冬に添う 二《過保護》 とさ、と遠くで何が落ちる音がする。
聞いたこともない音だったので、気のせいだろうかと思っていたが、それは間を置いて何度も何度も鳴った。
不思議で、綺麗な音だ。
それに誘われるように、ネロは目を開いた。
(きらきらしてる……)
まず視界に飛び込んできたのは、遥か高くに吊るされた、沢山の水晶が綴られた光の塊だ。
ネロが瞬きする間に、ちかちかと色合いを変えて虹色に光っている。あんなものは春の国でも見たことがなかった。
はたと自分の周囲を見渡す。
四角く区切られた空間には、扉が一つ。
加えて、真正面に金色の火の灯ったなにか。
それが一つ低く見えるのだから、自分は一段高いところに寝かされているのだということが分かった。
辺りを観察しても人の気配はない。ただ、とさとさと遠くで何かが落ちる音が響くのみだ。
静かで、心地の良い空間。
だけど此処は、誰もいない此処は、一体何処なんだろう。そう、僅かに心細く思った瞬間だった。
もぞりと、手元が動いた。
思わず引っ込めたが、それはむくむくと蠢いて、目の前で大きくなっていく。ふさりと、豊かな毛皮が立った。
ネロが固まる間にゆっくりと起き上がったのは三角の耳に、灰色の体毛を持った巨大な獣だった。
遅れて太い尻尾も持ちあがる。くわりと大きな口が裂けて、真っ赤な口腔が晒された。
食われるのだろうかと思ったが、どうやら欠伸をしているらしい。眠たげにむにゃむにゃと言った後に、獣は青い目でネロを見つめた。
『起きたんですね。良かった』
ひとつ口を利き、獣はネロに顔を近づける。
返答出来ずにいると、獣もまた困ったように首を傾げた。
『……起きてますよね?』
「うん……」
何とか返答はしたが、それきり言葉は出てこなくなってしまった。互いに困って動けずにいたが、ネロはふさふさと動く耳や尾に、どうしても触れたくなってしまった。
青の目を見つつ、手を伸ばしてみると獣もまた鼻を近づける。ネロの手にちょんと触れて、耳をパタリと動かした。
『やっぱり、花の匂いがしますね』
「……はな?」
『そうです。俺はボスに習ったんで分かるんですよ』
獣はとても自慢げに尾を振っている。そのまま耳や顔にも触れさせてくれた。
「ぼすって?」
『ボスはボスですよ。俺ら狼の頭領です。怒ると凄くおっかないけど、気前は良いし狩りだって上手いんです』
ボス、おおかみ、とネロは繰り返した。
ボスは、きっとあのひとだろう。
綺麗なふた粒の、赤い宝石のような目をしたひと。そういえば、狼たちにそう呼ばれていた。
ネロを掬い上げて、しっかりと抱き留めてくれた、あの大きな手を思い出す。彼は今いないのだろうか。
「ぼす、どこ?」
『それが……俺が此処の見張りしている間に兄貴達と出掛けてしまったらしくて。大橇もないから遠出してると思うんですけど。あ、俺が寝てたことは秘密にしておいてくださいね』
「ひみつ……?」
『内緒ってことです。多分叱られるんで』
「しかられるの?」
この狼が叱られるところは見たくない。
それに、内緒にするということなら分かる。誰にも言わないということだ。兄が唇に指を立ててそう教えてくれた。
なのでネロは大真面目に頷いて「ないしょだね」と、そう返したのだが。
「てめえ、寝てたってか?」
どばんっと妙な音がして部屋の片隅にあった小さな扉が開いた。ひらひらとした白いものが、冷たい風と共に舞い込んでくる。
『あ……やばい』
狼が怯えたように耳を畳んだ。ネロは狼の耳を見、そしてそのまま声の主を見て、口をぽかんと開けた。
銀と黒の髪に、不思議な色をした王冠。鼻上の傷に、あの大きなふた粒の赤い瞳。それがにっこり笑んで、ずんずんと近づいてくる。
『ボス……おかえりなさい』
「シグよぉ、何回か言ったがこの館全体に俺の守護が掛かってんだ。何隠しても筒抜けだからな」
