作られた水たまりがまだいくつか社へと続く石段にその姿を残していた。額から二本の勇猛な角を生やし、蓬の色をした着物に袖を通した牛鬼は水が跳ねるのも厭わずに力強く踏みしめながら百近くにもわたる階段を登っていく。ぱしゃりぱしゃり、と一段登る度に幼子が遊んだかのごとく水しぶきが辺りに跳ねた。
牛鬼_____伊達は緊張していた。それもとても。百年と少し生きてきた伊達であったがここまで緊張したのは、腹痛を催すほどの緊張に悩まされるのは初めてのことであった。キリキリと胃が悲鳴をあげる。心地の悪い汗がたらりと頬を伝って地面に落ち、水たまりと混ざった。
社へ続く階段も残り半分に差し掛かったところで伊達は決して、決してこれは自分が臆しているからではない、自分が弱いからではない、と己に言い聞かせながら一度大きく深呼吸した。実際、伊達はその齢にして非常に強大な妖力を持っている。並大抵の妖なら片手のみでも相手できるし、その気になればこの辺り一体を治めている大将の首も取れるだろうと噂されるほど、伊達は強大な妖力を有していた。ただその噂に天狗になって調子に乗れるほど伊達は若くはなかったし、己の実力に絶対な自信を持てるほど老いてはいなかった。ただそれだけだった。
最後の一段を登り、悠然と聳える大鳥居の下に立つ。先程まで頬を撫でていた心地よい風はいつの間にか止んでいて、代わりに痛いくらい張り詰めた空気が辺りに広がっていた。低級の妖ならすぐさま背を向けて逃げ出しそうな空気_____実際この場には一つを除いて全く気配を感じない_____に思わずごくりと喉を鳴らす。対峙したことのない気配に冷たい汗が伊達の背を伝った。
うちの大将も無茶言いやがる。あの猫又をうちに引き込めだなんて。それで断ったら首を取ってこいだとか、俺の命をなんだと思ってやがんだ。
突然強く風が吹き、桜の花弁が辺りに舞い上がった。一瞬にして目前が桃色に染まり、一歩後退りする。晴れた視界には、鬼の生首を片手に二本の尻尾をゆらゆらと揺らしてこちらを見据える猫又が一人立っていた。
およそ十秒。伊達の脳がその情報を正しく理解するのに要した時間である。この間、男はその目線を一度たりとも外すことなく伊達へと向けていた。無駄なものを全て削ぎ落としたかのような鋭い瞳からは些細な感情すら何一つ読み取ることができず、より一層緊迫した空気が当たりを包む。
対話はほぼ不可能か、ならばやられる前に殺るしかない。それがこの世の理だ。
伊達がそう結論づけたのが先か、はたまた男の口がゆるりと動いたのが先か。どちらにせよ男から飛び出した言葉に再び伊達は思考の海へと沈んでいった。
「わぁ、お客さんかな?こんなへんぴな所までようこそ。お茶でも一杯いかが?」
「階段長かったでしょう?はい、お茶とおかき。ゆっくりしてってね」
「お、おう……ありがとな。いただきます」
いったい何がどうしてこうなったのだろう。
ずず、と一口差し出された茶を口に含みながらぼんやりと伊達は思う。調和の取れた甘みと苦味が口内に広がって、思わず頬が緩んだ。こんなに美味い茶は初めてだ。
先程までの張り詰めた空気が嘘のように辺りには穏やかな情景が広がっていた。小鳥は可愛らしく囀り、紫や桃色の小さな花々はぽつぽつと群れて咲き誇っている。にゃぁん、と小さな鳴き声が聞こえて視線を落とせば子猫が数匹伊達の足元に擦り寄っていた。まとめて伊達に抱き上げられた子猫たちは嬉しそうにごろごろと喉を鳴らした。
「うふふ、珍しいなぁ。その子たちがすぐ懐くなんて」
「そうなのか?うおっ、こら、舐めるなって」
「どの子も可愛いでしょう?その黒い子は鈴。白黒ぶち模様の子は桜で、茶色の子は藤って言うんだ」
「花の名前って……随分安直だなぁ」
「名付けの才がないんだよね……だからここいらのお花の名前を借りたんだ。あ、そういえば君はお名前なんていうの?よければお友達になりたいなぁ」
この辺り、滅多に人が来ないからお友達あんまりいないんだ。
少し気恥しそうに、けれどにこにこと花が咲きそうな笑みを浮かべて男は言う。まるで人を疑うことを知らぬような純粋無垢なその笑みに、伊達はほんの少し畏怖の気持ちを抱いていた。目の前の男が紛れもない化け物に思えて仕方なかった。
騙し騙され殺し殺されが常である今の妖の世では、妖として生まれた子は処世術として自然と自分以外_____親を含めた己以外が常時自分を殺そうとしていると思いながら生きることを覚える。伊達も例外でなく、今は己の組する大将に忠実に仕えているが心の底では誰も信用していない。信じられるのは己だけだった。それがこの男はどうだ。あんなにも血なまぐささを身に纏わせた衝撃的な出会いであったにも関わらず、こうして見ず知らずの男に手を差し出せるなんて。あまりにも世間知らずで素直すぎる。裏を返せばそれだけ素直でも生きてこられるほど強いというわけなのだが。
伊達はこの男が恐ろしかった。しかしそれ以上に自分が馬鹿らしくなった。今まで何を恐れる必要があったと言うのだ。因習じみた暗黙の了解に何を踊らされる必要がある。あんなもの、力の無いものが己の身を守るために生み出したものに過ぎない。そうだ、俺は強いのだ。裏切られようと騙されようと、ちょっとやそっとでは死なぬほど俺は強いのだ。信じたいものを信じ、生きたいように生きていけばいい。少なくとも今の世で、その生き方が俺には許されている。
「……俺は、伊達航。牛鬼だ。お前は?」
「オレは諸伏景光、見ての通り猫又だよ。んふふ、よろしくねぇ」
ゆっくりと差し出された手を伊達はしっかりと握った。