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    hiyo

    @haguyineko

    HQ 夜久|黒夜久
    🔞はリスト限定です。高校生含む18歳未満の方ではないと確認できれば追加しますので、お気軽にどうぞ

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    一度お別れする黒夜久の2023〜2024年
    ⚠️ハイキューマガジンのネタバレ含みます
    捏造とわたしの解釈てんこ盛りです

    早く日本でも結婚したい人同士が誰でも結婚できる社会になってほしいです💐🏳️‍🌈

    #黒夜久

    黒尾鉄朗の悪夢(後編)「牛島選手とは上手くやってますか、夜久選手」
    「げ」
    「げってなんだよ。第一声がそれって、あんまりじゃないですかー?」
     パリへの切符を賭けたワールドカップに出場するため、ポーランドから帰ってきた夜久を代表合宿会場のロビーで出迎えると、あからさまに嫌な顔をされた。
     ロシアにいた頃と同じようにハイブランドスーツに身を包んだ夜久からは、予想通り前とは違う香りがした。だけどそれは夜久だけのものではなかったことが、俺の意図を含めて夜久にはちゃんと伝わったらしい。満足を露わににっこり笑ってみせる俺に対して、夜久はサングラス越しにもわかるくらい憮然としていた。
    「ちょっと話しません?」
    「お前、これが話したい顔に見えるか」
    「こんなところで押し問答してたら目立つでしょ」
     関係者どころかプレスも出入りするような入口で、込み入った話はできない。待ち伏せされたことに気づいた夜久が、舌打ちしながらも歩き出したので俺も続いた。
    「研磨か」
    「いやいや、おかげさまで、ちゃんと自力で辿り着きましたよ」
     リエーフが広告塔になっているブランドLEROYの、2023年の新作。各国の王がブランドコンセプトで、今年は日本を主題に展開しているらしく、香水はヒノキがメインのスモーキーさが特徴だった。
     研磨と話した後、直行したデパートで鼻が馬鹿になるくらいテイスティングして、夜久がこれまでつけていたものをなんとか特定した。リエーフに聞けば、夜久に渡したものを教えてくれそうなものだったが、あれでリエーフは夜久に懐いているし、夜久からの口止めがあればそれを守るだろう。もしかしたら、俺が聴きにきたことを報告するかもしれないし、そうしたら不意打ちを喰らわせられなくなる。だけど何より俺を突き動かしたのは、夜久と俺の間に誰かの入る余地を与えず自力で解決したいっていう、俺の意地だった。
     とはいえ、そこから夜久の次の一手を推測するのは比較的容易だった。それも偏に仕事の宣伝はちゃんとやるリエーフのSNSのおかげだったから、そこだけは後で礼を言うべきかもしれない。
    「気になるって言っただろ」
    「お前のしつこさ忘れてたわ」
    「お褒めに与り、どーも」
    「褒めてねえ。つーか、着いてくんな」
    「いいじゃん、もう少しだけ付き合ってよ」
     大声を出して悪目立ちしたくないことだけは利害が一致して、前を向いたままお互いに聞こえる程度の大きさで話した。頭上から盗み見た夜久の顔には、前髪を上げて晒された額の下で面白くなさそうに寄せられた眉間の皺よりも、尖らせたくちびるに目が行くのだから我ながら救えなかった。
     
