冬に添う 六《プロポーズ》 吹雪が頬を叩く。掠めていく。肺に痛いほど冷たい空気が入って、頭がキンと冷えていく。
懐かしい雪の匂い。凍てつく雪の感触。
なんだ、ちっとも変わってないじゃないか。
ネロは、遥か遠方に山々が覗く雪原に立っていた。
百年間戦争をしていた、というのが嘘のようにしんと静まり返っている。
終わったばかりだというのなら、戦禍の跡くらい、ブラッドリーの痕跡くらいはあるとは思ったのだが。
それにしても何故あまり寒いと感じないのだろう。何の用意もなしに飛び出してきたというのに、幼い頃はあれほど感じていた冬の国の厳しさを感じない。
曲がりなりにも成長したのかと僅かに嬉しくなったが、それはすぐに自惚れだと分かった。
「……指輪だ」
先ほどから明らかに指輪を中心にネロに加護が施されている。これはあの別れの日にブラッドリーから託されたものだった。
血で曇っていた宝石は丁寧に拭き清め、ネロは春の国にいる間それを肌身離さず身につけていた。
あちらにいた頃は、このような加護は感じなかった。再び冬の国に至るその日まで、彼の力は眠っていたということらしい。
「……生きてんだよな」
込められている魔力の暖かさを感じながら、ネロは雪原を見渡した。手がかりといっても、ネロが覚えているのは北の山麓にある館くらいだ。
燃え尽きた館とて、これだけ時が経てば再建されているかもしれない。そんな淡い期待を抱いたのが、一時間程前だったろうか。
「なーんもねぇなぁ……」
落ちているのは、焼け焦げた煉瓦に、恐らくは元鍋の蓋。それに黒い木片がちらほらと雪から生えている。触れると、それはあっという間に塵に帰した。長い間放置されていたことがそれで分かる。
あれほど大きな館だったのに、これらの残骸以外何一つ残っていない。調理場も、暖炉も、何も。
当然、ブラッドリーも狼たちもいない。見渡してみたが、足跡らしきものも見られなかった。既に拠点を移してしまっているのだろう。
兄のシャイロックは北の山麓、その谷に行けと言っていた。それに、無駄足にはならないと。
谷と言われてもネロはそれらしき場所に足を運んだことがなかった。
小さく唸り、ネロは遠くの山麓を見やる。
ブラッドリーは時折、大橇で北に向かっていた。手土産はいつも青い花で、ネロが自分で取りに行くと言ってもお前には無理だと突っぱねられた。
確かそれは山野の奥の谷だと、彼は言っていなかったか。さて、符合する情報はこれだけ。
何とも絶望的な状態ではあったが、ネロの足は勝手に北に向かっていた。
だって、そこにいるかもしれないのなら、行かない理由がない。いなければこの国中どこへだって探しに行ってやる。あの時言えなかった言葉を最後まで言ってやるために、此処に来たのだ。
⁑
薄暗い森に入って数分、見上げれば白かった空も徐々に黒くなりつつある。
視界を覆う木々は青々とはしているが、春の国のように大らかに枝葉を伸ばしているわけではなく、常に耐えるように縮こまっている。
ひやりとした木肌に触れて、ふと、力が萎え始めていることに気がついた。
「そういや飲まず食わずだったもんな……」
何か持って来なかったかと春の国の衣服を探れども、出てくるのは纏わりついた雪片くらい。冷え冷えとした布の感触に余計に腹が減った。
こんなところで突っ立っていても仕方がない。何か木の実でも探そうと灌木や茂みを見て回ることにした。
探りつつ思う。何処にでも果実が実り、手を伸ばせば何だって満たされた春の国は本当に豊かだったのだと。ただ、身が落ち着くかと問われれば、ネロは首を傾げてしまう。
今は腹が減っているが、この状況を苦とは思わなかった。寧ろ、恵みを探すのは楽しい。
やっと一つ、それも指先程度の大きさの紅い実を見つけたところで、はたとネロは辺りを伺った。
