冬に添う 三《匂い》「あの、ブラッドリー様……本当に宜しいので?」
「んだよ。地霊の元なら不満なんてねえだろ」
「いえ、我々は良いのですが……」
ブラッドリーの眼前で老夫婦が顔を見合わせる。
老夫婦、とはいえどブラッドリー同様人間ではなく、数百年に亘りこの地を司っている地霊だ。
このか細くも頑迷な冬の国、その山麓の村で人と共に暮らし、種の温存や貴重な薬となる草花の生育に携わっていた。
ブラッドリーともここ数十年の付き合いがあり、持ちつ持たれつの関係を築いていた。
つまり、相手の素性は知れている。
老夫婦は必要時以外は関わらないブラッドリーとは全く異なり、常に弱い人々を慈しむように守り、育ててきた。
人間に親愛の情を抱かれるなど、精霊としてどうかとは思っていたのだが今はありがたい。余程子育てに向かない自身より、彼らの手元に置いた方がネロは育ちやすかろう。顔立ちも温和そのものを体現したかのような、ふくよかな老夫婦だ。
そう、思ってはいるのだが。
ネロはブラッドリーの外套を頑として離さず、きゅ、と唇を噛んだまま俯いていた。
結局のところ、ブラッドリーはこの幼児を脅しの材料にする算段をとうに捨て去っており、出来る限り早く春の国に送り返したいと思っていた。
だが此処は冬の国で、幼いネロは人間により力を減退させられて弱りきっている。狼達に天駆ける大橇を引かせれば春の国になど一日足らずで辿り着けはするが、至るには厳冬の嵐を突っ切ることになる。今のネロには、到底耐えることは出来ない。
つまり、ネロ自身が冬の国内で多少力をつけて成長しなければならず、それには誰かが子守をせねばらならないということになる。
ブラッドリーは御免被ると当初から思っていた。
怪我くらいは治療はしてやるが、それ以上の面倒は自分には向かない。仔狼の世話なら出来るが、ネロは幼くも高位の精霊だ。先日のように泣かれるとどうして良いか分からなくなるし、それで困惑する自身も気に食わない。
大体あの館には狼達しかおらず、口は利けるが人の世話など出来るはずもない。自分がいない時に、何かの拍子でまた怪我をされてはたまらない。
そこで閃いたのが地霊の老夫婦への託児というわけだ。豊穣の精霊の性質と地霊の力は非常に相性が良い。ネロ一人置いておけば勝手に作物の生育も良くなる。こいつは整った環境で、地霊の夫婦に愛情深く育てられるに違いない。
それに、厄介ごとからの庇護くらいはしてやれる。地霊夫婦のように一部の加護ではなく、この山野全体の加護はブラッドリーが担っているからだ。
なんなら月に一度くらいは様子を見にきても良い。そして良い感じに育ったところで、春の国に帰還させる。報酬は、まぁ、ぶん取ってやるが。
これは、悪い考えではないな。
そう思いついたが吉日。ネロに簡単に説明し、大橇に乗せて共にこの村にやってきたというわけだ。
が、冒頭の通りネロは外套を離す気配がない。
「ネロ。館で説明しただろ? てめえが春の国に帰るには此処で力を蓄えて成長しなきゃなんねえんだよ」
ネロは、何か言いたげにブラッドリーを見つめた。
致し方なく視線を合わせるために屈んでやると、ごく、小さな声で「おれが、弱いから?」と問うてくる。
「俺の元にいられないのが、って意味ならそうだ。また泣かれちゃ堪んねえからな」
包み隠したとて意味はない。ブラッドリーがはっきり口にするとネロは目を小さく見開いて、きゅ、とまた唇を噛んだ。
やめな、と指で頬を撫でてやるとネロはこくんと頷いた。そしてようやく外套から手を離す。
ブラッドリーは小さな手が垂れたのを見、俯いてしまった灰青色の頭を撫でた。
「世話かける分はこちらで手配する。一先ずネロの飯と……これは魔狐の毛皮だ。寒さに弱えだろうから、外套でも作ってやってくれ」
青い花束の山、加えて灰色の毛皮を狼に運ばせる。
老夫婦はそれらを押し頂くようにして受け取り、そしてネロの傍に寄った。
ネロは、助け出した時と比較すれば、幾分大きくなったように見える。あの時は立てもしなかったのに、今はきちんと両足で地を踏んでいる。結構なことではないか。なんの心配もない。