     夜久の歩幅に合わせて歩くのも久しぶりだった。そんな些細なことから、この時間がずっと続けばいいのに、なんて。流れる空気に甘さなんて微塵もないのに、身体に染みついた記憶が溶け出して都合のいい夢を見せようしたところで、隣を歩く夜久からいまは俺も身に纏うヒノキの香りがして、我に帰った。
    「そういえば、新作使うなんてわかりやすくありがとね」
     奇襲を仕掛けた目的を思い出して、夜久の方を向いて挑発すれば、サングラスをしたままの夜久が足を止めて俺を見た。
    「ネタばらしされてようっやくたどり着いた癖に、偉そうに言うな」
    「そりゃあ、他でもない夜久にあんな風に煽られたら、本気出すしかないでしょ」
    「……煽ってねえし」
    「でもちゃんとゴールしただろ」
    「うるせえ。ノーカンだ、ノーカン!」
    「俺はあれからもずっと、夜久一筋だよ」
     軽口を叩きながらサングラスのまま軽く睨むように半眼を向けてくる夜久から目を逸らさず、今更どの口がと罵られる覚悟で間髪入れずに告げると、一拍おいて夜久はサングラスを上げて俺を凝視した。
     俺の言葉の意味を理解した瞬間、こぼれ落ちそうなくらいまるく見開かれた夜久の瞳にくるりと光が踊り、俺だけが映った。長いまつ毛が空気を撫でるように、ぱちりぱちりと2回、ゆっくり瞬きをする。
     だけど、震えるくちびるから耐えきれずにこぼれたのは愛の言葉ではなく、豪快な笑い声だった。
    「そういう冗談、似合わねえんだからやめろよな」
    「俺が冗談でこんなこと言えないって、誰よりお前が知ってるだろ」
     もうこの話は終わり、とばかりに再びサングラスを下げ、聞く耳を持たないように振る舞う夜久の退路を言葉の檻で塞げば、夜久は笑いを止めて大きく息を吐いた。
    「ずっと後悔してる。俺は冗談にする気はねえからな」
    「……お前、俺がどんな気持ちで、」
    「うん。俺なりに考えたけど、わかんねえよ。不甲斐なくてごめん。だから教えてくれ。あのときからずっと、夜久が何を考えてるのか」
     夜久が俺に対して、俺から別れを切り出したあのときだけじゃなくいまも怒ってるのだとしたら、その理由が知りたかった。荷物を抱えたままくちびるを噛んで、悔しそうに顔を歪めている夜久に近づこうと一歩踏み出すと、夜久の右手が真っ直ぐ伸びてきた。
    「寄るな」
    「お揃いの香水つけてたって、噂が立ったら困る相手でもいるのかよ」
     嫌でも意識してしまうヒノキに包まれながら明確な拒絶が鼓膜に叩きつけられて、この期に及んで俺を拒む夜久と架空の誰か相手に渦巻く嫉妬で語気が強まる。俺は夜久からの挑戦状をちゃんと解いて、コートに立ったはず。だからせめて、本当に今更でしかないのだけれど、ご褒美なんて言わないから。もう二度と間違わないために、夜久と話がしたかった。
    「困るのは俺じゃなくて、お前だろ」
     疲れたように首に手をやってゆっくり頭を回してから、夜久はまた大きなため息をついた。それからスッとサングラス越しに冷えた目で見据えられる。下から俺を睨め付ける、試合前にも見せないような冴え冴えとした瞳に飲まれそうになったところで、ぐっと堪えた。
    「なあ、夜久の邪魔はしない。諦めろって言われたらちゃんと諦める。だから、大会が終わったらでいいから、俺に時間くれないか」
     伝えたいことも伝えなくちゃならないことも山ほどあって、それら全部をちゃんと話すためにここが相応しくないのはわかっていた。今手元にあるカードを全部切って、今日できることはせいぜい次回の約束まで。ブラフを効かせようにも夜久相手はどうにも分が悪い。だからこそ、格好つける余裕もなく、俺の思いを全部載せて懇願した。これで拒絶されたら、もう打つ手がなかった。かと言って慎重になり過ぎれば機会を逸してしまう。無謀な賭けだと、夜久は笑うかもしれない。
     
    「わかった」
    「! 夜久、」
    「でもそんな引き摺りたくねえし、今日都合つけろ。打ち合わせとか終わったら合流する」
     それが無理ならこの話はナシだ。ピシャリと決定事項のように告げる夜久に、何度も首を縦に降る俺を見て、夜久は俺から目を逸らして前を見た。
    「場所とか時間とか、あとで連絡するから」
    「おう」
    「夜久、時間くれて、ありがとう」
     背を向ける夜久に慌てて声をかけると、夜久が振り返った。
    「邪魔しない、とか」
    「え?」
    「お前がそういう風に思ってる限り、話しても無駄だと思うけどな」
     光を通さないガラスからは、夜久の感情は読み取れない。短めの眉を下げて薄く笑った見慣れない夜久は、俺が口を開く前に立ち去ってしまった。
     