(……何かいる)
採取に夢中になっていたせいで、取り囲まれていることに気がつかなかった。
息を殺して、霊刀の柄に手を掛け、そろりと体勢を変える。薄暗い木々の間に、光る目が六つ。唸り声をあげてこちらをじっと睨んでいる。
が、それがふと止んだ。一匹がその光る目をまん丸にして、ぽかんと口を開ける。
『ネロさんだ』
「ん……?」
この声。首根っこを掴まれて散々ブラッドリーに叱り倒されていた、あの灰色の。
「シグか?」
『ネロさん! ネロさん!』
どど、と雪を蹴る音がして巨大な塊がネロに突っ込んできた。灰色の青目。間違いない、シグだ。
慌てて霊刀を押しやってシグを抱き止めるために待っていたが、予想以外にシグの体躯が成長していたせいで諸共雪の上に転がってしまった。
『ネロさん! おかえりなさい!』
「わ、分かったシグ、っはは、くすぐってえって!」
顔やら手やらを散々舐め尽くされる間、ネロもシグの首や頭を撫でまくってやった。ばっさばっさと彼の太い尾が振られている。
「シグ、残りの二匹は誰なんだ?」
『俺の部下です! まだ名無しですけど……。ねぇ、ネロさん、俺もちょっと偉くなったんですよ』
そのシグが視線をくれると、茶毛と白毛がおずおずとこちらにやって来た。
ネロが笑んで手を差し向けると、鼻を近づけてすんすんとやり、目を丸くしている。シグより明らかに身体が小さく、まだ若いことがわかった。
「そうか、すごいなシグ。他の奴らは無事か?」
『えぇ、兄貴達も元気ですよ。俺たちはボスの加護があるので怪我しても冬の国ならすぐに治りますから。館では毛が焦げたくらいです』
「そっか……良かった」
太い首を抱き締めて息を吐く。シグは尾を振りつつ、くぅ、と鳴いた。
『戦も頑張ったんですけど、最後で負けちゃって。でも領地は拡がったんですよ』
「戦、か……ブラッドは怪我してねえの?」
『戦の間はしてましたけど、もう治ってますよ』
けろりとしたものである。あっけらかんとした物言いに、ネロは脱力してしまった。
「なぁ、シグ。館が再建されてないのはなんか理由があんのか?」
『領地が拡がったんで、もっと奥地へ引っ込むかって話になったんです。今は谷の周囲に大きな村がありますよ。俺たちが住んでるのは、そのもっと奥です』
魔力を含んだ鉱石に、豊富に栄養を含んだ土壌があるのだという。聞く限りでは以前より村人達の暮らし向も良くなっているようだった。
『ネロさんは……帰ってきたんですよね?』
シグが心配そうに顔を寄せてくる。分厚い毛皮を抱き締めてやりながら、ネロは確かに頷いた。
「そうだよ。……ブラッドに文句言ってやりたくってさ。だから、あいつのところまで案内してくれないか?」
『はい! あ、でも大橇……』
「いい、いい。シグたちの形見てたら思い出したから、これでついて行くよ」
内包していた力で、身を包むようにイメージする。するとすぐに身が解けて、四肢で雪を踏んだ。
頭を振ると獣の耳が立ち上がる。服は脱げてしまったが、それはすぐにシグの部下達が拾って咥えてくれた。
「この方が早いだろ?」
シグが目を細めて頷く。
『谷まではすぐです。こっちですよ』
シグが駆け出す。ネロも、先までの空腹を忘れて走り出した。冬の空気が、ようやく歓迎してくれるように身を包み始める。彼の居所まで、もうすぐだと、そう教えてくれているようだった。
群青の光の中に、青い花畑が広がっていた。
その中央に立つ、浅葱色の外套の背。ネロは花畑の入り口で暫し立ち尽くして、その背に向かって走った。
あの日、いいや、もっと前から。
あいつには言いたいことが山ほどあった。自分の立場を言い聞かされていたからこそ、飲み込んだ言葉だって沢山ある。
