冬に添う 狩の日 山麓には鋭い葉を持った木々がひしめくように生え揃っている。どれも万年雪を被っているが、幹は逞しくネロが腕を回したとて到底及ばない。
ブラッドリーはその幹の一つ一つを検分し、ふ、と遠方のまだ若い幹を見やった。
傍で惚けたように大木を見上げていた灰青色の頭を軽く叩いて「行くぞ」と促すと、また懐に引っ張り込む。そして毛皮の服に包まれたネロの頬やら手を触って、僅かに嘆息した。
「やっぱ置いてくるべきだったか……いくら加護かけても手冷てえまんまだな、おまえ」
「平気です……」
「……強がりは嫌いじゃねえが、後で痛い思いしたくねえなら俺の外套の下から出るなよ」
ブラッドリーはそう言いつつ、雪の上を歩んでいく。ネロはブラッドリーの外套に包まれつつ、その隙間からまた山麓の景色を見やった。
遥か遠く、狼たちの咆哮が響き、ネロの耳に届いた。ブラッドリーの瞳孔が、その咆哮に応じるように鋭くなっていく。
宝石のような赤い双眸がぎらりとした色をもったのを、ネロはまた惚けたように眺めていた。
まだ夜も明け切らない頃、寝こけていたネロの隣でブラッドリーが動く気配がした。
目を擦り擦りそちらを見ると、彼は既に衣服を整えて狼たちに何か指示を飛ばしているところだった。
「ボス……?」
「あー……起きちまったか。いいから寝てな。イスパノ、おまえはネロと留守番だ」
『はい、ボス』
ネロが何か言う前に、白銀の狼が寝台にやって来る。イスパノ。確かいつもは館の守りを務めている雄の狼だ。柔らかい首元を撫でてやると気持ち良さそうに目を細めた。
「……ボス、どこかに行くんですか?」
ブラッドリーの出立ちは少し物騒だった。毛皮付きの外套は常と同じだが、担いでいるものはネロの身の丈ほどもある長銃で、銃身がまだ仄暗い部屋の中でも暗く光っている。
ブラッドリーはそれを負いながら、ネロに視線を合わせた。何かを教えてくれる時、彼は必ずこうやって視線を同じ高さに合わせてくれる。
「面倒臭えが勤めだ。今年は雪が深い上に強い。夏が長くて秋が短いとこうなっちまう」
言って、窓を見やる。ネロもつられてそちらを見るも、まだ真黒い景色の端に朱が見えるか否かという程度にしか伺えなかった。
「冬の国にとっては実りの季節が短えのが一番堪えるんだよ。夏に増えた草食動物どもが、ただでさえ少ねえ餌求めて最後には樹皮を食う。それも若木からな。丸裸にされた木が寒さに耐えきれずに死ねば、実をもたらすものが更に潰えて、奴らは次に人間の畑を襲う」
そうなりゃバランスが崩れてこの山野は終わりだ、と彼は苦く言う。
ブラッドリーの目はあの闇のもっと奥底を見つめているのだと、低い声を耳にしながらネロは思った。
「今年は馬鹿みてえに生まれたみたいだからな。人間ども狩猟には出ちゃいるが、妙に強え大鹿がいるんだとよ。そいつが群れを護ってやがる」
「……それがいるから、鹿の数が減らない?」
「そういうこった。まぁ、大方この地の魔力を取り込んで精霊に近くなってんだろうな。だから、こいつらが役に立つ」
ブラッドリーの周りに待機する狼たちの目が爛々と光っていた。
『精霊の鹿は美味いんですよ』
ネロのそばでイスパノが言う。
『だから何としてでも追い込みます。俺は行けませんが、兄さん方がやってくれるでしょう』
「イスパノ……」
本当はイスパノも行きたいのだろうと思う。殊勝なことを言いつつもぱさぱさと真っ白な太い尾が振られているからだ。
ブラッドリーは身体にまとわりついてくる狼たちを剥がしながら、幾匹かに声をかけていた。余程興奮しているのか、皆返答は言葉ではなく唸り声だ。
あのザウエルまでもが赤い目を光らせて唸っている。彼らにとっては興奮する狩りに違いなかった。
ネロは思う。人間を殺傷するほどの大鹿なら、危険に決まっている。ただの動物ではなかろうし、手練れであろう狼たちばかり揃えられているのだから、尚の事それが強調されている。
故に、ブラッドリーがネロを置き去りにする理由もわかった。だが。
「……何だネロ、この手は」
気づけばブラッドリーの外套をしっかりと握ってしまっていた。
その後、散々叱られ諭されてもネロはついて行きたいという意思を曲げなかった。
「おまえ……こっち帰ってきてから頑固になったなぁ。春の国のやつはもうちょいチョロいはずなんだが……」
まぁ、仕事を見せるのもいいか。
