あの景色を追いかけて。暑い、全身が痛い、でも、あと少し…
視界に映る景色は呆れるほどの田舎道で、一車線程の道路を除くと全てが自然に溢れていた。
徐々に足が地面から離れなくなり、焼けたアスファルトの熱が足に伝わる。
脇に東屋が見えたので、少し道を外れて木造の椅子に腰を下ろした。
視界は常に歪み、蜃気楼を捉えることすら難しい状態だ。
もう動きたくない…帰りたい。
こうして挫けそうになる度、朦朧とした意識でこの苦行の始まり、そして遠い昔の事を回想するのだった。
あれは今から二時間前、俺はクーラーの効いた部屋で何をするでもなく、いたずらに時間を食い潰していた。
我が家は取り立てて広いと言うわけでもない無難な一戸建て。
祖父の代からあるらしいが、扉や壁は一式新しい物に替えられている。
二世帯住宅だが子供は俺一人、小さい頃に祖父が他界し、部屋の殆どを持て余していた。
そんな中、俺は祖母の部屋が苦手だった。
壁には般若や能面が飾られており、禍々しい絵や、名状し難い小銭入れ(想定された用途とは違うと思う)等、それが子供の俺に対して夜の墓やお化け屋敷のような恐怖を与えていた。
祖母もそれを知ってか、俺と遊ぶ際に自室に連れ込むような事はしなかった。
今思うと、あれは祖父の形見が多かったのだろう。
祖母は元々生花や書道を嗜んでおり、収集等の趣味は無い人だった。
代わりに祖父はかなりの収集癖があり、骨董品や彫刻などを買ってきては祖母に叱られていた。
殆ど覚えていないが、三歳の誕生日には阿弥陀如来像をプレゼントされ、今も俺の部屋に飾られている。
友達が遊びに来た時なんかは随分不気味がられたもんだ。
祖父と祖母はとても仲が良く、アルバムや居間に飾られてる写真にはいつも二人で並んで写っていた。
中にはセピア色の写真もあったが、見た限り似たような風景が多い。
確か、家のどこかに小綺麗なカメラやフィルムケースが大量に入っている押し入れがあった記憶が…
察するに、祖父はカメラ収集も趣味で、買ったは良いが外に持ち出すのが不安で、近隣でばかり撮っていたのだろう。
でも、それに映る祖母の顔はいつも笑っていたのだ。
ある日、祖父が旅行先で身体を壊し、そのまま病院に運ばれた。
そして一週間の入院の末、お見舞いに来ていた祖母の傍らで息を引き取った。
つい先日まで元気だった姿を見ていただけに、祖母は相当なショックを受けていたと思う。
お遊戯の発表会や卒業式にも毎回足を運んでくれて、誕生日も明るい表情で祝ってくれたが、やはりあの写真ほどの溌剌さを感じる事は無かった。
だが、ある時。
その見覚えのある笑顔を見る事が出来た。
俺は小学校低学年くらいで、祖父の事を教えて欲しいと祖母にねだり、その話の中に出てきたあじさい園に興味を持ったのだ。
祖母はあまり乗り気で無かったが、「行きたい」と一言発すると、薄らと笑顔で頷いてくれた。
あじさい園はここから歩いて行くには遠く、祖母と二人、電車での旅になる。
これまでも散歩や外食に出かけた事は何度かあったが、二人での小旅行と言うのは初めてだったので、やけに興奮していた。
外は小雨で、俺はカッパと長靴と言う普通を体現したような装い、祖母は普段あまり見かけない余所行きの服で、大きな和傘をさしていた。
中でも目が惹かれたのは、そのやけに骨が多い紫色の和傘だった。
水たまりも気にせず大股で歩きながら祖母に尋ねる。
「それ、その傘何?」
その問いに対し祖母は「これはね…」と、一言発すると、何処か遠くを見つめるようにして、大きく息を漏らした。
そして、一心拍置いてから話し始める。
「これはね、”和傘”って言うの。お爺ちゃんが買ってきちゃってねぇ…」
祖母はあまり自ら祖父について話す事が無かった。
それだけに、傘について尋ねて祖父の話が出たのは意外だったのを覚えている。
そんな会話を交わしているといつしか駅に着き、切符を買い、ホームに出た。
電車を待つ間キョロキョロしていると、祖母が線路の脇を通る畦道を指差した。
「あそこの道をず〜っと真っ直ぐ歩いてくと、それはそれは綺麗な丘があってねぇ…」
祖母がまた、あの懐かしむような目で話し出す。
「どんなところ?」
「そうねぇ…色んなお花が咲いていて、一つだけ、ポツンと小さな東屋があったのは覚えてるよ…」