     
     平日の夜。
     俺はもちろん明日も仕事だし、時差もある夜久は明日から調整がある。約1週間後に試合を控えて、本来ならこんな風に時間を使わせていいはずがなかったけれど、他ならぬ夜久自身に今日の決着を望まれて、俺に否やはなかった。
     俺としては、まずはようやく向き合ってくれる気になった夜久の気持ちを確かめて、それができたら次の機会に勝負をかければいい。幸いなことにパリ五輪予選後には音駒同期会がある。ここからは焦らず最良のタイミングを見極めて、確実に決めるべきところだった。
    「お疲れ」
    「おう、お疲れ」
     俺が用意した個室に夜久が現れたのは19時過ぎ。なんとか仕事を捌き切って駆けつけスーツのままだった俺に対して、夜久は練習後シャワーを浴びたのかTシャツにイージーパンツというラフな格好に着替えて、髪は長めの前髪ごと降りていた。昼間はむせ返るようだったヒノキの代わりに、いまは石けんの匂いがする。
    「黒尾と二人で会うの、別れて以来だな」
    「そ、うね」
    「おーおー、精々意識しろよ。今日はその話するんだろ」
     席についた初っ端から、キレッキレのスパイクサーブを打ち込まれて返球で精一杯な俺を、日本の守護神様は意地悪く笑って見ていた。しょぼレシーブと罵倒されないだけマシなのかもしれない。
     夜久は食事は済ませてきたというから、俺の分と飲み物だけ注文して、飲み物が揃ったところで「乾杯!」と朗らかな宣言とともにカチリとグラスを合わせる。昼間の不機嫌が幻のように、目の前の夜久は上機嫌に見えた。
    「研磨から、俺が怒ってるとかって聞いたんだろ」
     焦がれ続けた本人を目の前にして何から切り出そうか俺が逡巡している間に、グラスに入ったオレンジジュースを半分干した夜久がニヤリと笑って水を向けてきた。
    「それで? お前はなんも心当たりないわけ?」
    「……あり過ぎて迷ってるとこ」
    「自覚があるのは悪いことじゃねえよ」
    「どうもね。考えてみればいろいろあるけど、一番はやっぱり夜久からロシア行きを報告されたとき、」
    「お前が俺を振ったときな」
     単なる悪足掻きだけど、別れたって言いたくなくて俺が濁した言葉を、スーパーリベロは見逃さず掬い上げて俺に見せつけるように返してくる。
    「あれは…! 結果的に、そう、なったけど。でも、そうだな。ああ言えば、夜久が馬鹿なこと言うなって叱ってくれると思って。ごめん。夜久に甘えてた」
     素直に謝って頭を下げれば、個室内にしばし沈黙が降りた。コン、と夜久が持ち上げたグラスをテーブルに置く音がやけに響く。
    「それはもう、いい。俺もムカついてたから、出てったのは腹いせだったし」
     傷つかなかったわけじゃねえけど、顔上げろよ。揶揄いの色のない声が上から降ってきて、思わず顔を上げると声に違わず穏やかな顔をした夜久がいた。
    「もうバレてるだろうから言うけど。俺は今も、お前の気を引きたくて馬鹿なことするくらい黒尾が好きだし、あのときは黒尾にも好かれてるって思ってたから、別れたって離れたって、大して心配してなかった」
     いつもの喧嘩の延長線の、売り言葉に買い言葉。少し離れてお互い冷静になれば、また向き合えると思った。だけど俺の出方を伺い過ぎて、というよりは自分から折れるのが癪だと意地を張り続けて一時帰国もしなかった結果、疎遠なまま気づけば3年も経っていた。そんな風に夜久は話した。
    「そんで、痺れを切らして会いに来たのは、黒尾じゃなくて、研磨とリエーフだったけどな」
     お前に好かれてるって自信あったのに、俺の自惚れだったのかよって結構がっかりしたりしたんだよな、なんて。ふふっとおかしそうに笑いながらお通しに箸をつける夜久とは反対に、俺は二の句がつげなかった。天気の話でもするように夜久は淡々と話しているが、あのときから夜久が待ってたなんて、俺にとっては青天の霹靂もいいところだった。香水の謎解きができた時点で、ある程度予測はしていたけれど、あまりにも自分の願望が強過ぎて却下した可能性を、夜久本人から聞かされている。
     ――夜久は、まだ、俺のことが好き。俺のほうはといえば、未練が煮詰まってドロドロの煮凝りになっている自覚はあるが、綺麗な言葉で言うならもちろん、夜久が好きだ。
     速さと重さを増した鼓動が頭の中に響いて、呼吸が浅くなる。一度別れたとはいえ、いまもお互いを好いているなら、俺たちはもう一度、やり直せると思っていいのだろうか。
     
     会話が途切れたところで、タイミングよく食事が運ばれて来た。鯖の煮付け定食に、だし巻き玉子。それから野菜炒め。テーブルに並べられた皿を前に、夜久は遠慮なくだし巻きと野菜炒めを自分の小皿に取り分け、「和食ならオレンジジュースじゃなくてお茶にでもすればよかった」なんて暢気に宣いながら食べ始めた。
     俺も倣って箸を動かすが、味なんてよくわからなかった。ただ、目の前の夜久が美味そうに箸を進めるのから、目が離せない。
    「夜久は、あー、俺と別れてから、俺とは二人で会わないって言ってたし、そうしてただろ」
    「おう」
     白米と一緒にようやく事態を飲み込んで、夜久に話しかける。夜久の目線は皿のまま、返事だけが返ってくる。
    「だけど、いま会ってくれてるのは、どういう心境の変化なのか、考えてたんだけど」
    「別に。もういいかと思って」
    「……もういいって、何が?」
    「そのままの意味」
     もういい、というのは、夜久が俺を許すということだろうか。腹いせだという別れから、再び向き合うことを選んだということだろうか。夜久の意図を図りかねてじっと見つめると、グラスから直接オレンジジュースを一口含んで、夜久がこちらを見た。
     