ただ、これからようやく落ち着いた環境に身を置くことが出来るのに表情が晴れないのが、少しばかり気がかりだったが。
「……行け」
大橇に足をかけて橇引く狼達を促す。シグが気がかりそうにネロを振り返っていた。ザウエルも「良いのか」と問うようにブラッドリーを振り向いたが、もう一度促すと兄弟を叱咤して走り出した。山麓の村は、駆ける吹雪に紛れて一瞬で見えなくなった。
その、別れの、ほんの五日後のことだ。
「……なんつった?」
真白いオウムに似た伝令鳥は、ブラッドリーの剣幕に怯えたように嘴を噤んだが、またすぐに喋り出した。
『ネロ様が、朝からいなくて。我々が作った毛皮付きの外套と、いただいたお花が少々なくなっていたので、持ち出されたのかと』
『先日からよく地図を眺めておられました。恐らくは帰路を確認されていたものかと』
「…………はー……あいつ……地図読めんのか?」
『ボス、探しますか』
ブラッドリーの腕を押し上げるようにして、ザウエルが問う。ブラッドリーはもう片手で眉間に手を当てて、深く息をついた。
外を見やる。朝方は怖いくらいに晴れていたが、今や曇天の雪雲の下、荒れに荒れ狂っている。
もう夕刻になる。伝令鳥が辿り着けなかったのも、この天候のせいだ。しかし、まさか脱走とはな。
「……時間もねえ。てめえらの鼻借りるぜ」
『すぐに招集をかけます。村のある南方面で良いですか』
「あぁ。あいつの匂い覚えてんな?」
『勿論です』
じゃあ行け、と命じるとザウエルは振り返りもせずに館から飛び出して行った。
唸るような吹雪の音が開け放たれた扉から舞い込んでくる。ブラッドリーは王冠に指をかけ、それを外して放った。口中で呪文を唱えると、するりと身が解けるのを感じる。
四肢が張り、尾が伸びる。
代わりに羽織っていた衣服が床に落ちた。王冠は立ち上がった三角の耳に掛かって留まる。
明瞭になった鼻の感覚に、あの花の香りを覚え込ませ、吹雪の中に躍り出た。すぐさま招集に応じた狼達が駆け寄るので、散って匂いを探せと命じた。
天を向いて吼えれば風が身に寄り付く。
吹雪は冬猟の主人の脚になって、ブラッドリーはどの狼よりも早く地を駆けた。
「……ボス、どうして……」
咥え込んで雪の中から引きずり上げた幼児は、ぽかんとした顔でそう言った。
名乗ってもおらず、話しかけてもいないのにネロは狼姿のブラッドリーを認識した、ということになる。
それが分かった瞬間、ブラッドリーは呆れながらもネロの前に座った。
ネロは、まぁ、何というか驚いたことに元気だった。
見事に外套に仕立てられた毛皮の中で、睫毛を凍らせながら大きな二つの目をぱちくりとさせている。頬に凍傷はあるが、弱った様子も、そしてべそをかいた様子もない。
……というか、何かまたでかくなってねえか?
「てめえなぁ……まぁ良い。おら、帰るぞ。乗りな」
「……あっちは、嫌です。世話には、なったんですけど」
何だか口まで達者になっている。
「わぁってるよ。帰んのは俺様の館だ。てめえもそのつもりだったんだろ」
もう弱かねえ、泣かねえって自分で示しやがった。無茶苦茶で馬鹿な手段だが。
そう言えばネロの目が輝いた。それに苦笑し四肢を折って屈んでやると雪を踏んでよたよたとよじ登って来る。しっかりと毛皮にしがみついたのを確認し、彼に防護の魔法をかけた。
あぁ、そういや他の狼に見つかったと報告せねばと頭の上に魔法陣を展開する。
ネロが背中で不思議そうな顔をしているのをちらと見てから、ブラッドリーは魔法陣へ伸び上がった。
唸りあげる、冬の竜巻。意識する力はそんなもの。
劈く遠吠えは長く、広く、響き渡った。遠くで呼応する鳴き声が聞こえる。
「……俺も、狼になれるかなぁ」
ネロが背中で呟く。その声には明らかな憧憬と、喜色が含まれていた。
春の気配を負う狼など笑い草だ。
だがどうしてだか、自らの隣を駆ける若い狼の姿が、ほんの一瞬ブラッドリーの脳裏をよぎった。