「あずまや?」
俺はこの頃には祖母と話すのが楽しくなっていて、何度も質問を繰り返していた。
「東屋って言うのは、公園とかにある休憩所の事。その丘にあったのは随分変わった形だったけどねぇ…」
と、そこで電車が到着し、二人で電車に乗り込んだ。
席に座り、先程の話を続けようとする…が、電車に乗る際のワクワク感で最後の部分を忘れてしまい、少し前の覚えている部分から切り出した。
「ねぇ、その道はどんな道だった?」
まるで意図の分からない質問だが、それでも祖母は優しく答えてくれた。
「丘までの道かい?それはもう長くて仕方なかったよ…」
「どれくらい?」
「何キロメートルもあったねぇ…お爺ちゃんに連れられてったんだけど、当時は電車も無くて大変だったのを覚えてるよ…」
ここで子供ながらに今日は祖父の話題が多いと、そう思っていた。
「へぇ、お爺ちゃん歩くのが好きだったんだ」
「そうよ、あじさい園にも歩きで連れて行かされてねぇ…本当に大変だったわぁ…」
今まであまり聞かされなかった祖父の話を聞き、自分の中の祖父像が徐々に変化していた。
「でもね…」
祖母が少し声色を変えた。
「どんなに長い時間歩いてても、お爺ちゃんと一緒だと飽きなかったんだよ。」
「凄いやお爺ちゃん」
「そうよ、お爺ちゃん凄かったんだから」
そして、どちらからともなく笑い始める。
そこからはずっとお爺ちゃんの話だった。
今から行くあじさい園の事や、昔の家の話、祖父がデパートで迷子になった話など、どれも飽きずに聞けるようなとても愉快な話ばかりで、降りる駅を忘れてかけてしまう程だった。
電車を降り駅を出ると、目の前にあじさい園の看板があった。
それに従い少し歩くと…
「…わぁ!」
そこは一面のあじさい。
白や紫、ピンクや青など様々なあじさいで埋め尽くされていた。
「…綺麗だねぇ」
祖母もどこか感動しているような、そんな雰囲気だった。
「お婆ちゃん、あっち!」
俺は興奮して奥の方を指差して走り出す。
祖母がゆっくりとその後をついて来ているのを確認して、先に向かった。
少し背の高いあじさい達の間を抜けるとそこは少し開けており、こぢんまりとした建物が一つあった。
飲み物やらキーホルダーやら、普通のお土産屋さんのような雰囲気だ。
店主だろうか、随分と元気そうな爺さんが一人で棚をいじっている。
俺は興奮冷めやらぬ状態で、その店主と思しき爺さんに話しかけていた。
「ねぇ!ここ綺麗だね!」
最初、自分が話しかけられていると思わず辺りを見回したが、その子供の視線は明らかに自分に向けられており、棚いじりをやめ声に応えた。
「おう、おめぇにも良さが分かるか!」
「うん!」
とても初対面とは思えない会話を交わす。
「ちっと来てみろ!」
店主に言われるがまま店に入ると、その壁には所狭しと和傘が開いた状態で掛けられていた。
「あ!これ和傘って言うんだよね!」
祖母から教えて貰ったばかりの知識を披露する。
「お、良く知ってんな!」
「あれ、でも隙間空いてるね。」
そこには一箇所だけ、傘一つ分くらいの空白があった。
「そうなんだよなぁ、この傘達は何十年も前に俺が買い集めたもんなんだが、いつかどっかのオヤジが『この傘売ってくれ!頼む!』なんて頼み込んで来てよぉ…」
「よっぽど欲しかったんだね、その人。」
店主は久々の話し相手なのか、身振り手振りを交えて話し出す。
「連れの女房に買ってやりてぇって言うもんで、一回その顔拝んでからって思ってよ。そんで来た人が、そりゃもう昔話に出てくるようなべっぴんさんでさぁ!」
「それでそれで?」
「この人には俺の集めた和傘が似合う!って思って、お気に入りの奴を売ってやった訳よ。」
「それってどんな傘?」
まだ質問癖が抜けてなかった俺は、あの空白を埋めるのに相応しい傘がどんな物か気になり、店主に訊く。
「そうだなぁ、色は紫で、骨が多い丈夫な奴だったぁ。あれなら今でも使える筈だぜ。どっかであの美女がアレをさしてると思うと報われるな。」
言われた通りに想像してみる。
すると思ったよりハッキリと、どんな傘なのか具体的にイメージする事が出来た。
ふと横を見ると祖母がようやく追いついて、談笑している俺達を傘をさしながら見ていた。
その傘は紫色で骨が多くて…あれ?