    「これ以上会ってもお互い苦しいだけだし、これで終わりにしようぜ」
     さっきまで笑っていたのに、いま眼前にいる夜久は怖いほど無表情だった。夜久は確かに日本語で話しているはずなのに、頭の中には音だけが滑って意味が掴めない。
     俺は夜久が好きで、夜久も俺が好き。だけど、夜久は俺たちは再び始まるのではなくもう終わりだと言う。
    「いや、そんなの、一つもよくないだろ!」
    「うるせえよ。大声出すな」
     勝手に話も俺たちの関係も終わらせようをする夜久に待ったをかけようとして、慌て過ぎて声が荒くなる。それに呆れ顔で文句を言う夜久に、焦りが微塵も浮かんでいないことがなおさら俺を焦らせた。
    「夜久、」
    「いいんだよ。去年、お前もまだ俺のこと好きなんだってわかったときは嬉しかった。けど、お互いが好きなだけじゃどうにもならないだろ」
     俺ら、もう来年は30だぞ? そう言って頬杖をつく夜久は年齢相応にはとても見えなくて、下手したら10代後半でも全然通用すると思う。いや、いまはそんなことを考えている場合ではなかった。場合ではなかったが、緊急事態に思考が飛びそうになる。
    「夜久がまだ俺のこと好きでいてくれるなら、俺の存在が夜久の邪魔にならないようにするから。頼むから、そんなこと言わないでくれ」
    「うん。お前がそんなだからさ、やっぱり話したって無駄だって言ったんだ」
    「なんでそんな風に言うんだよ」
     とりつく島もなく昼間と同じことをもう一度言う夜久が哀れむように俺を見るから、俺の声は縋るように震えた。動揺を隠せない俺の様子を見て、夜久が軽く息を吐く。そんな仕草にもいちいち敏感に反応してしまう。
    「俺さ、お前のこと、邪魔だって言ったことあるか?」
     ずい、とテーブルに乗り出した夜久が真顔で俺を見据えた。俺たちの身長差は高校の頃から縮まることはなくて、いまでも20センチ以上ある。だけど座ってしまえばその差は一気に近くなって、そのぶんまともに浴びることになる夜久の眼力から逃れる術を、俺は未だに持っていなかった。
    「本気で言われたことは、ない。俺が勝手にそう思ってるだけ」
    「そうだろ」
     呆れたように目を細めて、夜久にしては珍しく迷うように目線を斜め下に逸らした。でもそれも一瞬で、俺が声を掛ける前に再び夜久が口を開いた。
    「男同士ってだけで、一緒にいる難易度が馬鹿みたいに高くなるのはクソだと思うけど、それでもお前が味方なら大丈夫だと思ってたんだよ」
     俺はな。そう呟くように紡がれた夜久の言葉は、夜久の表情を見なければ俺にとって歓喜のはずだった。視線はテーブルに注がれたまま、ほとんど伏せられた目は長いまつ毛が濃い影を作っている。手を伸ばせば触れられる位置にあるまるい頰は支える手のひらによって形を変え、口元は見えない。
    「だけど、一番身近で一番味方でいて欲しい奴に、いざってときに線引きされたら、これ以上続けるの無理ってなるだろ」
     長いこと同じ時間を過ごした中で思い出すのは、いつだって憎たらしいほど自信満々な笑顔で。こんな、淋しそうな表情はあまり見た覚えがなかった。だけど、その淋しさに既視感はあった。それは、コートに立つ夜久を見るたび、誇らしさと同時に俺が感じるどうしようもない胸の疼きで。
     研磨は夜久が怒っていると言ったけれど、怒ってくれた方が何倍もマシだった。目の前で空になったグラスをテーブルに置いた夜久からは、怒りよりも諦めのほうを強く感じた。欲しいものを手に入れるための努力を惜しまない夜久が、いま、俺を諦めようとしている。
     
