カランコエ「千空、持ってきたぞ」
コハクは千空に貰った合いかぎを使って、玄関の扉を開ける。
千空とは少し前から恋人同士、という関係になった。あれだけ恋愛は非合理的だと否定した男が、ついにコハクという一人の女性に落ち着いた。
千空は今、ラボからほど近いマンションで一人暮らしをしている。
「千空?」
石の靴を脱ぎ、ずんずん進んでいく。
今日は休みだと聞いていたので、家の中にいるはずだ。玄関先には千空の靴があったし、いると思うが。
がちゃっとリビングのドアを開くと、そこに人の気配を感じる。
「あ゙? コハクか」
「着替え中だったか。すまない」
風呂あがりだろうか、千空は頭にタオルを被り、上半身は裸だ。
その時、千空の上半身が視界に入る。左肩には穿ったような傷跡と、腹部の辺りには銃創のような跡が見え隠れしている。
左肩の傷は数年前、かつて宝島と呼ばれた島でメデューサを巡ってイバラと対峙した際に負った傷だと聞いている。そして腹部にある銃創の後は、千空の科学の師匠であるゼノの幼馴染で元軍人のスタンリーが、千空を銃撃した際にできた傷だ。今では傷はすっかり塞がれ、痛みはないと言っていた。
改めて傷を見るのは初めてかもしれない。普段は服で隠れているし、そういうことをする時も暗くて見えないことが多い。
「コハク?」
思わずその傷に触れた。
どちらの傷も負った際、コハクは傍にいなかった。宝島の時はすでに石化しており、スタンリーの時は別行動をしていた。自分が傍にいれば、千空にこんな傷を負わせずに済んだかもしれない。
「…………すまない」
「なにがだ」
「君を守るのが、私の役目なのに……」
なぞるように、傷に触れる。肌の色と同化しているが、触れればそこだけぼこっと指先に違和感を覚える。
今更感傷に耽っても、もう消えない。千空を守ると決めたのに、肝心な時にコハクはいつも傍にいられなかった。悔いても無駄だと頭ではわかっている。それでも、傷を見るたびに悔いてしまう自分がいた。
「テメーがなにを考えてるか知らねぇが、もう終わったことだ」
そういって千空は自身の胸に頭を預けているコハクの頭を抱き寄せる。瞬間、耳に届いたのは千空の心臓の音だ。どくん、と生きている音が聞こえる。
骨ばっている千空の手が、コハクの金の髪に触れ、指先を通り過ぎていく。
「私が傍にいれば……君を守れた」
「そうかもしれねぇけど、俺はテメーがいなくてよかったと思ってる」
「なぜだ? 私では盾にすらならないか?」
「ちげぇよ。テメーがいたら、絶対に俺のこと、身を挺して守るだろ」
「当然だ」
「そうしたら、今、ここにコハクはいないだろ」
そう言われて、コハクは静かに紺碧の双眸を見開く。
一歩間違えれば、コハクの命は今、ここになかったかもしれない。
イバラの爪の攻撃を受ければ、むき身の肩に大きな傷を負っただろう。スタンリーの銃に至っては身を守る方法など、おそらくなかった。千空ですら片栗粉に水を混ぜたダイラタンシー現象で身を守った。しかしそれでも、彼は銃撃をもろに受け、一時は瀕死の重傷を負ったと聞いている。千空だからこそ咄嗟に身を守る術を思いついただろうが、コハクにはその知識がない。下手をすれば、千空は守れても自分が死んでいた可能性は大いにあるだろう。そうすれば、千空を守る、ということすら二度と成し遂げられなかっただろう。
「だからいいんだよ。テメーがあそこにいなくてよかったんだよ」
そう言いながら、千空の腕がコハクの腰に回り力が強まる。頭を撫でる手が温かい。
「わかったか?」
「……ああ、そうだな。君のために、私は生きねばならないな」
「ぜひともそーしてくれ」
頭上で聞こえた声に、コハクは顔を上げる。真紅の双眸が静かにコハクを見下ろしている。そのまま千空の背中に腕を回し、コハクはぎゅっとしがみつく。
耳に聞こえる心音はどくっどくっ、と生きている音がする。その音を聞きながら、コハクはすりっと猫のように、千空の上半身にすり寄った。
ふと、背中に暖かいなにかが触れた。それが千空の手だとわかると、コハクはそのまま腕を背中に回した。