「あ…あ…」
言葉を発せずに吃っているような音は店主の口から出ていた。
すると。
「あんた!その傘!顔もよく見りゃあの人じゃねぇか!」
店主は興奮して祖母に駆け寄る。
「あら、もしかしてあの時の…その節は大変ご迷惑を…」
祖母も何かを思い出したようで自然な表情で話し始める。
「その傘…まだ使っててくれたんだな…!うっ…うっ…」
俺はこの時、大人が声を出して泣いているのを初めて見た。
「ええ、とても丈夫で…」
「本当にありがとなぁ…!」
二人の会話をぽかーんとした表情で眺めていると。
「あらごめんね、この傘、実はここで買ったのよ。」
「さっき話したろ、昔話に出てくるようなべっぴんさんって。それがこの人だったって訳よ!」
「あら…」
祖母は年甲斐もなく手を頬に当てる。
「じゃあその傘がここの傘なんだね!」
全てのピースが噛み合い、俺は開いた口を閉じ、口角を上げた。
「んじゃコイツはあんたの孫か!よく見りゃあのオヤジと鼻の形がそっくりだ」
「オヤジ?」
「お爺ちゃんよ」
「へぇ!お爺ちゃん凄いや!」
思わぬところでまた祖父の話が聞けて、頭の中の祖父がどんどん現実味を帯びてゆく。
「この傘はお返ししますね…」
祖母が傘を閉じると店主が声を被せた
「いやいやいやいや!コレはあんたが持っとくに相応しい!あの壁の隙間だって、この傘が何処かで使われてる事を思い出す為に残しといてるんだ。」
俺も店主の興奮に釣られて声を出した。
「”粋”だね!」
「”粋”だろ!」
「”粋”ねぇ。」
三人の笑い声は、静かなあじさい園の一角で人の温かみを作り出していた。
店主のサービスでお茶などを貰い一息ついていたが、思っていたより時間が経っている事に気付き、店主が最後にあじさい園のオススメスポットを教えてくれると、祖母は傘を持って立ち上がった。
「ははは!いつまでも引き止めて悪かったなボウズ、お婆ちゃんの事宜しくな。」
「まかせてよ!」
「頼もしいねぇ。」
俺はカッパのフードを被り、祖母はその和傘を広げ、名残惜しそうな店主に別れを告げた。
今度は先に走っていかず、祖母と歩調を合わせて歩き出した。
あじさいに囲まれた緩やかな坂を登ると、そこには一つの東屋と、奥には池が広がっていた。
「わぁ…!」
俺は感嘆の声を漏らした。
いつしか雨は止んでおり、和傘も折り畳まれ、祖母の手にかかっている。
日差しを反射した雨露が輝き、あじさい園一面がキラキラと宝石のような輝きを放っていた。
「…」
祖母はあまりの美しさに見惚れたのか、はたまた祖父との思い出を回想しているのか分からないが、柔らかな表情で向こうを見ている。
「あ、アレが東屋?」
横にある木造のそれを指差す。
「そうよ…あら、ここあそこの丘にそっくりね。」
「あそこ?」
「ほら、聞かせたでしょ。長い道の先にあるとこのお話。あそこはあじさいじゃなく野花だったけれど…」
「あの東屋も?」
「そう、二つも無い形だと思ってたけど…あるものねぇ…」
それは屋根に椅子と言う一般的な形を残しつつ、柱の一部が窪んだり、明らかに無駄な柱が多く取り付けられている、芸術と言えば聞こえが良い、歪な形の東屋だった。
あじさい園を一通り堪能し、二人で帰路につく。
雨が上がった事で顔を上げてから話を切り出すと、祖母が”あの写真の笑顔”で返事をしてくれた。
その後、俺は何度かあのあじさい園の事、そしてまだ見ぬ丘の事を思い出すのだが、行かないまま年月が経ち、そして今日に至った。
祖母は一ヶ月前から入院しており、定期的に車や電車でお見舞いに行っている。
両親は仕事の関係で家におらず、明日三人でお見舞いに行く予定だったので、今日は家に居ようと、そう決めていた。
プルルルル…
部屋に着信音が鳴り響く。
普段は両親が取るし、居なくても祖母が取っていた為、最近はこう言う場面で居留守をキメ込んでいたのだが、何故か自然と手が受話器を取った。
…
「…はい…え…え?はい…分かりました…すぐ行きます…」
動揺。一瞬で全身の血が足まで落ち、そのまま地面に吸われてしまったかのような感覚。
それでも、今すぐ脚を動かさなばならなかった。
…お婆ちゃんが…亡くなる?
俺は先程の電話の内容を反芻しながら慌てて支度をする。
手術を終え、そのまま退院すると思っていただけに気持ちが全然追いつかない。
両親には病院側から連絡をして貰う事にして、俺は家を飛び出し駅に向かった。
走りながらあじさい園に行った日の事を思い出す。
あの時と同じ道、でも今はこんなに走っても遠く感じる。
ゴゴゴゴゴ…
走っていても分かる地鳴り、家の揺れ、電線は荒ぶり鳥が飛び立つ。
クソッ…なんでこんな時に!