    「……無理、じゃねえよ」
     夜久に似合わない諦めたような声以上に、他でもない夜久にそんな顔をさせてしまっている自分に腹が立って、語勢が強くなった。
     いまを逃したら、たぶん夜久は自分の宣言通り、二度と俺の元には帰って来るつもりがない。だけど、最後通牒よろしく完全に関係を断つ前に猶予をくれたのは、夜久の愛情深さでもあるだろうし迷いでもあるはずで、ならば俺は全力でそれを利用させてもらう。
    「無理だろ。お前が俺の隣に立つ気ねえんだから」
     夜久が握ったことで、グラスの中の氷がカランと小さな音を立てた。俺の物言いを自分宛だと捉えたらしく、売られたケンカは買う主義の夜久が顔を上げて、苛立ちを隠さず眉を寄せた。睨みつけられているけれど、さっきのらしくない静かな表情より、ずっといい。
    「違う。俺は冗談にするつもりも、諦めるつもりもないからな」
    「……俺の話、聞いてたのかよ」
    「聞いてたよ。俺が夜久のためだって思ってたことが、夜久を追い詰めてたんだよな。今更かもしれないけど、俺の話も聞いて」
     眉間の皺を深くして鼻白む夜久を真正面から見つめ返す。夜久の話を聞いていたからこそ諦めたくなかった。
    「嫌だ」
    「夜久」
    「お前が変わってないのは、さっきの話で充分わかった」
    「そうだよ、変わってねえよ。夜久の思惑通りかはわからねえけど、夜久から俺の知らない匂いがしたとき、すげえ悔しかった」
     被せるような俺の言葉に、テーブルを挟んで対峙した夜久がわずかに反応する。大きなつり目は見開かれたまま、感情の置き所を探るような戸惑いが浮かんでいた。
    「夜久が俺以外を選んだ可能性を受け入れられなくて、だけど夜久の手を放したのは俺だったし、そんなこと言える資格なかったけど」
    「……お前以外に、誰がいるんだよ」
    「そう、思えてたら、こんなことになってねえよな」
     眉間に皺を寄せながら夜久の口からこぼれ落ちた言葉は苦々しさが滲むほど切実で、俺がいかに自分のことに精一杯で夜久の気持ちを見逃し続けていたかを今更のように突きつけた。夜久は出会ってからずっと気持ちいいくらい率直だったけれど、チームのピンチを鼓舞する役目を負うリベロに相応しく、それと同じくらい自分の感情をコントロールして隠すのも上手かったのに。
    「夜久が初めて帰国したとき、久しぶりに会ったのに夜久の態度は全然変わってなくて、夜久はもう俺のことは割り切ってるのかと思ったんだよ」
    「そんなの、それ以外どんな顔しろって言うんだよ。こっちは何年も放ったらかしにされてんだぞ」
     ムッとしたようにくちびるを尖らせる仕草が童顔を強調して、そんな場合ではないのに可愛いと思ってしまう。
    「夜久だって連絡くれなかったじゃん」
    「振られてんのに、俺からできるかよ」
    「いや、そこは5年以上同棲してたのに、あっさり出てかれた俺の身にもなってよ!」
    「うるせえ、それは自業自得っつーんだよ」
     そう言われてしまうと、俺はぐうの音も出ない。俺がくちびるを尖らせて拗ねて見せても、夜久からは呆れたような半眼が投げつけられるだけだった。だけどその視線には先ほどの諦観はもはやなく、代わりに怒りを帯びたことで生き返ったように鋭かった。それが嬉しいと思ってしまうんだから、俺の結論は変わりようがなかった。
    「夜久から仕掛けられてたってわかった後も、俺の知らないところで夜久がリエーフとか研磨とかと会ってたかと思うと、それも妬けたし」
    「研磨もリエーフも俺に協力してくれただけだろ」
    「わかってても割り切れないから嫉妬なんでしょーが! 夜久だってそういうことあっただろ?」
    「だってお前俺のこと大好きじゃん」
    「大好きですけど! そこはさあ、頼むよ、やっくん」
     何を訳のわからないことを言うんだ、と眉を顰めて断定されたことは間違っていなかったし、付き合ってた頃も俺がつまらないことで嫉妬するたび同じように呆れられ、挙げ句の果てには「お前俺が信用できねえのか」とかなり本気で怒られたことまで思い出した。
    「……バレーには敵わねえって思うことは、あるかな」
    「……は?」
    「だから、バレーボール。黒尾はさ、コートの中でも外でも、バレーの話してるときが一番生き生きしてるし」
     それはちょっと、妬ける。そんな風に思うのは自分でも不本意なのか、はにかむように苦笑する夜久に胸が高鳴らないほうがどうかしていると思う。そんな顔は、どうか俺以外の前では見せないで欲しい。心臓が脈打つ音が耳の奥に響いて、喉がカラカラになった。
     