『は、はい……』
「ぼす……?」
「ちびも起きたか。まぁ、俺はてめえのボスじゃねえんだけどなぁ。……おい、何処行くんだシグ。てめえは後で説教だ」
逃げる狼の首根っこを捕まえながら、彼はネロの傍に片腕をついた。そのまま狼は床に、代わりに自分が腰掛けてくる。
「俺様はブラッドリーだ。冬猟の主人のブラッドリー。ほら、繰り返してみな」
「……とうりょうの」
「しゅじん。……締まらねえなぁ。おまえの名前は?」
「えっと……ネロ」
ぽんぽんと早口に言葉を投げられても上手く返すことができない。怒るだろうかと思ったが、ブラッドリーは特段苛立った様子もなく「ネロか。良い名前だな」と頭を撫でてくれた。
「良いもん持ってきてやったぜ。此処はおまえのいた国のように馬鹿みたいに花は咲かねえから、ちっと遠出しなきゃならなかったが」
ザウエル、とブラッドリーは誰かの名を呼んだ。
すぐに赤い毛色をした狼が顔を出す。口に何かを咥えており、それをブラッドリーに寄越した。
ネロの目を見てブラッドリーが微笑む。
柔い銀鼠色の布の中に、空のように青く澄んだ花が幾本もあった。花びらは大きくて僅かに透けており、茎も白くて半透明だ。ブラッドリーはそれを器用に束にして、ネロに差し出した。
「ほらよ、ネロ。おまえのもんだ」
「……おれの?」
ネロは、嬉しかった。
こんなに綺麗な花を、故郷では見たことがなかったからだ。何よりも、それをブラッドリーがくれたということが嬉しい。
どんな香りがするのだろう。
ただ、そんなことを思いながら、ネロは花へ手を伸ばした。
だから、触れた瞬間に花が全て砕けて消えてしまうだなんて、予想すらしていなかったのだ。
「は? おい、ネロ?」
青混じり金目から溢れて落ちたのは、大粒の涙だ。
はらはらなんていう生優しいものではない。
まるで勢いを増した雨のように、ネロの目からは涙がとめどなく溢れていく。
ブラッドリーの時が一瞬止まった。ネロは空になった自分の手とブラッドリーの顔を交互に見て、涙混じりの声で、「おはな、きえちゃった……」と言う。
なにを、とブラッドリーは訝しむ。
「消えるだろそりゃ。おまえが食ったんだから」
「たべ、たの?」
ネロは信じられないという顔で両手を見つめている。その間にも涙は溢れて、まだ包帯に包まれている小さな身体を濡らしていった。
『ボス、泣かしたんですか?』
『その子まだちいさいのに……』
狼達の視線がブラッドリーに突き刺さる。
まだ若いシグは兎も角、リーダー格のザウエルまでもが同じような顔をしていた。そんな目で見んな!
「あー! もう、泣くな泣くな! 足りなかったか? いくらでも取って来てやるから、な?」
抱き寄せて柔く背を叩けどもネロの涙は止まる気配がない。
何故こんなに泣かれるのかブラッドリーは全く理解が出来なかった。
ブラッドリーはただ、ネロのための飯を採ってきただけだ。花は春の気質に依る。故に力を欠損した春の精霊がいれば、喜んで我が身を砕いて力になる。
それが春の精霊達の理であるはずなのだが。
「はー……わっかんねえ……」
じわじわとネロの涙で胸が冷たくなっていく。
今は好きなだけ泣かせてやるのが正解らしいが、狼の非難がましい視線が鬱陶しい。ブラッドリーが庇護すると決めた折から、この狼達も一丁前に保護者気取りのようだ。
これで泣き喚いたりするのなら、この保護者達に押し付けもしたのだが、ネロは涙を流すきりでしゃくりあげもしない。
大きく溜息を吐いて、ブラッドリーはネロを抱えたまま寝台へ寝転がった。
冬の国において情は不要で、甘えは命取りになる。こう思うのは兄二人と双子に苦労させられた実体験が故だ。実に腹の立つ記憶である。
だがそう思いながらも、ブラッドリーの手は幼児の背から離れることはなかった。