最終的にブラッドリーは根負けし、何重にもネロに加護を施した。その上で地霊手製の魔狐の衣を着せられ抱えられ、数十分後には橇曳かれて目的地に着いていた。
「いいか、ネロ。一度しか言わねえからこいつらの名前覚えとけよ。おまえが知らねえ奴もいるだろ」
ブラッドリーがそう言って視線をくれれば、一揃い、狼達がネロの前に座る。そうしていても抱え上げられたネロと同じくらいの高さに頭があり、やはり大きい。警戒心皆無でくぅくぅ言いながら首を傾げていなければ、多少は恐怖を感じる対象となるだろうと思えた。
よく見知っている赤毛のザウエルは皆と比べて一回りほど体躯が大きい。
その隣に並ぶのがネロのそばにいることが多いシグだ。灰色の深い毛並みが彼が尾を振るたびに揺れている。
一歩引いて黒毛が二匹。金目がスターム、青目がルガーと呼ばれる。二匹とも普段は山野にて監視役に就いているため、ネロは会ったことがなかった。ネロがブラッドリーの懐内から視線を送ると、彼らもまたネロに視線をくれる。尾がずっと振られていた。
二匹の隣にいるのは黒毛とは相対する白銀の毛を持つイスパノ。ネロがついていくのだから別に留守居役となる必要もなく、彼も喜んでついてきてくれた。
これらがブラッドリーが名付けた巨狼で、彼の手先となって動く獣達だ。全てではないが、少なくとも、彼らの名を覚えておけばそれで良いとブラッドリーは言った。
「基本は俺の指示で動くが、こいつらはおまえの指示も聞く。何かあるとも思えねえが、万が一の時は近くにいる奴を呼べ」
後はこれを、とブラッドリーは懐から白い鞘に包まれたダガーをネロに手渡した。群青の宝石が鞘に、刀身にも揃って埋め込まれている。受け取ったそれは、ずしりと重かった。
「魔鉱石を打たせて精製した霊刀だとよ。俺様には小せえからくれてやる。いざとなりゃそれで自分で身を守れ」
「……はい」
息詰まる思いでそれを抱え込んでいると、ブラッドリーが笑ってネロの頭をわしわしと撫でた。
「心配しなくても俺様のそばにいりゃ何も起きねえよ。……よし、野郎ども行ってこい! 冬猟の主人、その威光をてめえらが示せ!」
ブラッドリーが大声で言い放つと狼達の目つきが変わった。先ほどまでのまるく、懐こい目は失せて、獲物追う獣のそれに変わる。
巨狼たちはザウエルを先頭に山を駆け上がり、そしてネロが瞬く間に皆いなくなっていた。足音は雪に失せ、そして足跡までもがまるで吸い込まれるように消えていくのを、ネロは見ていた。
朝靄が晴れる。瞬時、そこに光が差した。
雪を含んだ風が舞って、しんと静かな山野に一瞬だけ音をもたらした。
ネロはブラッドリーの腕の中でこちんと固まったまま、その光景を眺めていた。この毛皮の服と彼の加護がなければ、精霊の自分とて無事では済まない雪の山。あまりにも静かで、美しい。
雪片が、目の前を横切る。瞬間、ブラッドリーが長銃を背から抜き、ネロを傍に降ろした。
彼の目は先ほどから木々の間、それも遥か遠い位置を睨みつけている。折に、山が吠えた。
「……地面が、震えてる……」
「来やがる。舌噛むなよ」
ネロは目を見張った。
太い幹の間から突如として現れたのは、天を衝く木の半ば程もある巨大な鹿だったからだ。
白い角は幾重にも枝分かれしており、広い背は苔むしている。この地点から見て分かるほど、筋肉が盛り上がっていた。
周りに展開している巨狼を踏み砕かんと蹈鞴を踏んで、大鹿は嘶いた。狼達は足を掻い潜り、その上で腹や首に食らいついて、振り払われる前に自ら離れる。
図体ばかりは流石に及ばず、単独であれば苦戦するだろうとも思えたが、狼は群れ。誰かが退避すれば、また誰かが食らい付く。真っ白な雪は彼らの奮闘によって赤黒く汚れていった。
大鹿が痛みに嘶き、大きく首を振った。
その喉笛にザウエルが食らい付く。それを皮切りに他の狼達が鹿の臀部や足に体当たりして身を折らせ、喉元を晒させた。
それが向く方角は、こちらだ。
彼らは、ブラッドリーに的を明け渡した。
ザウエルが身を捩り、跳躍して退く。
「《アドノポテンスム》!!」
轟音が響く。一発は頭、二発目は首を撃ち抜いて、それで終わった。首は飛んで、巨体が傾ぐ。
すでに膝を折っていたそれは、ゆっくりと雪の上に倒れ伏した。
ブラッドリーはまだ銃を構えたまま静かに彼方を見つめていたが、やがて下ろし、ネロの頭をぽんぽんと二回撫でた。
「終いだ。……春の国の精霊には荷が重いだろ」
「……すごい」
ネロはぽつんとそれだけ返した。
「あ?」