     夜久は俺のバレーボールへの思い入れの強さに嫉妬するなんて言うけど。俺にバレーボールをできるヨロコビを教えてくれたのが猫又先生なら、できない悔しさを突きつけたのが夜久だった。
     体格では優っていてもそんなの関係ないと言わんばかりに、打っても打っても拾われ、しかも全力を尽くしても相手の眼中にも入れてもらえない。夜久との出会いは俺の挫折だった。でもそこで折れずに夜久と対等になりたくて、そこからがむしゃらにレシーブを特訓したあの頃の俺に、いまの夜久の言葉を聞かせてやりたい。
    「バレーボールの話なら、俺にとって夜久は永遠に憧れだよ。夜久の活躍を見て誇らしい気持ちは、夜久のご両親や弟くんたちにも負けねえつもり」
     眩暈がするほどうるさい拍動を無視して夜久を見つめると、そんなことは知ってるし欲しい言葉はそれではないとでも言いたげな、不服そうな瞳とかち合う。その様子に、俺からの好意については自信満々なくせにバレーに嫉妬してるというのはどうやら本当らしいことがわかって、おかしみとともに胸が歓喜に震えた。
    「だけど、それと同じくらい、出会ってからずっと。俺は夜久衛輔の虜ですよ」
     近くでも離れていても、泣いて笑って、怒ってまた笑って、ときには洒落にならないケンカもして。基本的には溜息が出るくらい格好良く頼り甲斐があって、弟くんたちや後輩の前ではしっかり者の夜久が、海や俺の前では大人気なく飾らずに振る舞うことが嬉しかった。恋人になってからは、俺を甘えさせたり夜久からも甘えてきたり、海にも見せない顔を俺だけに見せてくれることが幸せだった。
    「……出会ってからって、お前がよく言う中一大会?」
    「やっくんが覚えてない中一大会のことですね」
    「根に持ってんな」
    「そりゃあね」
     夜久にとっての初対面である高校一年生の春からずっと言い続けている、俺にとっての初対面とのズレについてはやっぱり悪態の一つもつきたくなるけれど、夜久がようやく満更でもない顔で笑うから俺もつられて口の端が上がった。
    「離れて気づくなんて馬鹿だけど、俺はやっぱり夜久といたい」
     
     テーブルに置かれた左手をそっと握れば、ぴくりとわずかに動いたがそれ以上の抵抗はなかった。俺の手にすっぽり包み込まれるこの手に、俺もチームも何度救われて来ただろう。
    「ポーランドのことも、調べた」
     触れた手を軽く握ると、今度は憮然とした、でもたぶんこれは不機嫌なんじゃなくて照れてるだけの、夜久と目が合った。
     今の夜久の居場所。去年までの約6000キロを軽々超えてその距離約8600キロ。直行便はあるけど15時間以上かかる、遠い国。バレー強豪国で、ここ数年は常に世界ランキングのトップ3だった。今年の世界選手権では優勝を果たして、ランキング1位も確定していた。ワールドカップでもパリ行き最有力候補の筆頭。この辺は、仕事柄ソラでも言えた。
    「あとは、同性婚反対票で大統領が再選されてる」
    「……ならわかるだろ。ポーランドでも、街中でイチャイチャなんてできねえからな」
     黒尾にそんな度胸ねえだろうけど。握った手を解いて、今度は指を絡めるように夜久から握り直された。皮ふの薄い指の股をするりと撫でて、ふん、と鼻を鳴らして煽るように笑う夜久に、俺も指先に力が入る。
    「堂々できないのは残念ですけど。今なら人目もないし、そもそもここはニッポンなんで」
    「相変わらずヘタレじゃねえか」
    「俺は慎重なんですー! つーか、俺のせいで夜久がやりたいバレーができなくなったら、自分が許せないし」
     不本意なレッテルに不満を漏らすと、夜久の目の色が変わった。
    「俺はお前に優先されたいんじゃなくて、お前と対等でいたいんだよ」
    「わかってる。俺もそのつもりだし。だけどお前と俺じゃ、もう立場が違うだろ」
    「わかってねえよ。そうやってバレーしてる俺ばっか優先すんのやめろって言ってんだよ。いい加減わかれよ!」
     絡めた指を痛いほど握りしめ俺の目を正面から見据えて気色ばむ夜久の瞳は、チカチカと星が燃えるようで目が離せなかった。
     わかってるけど、わかっていない。正反対に見える俺たちを分かち難く繋ぐもの。俺からバレーボールが切り離せないように、夜久からバレーボールを切り離すことは不可能で、夜久のことを考えるときにはどうしたって頭の中から離れなかった。でもだからって、どちらかを選べと言われて俺が選ぶのは当然夜久だ。
    「俺だって、バレーしてる夜久のことだけ考えてるわけじゃない」
    「俺は、引退しても、爺さんになっても、」
    「っ、待て待て待て! お願い、待ってやっくん!」
    「お前と一緒にいたいのに」
    「それは俺が先に言いたかった!」
    「うるせえ、俺は待ったぞ! 出遅れたのはお前のせいだろうが!」
    「俺も夜久と死ぬまで一緒にいたいです!」
    「よし!」
     星を散らして吼えた夜久は、俺の返事を聞いてスッキリしたのか一つ息を吐いて、指先の力を緩めた。一方の俺は、今日ではない機会に取っておくつもりだった密かな目論見が、不意打ちで無防備なまま引き摺り出されたことで内心慌てていた。
    「お前、俺のこと大好きなくせに、俺がお前のことどれだけ好きかは信じようとしねえのも、やめろよ」
     気遣いだってわかってても、そういうのすげえムカつくし、俺だって傷つくからな。そう言って念を押すように、口を尖らせて少しだけ潤んだ上目遣いで睨まれればたちまち罪悪感が煽られ、焦りとは別の意味で心臓がうるさくなる。同時に、夜久の言動一つに振り回されている俺と同じように、俺の言動一つで夜久も一喜一憂していることを目の当たりにして、今度はニヤけないように必死だった。
    「なにニヤけてやがる」
    「いや、やっくん可愛いなと思って」
     だけどもちろん夜久の目を誤魔化すことなんてできなくて、素直に感想を述べたら呆れ顔をされた。
    「……お前な」
    「ごめん、調子に乗りました。でも、俺にも夜久の心配くらいはさせてよ」
    「黒尾のは過保護って言うんだよ。俺はお前の子どもじゃねえし」
    「子ども扱いした覚えはねえけど……まあ、それで一番大事な人を悲しませてたら元も子もねえよな」
    「挙げ句の果てに、その大事な俺を振りやがるし」
    「……さっき許してくれるって言ってたのに、夜久だってだいぶん根に持ってるじゃん」
    「思い出したら、新鮮にムカついてきた」
    「その節は大変申し訳ございませんでした」
    「おう。次はねえぞ」
    「肝に銘じます」
     しっかり目を合わせて交わせるのが過去ではなく未来の約束だったことが嬉しくて、つい浮かれてしまう。
    「じゃあやっくんも、俺にちゃんと伝わるようにいっぱい愛してね」
    「善処します」
    「そこは愛してる一択でしょ?!」
     冗談とわかっていても、思わず慌てて絡めた指を握り直せば、イタズラの成功を満足そうに笑った夜久が握り返してきた。
     