地震。それも震度4はゆうに超えるレベルの揺れ。
家屋からはぞろぞろと人が出て来て、避難を呼びかける声が聞こえる。
だが俺の頭は祖母の安否と駅に向かう事でいっぱいだった。
駅に着くと何やら人だかり。
なんでこんなに混んでんだ…?
何人かの人の声が耳に入る。
「止まっちまってんのかよー」
「これじゃ待ち合わせ間に合わないな…」
「運行再開の目処は立っていませーん!」
え…?嘘だろ…。
電車は止まっていた。
普段なら地震があったら止まるなんて事少し考えれば分かるはずなのに、動揺でそんな事頭から抜け落ちていた。
バスの時刻表を確認するが次の便までは約二時間。
そして駅で項垂れてた人達が続々とバスの列に並び始める。
その人数は明らかに一台分、いや、二台分の人数を超えていた。
タクシーも同様で、とても今からでは乗車は不可能だ。なんならそんな金も持っていない。
意を決し、俺は走って病院の方へと向かった。
病院へは15キロメートルと言ったところで、電車で行けば向こうの駅からはそう遠く無いのだが、車や歩きだと山を一つ越えなければならない。
線路の脇を通る畦道を走る。
いつの日か祖母とこの畦道について話した事を思い出す。
横に逸れると大きな通りに出るが、その道だと病院の方向から大きく外れてしまう為、正面の山へと向かう。
畦道が終わり舗装された道路に出ると、アスファルトの焼ける匂い、そしてあまりの暑さに目を顰める。
山へと差し掛かり、上り坂になった。
徐々に脚の動きが鈍くなる。
もう既に両足共地面を離れる事は無くなっていた。
それでも前に進み続ける。
暑い、全身が痛い、でも、あと少し…
視界に映る景色は呆れるほどの田舎道で、一車線程の道路を除くと全てが自然に溢れていた。
徐々に足が地面から離れなくなり、焼けたアスファルトの熱が足に伝わる。
脇に東屋が見えたので、少し道を外れて木造の椅子に腰を下ろした。
視界は常に歪み、蜃気楼を捉えることすら難しい状態だ。
もう動きたくない…帰りたい。
でも…お婆ちゃんのあの笑顔がまた見たい…!
回想するうちに心はいつしか、あの小学生の頃に戻っていた。
椅子から立ち上がり、回復した視界で辺りを見回すと、柱には妙な窪み、そして明らかに無駄な柱。
辺りには野花が咲いていた。
ここって…そうだ、あの畦道の向こう、変わった東屋のある丘!
ここだ!ここの事だったんだ!
確かに、周りは明らかに山だが、この部分だけ傾斜が緩く、脇の部分だけ小高くなっている。
あじさい園の事を思い出す。確かに同じような景色だったと記憶している。
道へ戻る際丘の入り口に看板があり、読んでいる時間も惜しく、そのまま走り出そうとしたが、ふと見知った名前が目に入り足を止めた。
そこにあったのは、なんと祖父の名だった。
要約すると、あのあじさい園の東屋と、この丘の東屋は祖父がデザインした物だった、と書いてある。
祖父はそれを黙って祖母に見せ、反応を楽しもうとしたのだろう。
なかなかにユーモアのある祖父だが、それなら死ぬ前にネタバラシしといて欲しい。
と、ちょっと文句を漏らしつつ、それでも俺は嬉しくなって、この事をいち早くお婆ちゃんに伝えたいと、その一心で駆け出した。
山は下り坂になり、今度は転倒しないよう注意をしつつ、それでも速度を維持したまま走った。
そこからは一瞬だった。
街へ着くと、地震の影響で駅がごった返しているのはこちらでも変わらず、病院付近も慌ただしい雰囲気で満ちていた。
病院へと入り、受付で電話を受けた旨を伝えて、階段を駆け上がる。
病室は覚えていたので入り口まで行くと、先生や看護師が俺の顔を見つけ、焦り混じりでの声で催促される。
お婆ちゃんは生きていた、だがもう持たない。
声をかける。
するとお婆ちゃんは薄らと目を開け、俺の事を認識した。
俺はお婆ちゃんが聞き取れるようにハッキリと話し始める。
「お婆ちゃん、あのね、あの丘見つけたんだ!あじさい園にそっくりな丘!それで、あの東屋、変わった形の東屋。あれ作ったのお爺ちゃんだったんだってよ!はは、やっぱお爺ちゃん凄いや!」
「そうかい…そうだったのかい…」
お婆ちゃんは辛うじて喉から声を絞り出す。
そうして、もう殆ど動かない表情筋を使って、
最後に、あの笑顔で笑ってくれた。