ブラッドリーは当然怪訝そうな顔をする。
「何を言ってんだ、こいつは」と跳ね上がった眉が物語っていた。
ネロはブラッドリーの空いた手を握って言った。
「これが、冬猟?」
「お、おぉ。まぁ広義で言えばそうなるが」
「すごい……ボスも、ザウエルも、皆も!」
「……はぁ」
ブラッドリーがネロの目の前に屈む。何をするのかと思えば、彼はネロの身体を引き寄せて自分の額とぶつけた。
「ボ、ボス……?」
「静かにしてな」
ブラッドリーはネロの胸に額を押し付けたまま黙して、暫くした後に深く息を吐いた。
「……あの花のせいか? いや……自ら望まねえ限りは……」
そう呟いて、ブラッドリーは顔を上げる。
「……ネロ、てめえは此処にいてえのか?」
「……ボスのそばにって言うことなら」
そうだ、と言いたかった。
だがネロはいずれ春の国に帰るのだと、ブラッドリーが宝物を得るための存在なのだと、言われたばかりだ。だから、それ以上の言葉は言えなかった。ブラッドリーには宝を得て欲しいから。それが彼の望みなら、自分もそれを望みたい。
紡ぐ言葉を失ったネロは、小さく空気を噛んで黙ってしまった。
ブラッドリーはそれをどう受け取ったのか分からなかったが、俯いてしまった頭をぐりぐりと撫でて、また懐に引き上げてくれた。
「兎も角、猟は終わりだ。狼ども迎えに行くぞ、ネロ」
浅葱色の外套の中は、変わらず暖かい。それもブラッドリーが纏う新雪の匂いがして、安心した。だがこの匂いが、この暖かさが、ネロの小さな胸を突き、苦しめるのだった。
あの狩りから帰って以降、ネロはせめてこの国にいる間は身を守れるくらいには力をつけたいとブラッドリーに願い、(長く説得はされたが)許可を得ている。ブラッドリーが相手になってくれることもあったが、大半の相手は狼達だった。
最初は耳を倒して嫌だ嫌だと全員が拒否していたが、ネロがしつこく願うとやっと重い腰を上げてくれた。無論霊刀ではなく木刀で、狼達も本気でかかってくることはない。戯れの延長のようなものだった。
ただ、そんな訓練であってもネロの心身は闘争というものを知り、春の国の精霊らしからぬ膂力を得始めている。背がまた伸び始めたのもこの頃で、いつの間にかブラッドリーも手が抜けないほどにネロは格闘術の腕を上げてしまっていた。
今やどこに出しても恥ずかしくない、冬の国の一兵卒だ。ネロはそれを誇らしいと思ってはいたのだが。
(どうすっかな……これは)
膝上でとろとろと眠るネロの背を撫でつつ、ブラッドリーは嘆息する。
ネロはいずれ、春の国に帰す。だがこうして彼の成長を待つ間に、身の丈は伸びて顔つきも精悍になった。今は無防備に寝晒しているが、ブラッドリーが呼べばすぐさま霊刀を構えて起きるだろう。寝坊助の春の国の連中とは、似ても似つかない。
それに。
初めて狩りに連れて行ったあの日の感覚を、ブラッドリーは呼び覚ましていた。
彼の身の内に濃く宿るのは、間違いなく春の精霊の力だ。だが、その傍らに、不確かではあれど冬の精霊の気配が、確かにあった。
生まれの国以外の性分を持ち合わせるなど、あることなのか。思い返せども、そんな奴は見たことがない。だが今背に沿わせている手のひらからは、彼の中に宿る淡い冬の気配が確かに感じ取ることができた。
「ボス……」
むにゃむにゃとネロが寝言を言っている。
「……だから、おまえのボスじゃねえって」
ネロが、ただの冬国生まれの精霊であったなら。こんなにややこしい状態に置かれた子ではなかったら。
ブラッドリーは間違いなく、ネロを配下にしていた。近接格闘の才があり、料理が出来て、狼達に好かれている。最近口喧しくなって来た気はするが、言うことなしだ。間違いなく相棒になっていた。
ただ、彼はーーこの国の生まれではない。そうと分かっていても、何処か手放すのが、惜しかった。
ブラッドリーは暖炉の上に視線を寄越した。一枚の紙と、ペンがするりと手元に飛んでくる。
インクは暖炉の金の火。ブラッドリーの宝の火を宿した文字は音もなく綴られ、指鳴らせば勝手に封筒に仕舞われた。
「……ベネリ」
寝台の下から白の狼が顔を出す。緑の目がブラッドリーをじっと見つめ、手元から手紙を咥えとった。
唯一の雌狼は足音なく館から飛び出して、手紙の宛てへと走り去って行く。その背を見送り、ブラッドリーはまた一つ息を吐いた。
厳冬の国に戦がやってくる。
その前に、この春を逃さねばならない。
もう、時はない。