     離れてた年数分、話したいことも聞きたいこともたくさんあって、すべてを出し切るには時間が圧倒的に足りなかった。しかも、言葉と同じくらい、繋がった指先で交わされる熱を伝えたくてたまらなくて、気持ちが昂る。
    「……衛輔、いい?」
     夜久が去ってから何度も何度も夢想した錯覚、ではないあまい空気を逃さないように、そのままやや性急に繋いだ手を引き寄せて、テーブル越しの夜久の顎に手をかけた、ところで口を塞がれた。夜久の手で。
    「調子乗んな」
     ほんのり耳を赤くして、それでも挑発的に笑う夜久への不服表明と意趣返しに、塞いできた手首を掴んで手のひらを舐める。途端、反射的に離され「馬鹿やろう…」と悔しそうに夜久が呻いたので、実に単純に俺の機嫌も急上昇した。
    「負けられねえ試合前に、盛ってんじゃねえよ」
    「いや、今のは不可抗力でしょうよ! 何年お預けされてると思ってんの」
    「自業自得だろ」
    「いや、まあ、そうだけど。流石にここまできて解散は、辛いっていうか」
    「勃ってんの?」
    「やっくん、お下品!」
     幸いなことに俺の下半身はまだちゃんと理性のコントロール下にあって、たぶんそれをわかってるから夜久も楽しそうに揶揄ってきた。
    「何言ってんだ。次の同期会の後、空けとけよ」
    「っ、夜久」
     海と予約済みの同期会は、パリ五輪予選を兼ねたワールドカップが終わってから。歴代最強とも言われる今年の天照ジャパンは、7月にあった世界選手権でも堂々の世界3位の記録を残していた。メンバーは前回東京五輪から大きくは変わってないぶんチームとしての成熟度が上がっていて、決勝トーナメント進出は堅かった。つまり、俺にとってもう一つの勝負は、決勝トーナメント最終試合の翌日ということになる。
    「パリ行き逃したらナシだからな」
    「……まーたそうやってハードル上げるんだから」
    「その方が燃えるだろ? つーか、黒尾だって、俺らが負けるなんて微塵も思ってないくせに」
    「それはもちろん」
     私情を抜きにして、今回の予選トーナメントの組合せからいっても各国チームの分析データからも、今回でオリンピック出場権が得られる上位6チーム入りは充分に期待できるというのは、俺個人だけでなく職場でも専らの話題だった。
     