ふと、赤い瞳がこちらを振り返る。少しばかりぎょっとしていることに、寸時疑問を覚えた。
あ、そうだった狼のままだった。
彼に飛びつく直前に、慌てていつもの身体に戻ったのもいけなかった。
「どわぁっ」「いてぇっ」
結果として、全裸で押し倒す羽目になってしまった。それでもブラッドリーはきちんとネロを抱き留めているのだから大したものだ。
ブラッドリーは吹っ飛んでいった王冠をひっくり返ったまま眺めて、そしてネロを見た。
「……おまえなぁ」
「ご……ごめん」
百年ぶりの感動の再会もあったものではない。
ブラッドリーは物凄く大きなため息を吐いて、指を鳴らした。ネロの身体の上に白い毛皮が落ちてくる。その上から大きな手が背に添うのを感じて、ネロは細く息を吐いた。
「……なぁ、ブラッド。俺、あんたのそばに居たいよ」
毛皮一枚羽織ったまま、ネロはブラッドリーの胸に伏せた。
「百年経っても変わらなかった……あんたさ、多分あっち帰ったら、冬の国のことなんざすぐに忘れちまうだろって思ってたろ」
「んだよ、そうじゃねえってことはシケてたのか? あっちは」
とんだ憎まれ口に苦笑してしまった。
「いいや、こっちと比べりゃとんでもなく豊かな国だったよ。何処いても暖かくて、人間達も食い物にも苦労してなくてさ。……でも俺は、この冷たくて、凛とした空気の方が好きだ」
「……ネロ」
「その空気の中で生きている、あんたが好きなんだ」
言い切って、ブラッドリーを見上げる。
「あんたの傍らに、いさせてくれ」
赤い目は、ネロを見つめていた。
ネロは反論の言葉を沢山準備して待っていた。
おまえの勘違いだとか、育てたから懐いてるだけだろ、だとか。きっと彼はそんなことを言うに違いない。
百年間を無駄に過ごしてきたつもりはない。いくらでも、文言を考える時間はあった。だが。
「とんだ押しかけ女房に育っちまったなぁ……」
ブラッドリーはそれだけ言って、ネロを抱えて起き上がった。拍子抜けしたネロの両肩を、ブラッドリーは掴む。
「今のはおまえの真意で良いんだな。俺は手に入れた宝は二度と離さねえぞ」
「……おう」
「なら、いりゃあ良い」
ぽん、と寄越された言葉をネロが飲み下す間に、ブラッドリーはとっとと立っていた。そのまま、ネロの衣服を咥えたまま座り込んでいる狼達の元に行って彼らの頭を撫でている。
「いつまで全裸でいるつもりなんだ、ネロ」
呆れ口調に、ネロはようやく我に返った。
「いまの、良いのか? もっとなんか、反対されるのかと……」
「んだよ、不満か? 俺はちゃんとおまえを春の国に返して、対価の宝物をいただいたんだ。冬猟の主人は情け容赦がねえからなぁ。おまえの兄貴が言っても返してやんねえよ」
意地悪く笑っているくせに、何故耳が赤いのだろう。はて、宝物? 何も持参していないが、何の話をしているのだろうか。
「なあ、ブラッド……」
「はー……良いから着ろ。あと、腹減ったから飯寄越しな。材料なら貯蔵庫にある。あとな、」
おまえの調理場もあるぜ、とブラッドリーは笑う。
ようやく、分かった。
彼も、こうして待っていてくれたのだと。
青い花が咲く谷に陣取り、冬の国に帰らねば発動しない加護を施した指輪をネロに寄越して。
いつになるかも分からない再会を、彼も望んでくれていた。じわりと視界が滲んだが、ネロはそれを見えなかったことにした。
「仕方ねえなぁ。腹いっぱい食わせてやるから、覚悟しろよ」
彼のそばに添う。冬の精霊に春の精霊が添うなど、お笑い沙汰だろうか。
だがそれでも良かった。こうして抱き寄せてくれる手があるのだから、俺の居場所は此処なのだと胸を張って言える。
冬の精霊と春の精霊が花畑から立ち去った後、白い蝶が静かに彼方へと飛び立った。
無論、慶事の報を携えてのことである。