     時計は21時を回ろうとしていて、これ以上夜久を拘束できないことは頭ではわかっているのに離れがたく、繋いだ手を離せないでいた。なんとかキスだけでも、なんて往生際悪く考えている俺の邪念を感じたのか、夜久がさっと手を引いた。
     離れた手を反射的に追うように顔を上げると、悪戯を思いついた顔の夜久とばちりと目が合った。あ、これは、ヤバいやつ。
    「楽しみにしてるからな、鉄朗」
     俺が何か言う前に、見せつけるように夜久は俺を見つめたまま、先ほど俺が舐めた手のひらを赤い舌をたっぷり出してぺろりと舐めて見せた。
     わかりやすい挑発に簡単に煽られて、思わずごくりと喉を鳴らしたけれど、すでに絡めた指は解かれてなす術がなく、真正面のしたり顔に対して口の中で恨み言を言うのが精々だった。
     倍にして返してやるから、覚えておけよ。
     
     
     W杯の開催地が日本だったこともあって、日本代表の試合はすべて、それ以外もできる限りを実際に会場で見ることができた。そのおかげで、強豪国相手に一歩も引かない気迫のプレイでスーパーレシーブを連発した夜久の活躍も、画面越しじゃなくこの目に焼き付けられた。
     天照ジャパンは2位に躍り出て、見事パリ行きを決めた。自力での出場権獲得は実に16年ぶりの快挙で、SNSでも#天照ジャパンがトレンド入りするなど、バレーボールファンからはもちろん、世間からの注目も鰻登りになった。
     俺の役目は、この盛り上がりを一過性に終わらせず、オリンピックまで繋ぐこと。それが終わったらさらに次の大会まで。そうしてバレーボールに興味を持つ人が増えるほど、競技自体も選手層が厚くなってさらに面白くなる好循環が生まれる。
     仕事についても、これからのことを考えるとやりたいことがあふれ出てきて胸が躍るようだった。
     
     
    「黒尾と夜久は、ようやく仲直りしたのか」
     今回はずいぶん長かったから流石に心配した、なんて。音駒同期会の会場に夜久と揃って到着した時点で、にっこり笑った海から言われた。
    「あー……その節は、大変ご心配をおかけしました」
    「ごめんな、海。こいつが結論決まってるくせに理由つけてはっきりしねえからさあ」
    「なんだよ、夜久だって何考えてるかちゃんと教えてくれなかったから、俺も不安だったんじゃん」
    「はあー? 俺が悪いってのかよ」
    「そうじゃなくて、お互い様なところもあるだろって話ダロ」
    「二人とも、最初はビールでいい?」
    「「はい」」
     集まって早々ケンカ腰の言い争いを始めそうになる俺たちを、海はにこにこと学生時代から変わらない穏やかさで眺めていた。だけどそれこそ高校からの付き合いで、釘を刺す要所を心得ているからヒートアップする前に止めてくれる。それがわかっているから、海に甘えて下らない口論をしてしまうのは俺も夜久も同じだった。
    「お前たちは馬が合わないなんて口では言うところまで、昔からなんだかんだ似てるよな」
     俺たちの出会いの瞬間から知っている海に、呆れたような、でもどこか嬉しそうに言われてしまえば反射的な反発を飲み込んでしまうところまで揃ってしまって、流石にバツが悪くなった。そんな反応まで見越したように、海は珍しく歯を見せて笑っていた。
    「オリンピック出場もおめでとう」
    「おう、ありがと。今度こそ金メダル獲ってくる」
    「やっくんが言うと実現しそうに聞こえるから怖い」
    「あ? 怖いってなんだよ」
    「説得力があるナアってハナシ」
    「ワールドカップもネーションズリーグも大躍進だったし、期待してるからな」
    「任せとけ! オラ黒尾、激励っていうのは海みたいにストレートにやるもんだぞ」
    「ボクはフェイントが好きなんでぇ」
     海の言葉に屈託なく笑う夜久から海と比べられたことが面白くなくて、つい捻くれたことを言ってしまうとつまんねえ嫉妬すんなと呆れ顔をされた。自分でもわかってるからその顔余計に突き刺さるので、やめてもらっていいですか。
    「どっちにしろ夜久が拾ってくれるから、黒尾もそれに甘えてるんだよな」
    「海サン!?」
    「ほー、そうなのかよ?」
     菩薩顔のまま切り込んでくる海に、まあストレートとフェイント読み間違えたら拾えねえけどな! なんて嬉々として夜久が乗っかってきた。こういうとき、俺の味方はいない。そう愚痴を吐いたら、まずクロが夜久くんに突っかかるのをやめなよ、と研磨に言われたことがある。その通りだけど、夜久相手にそれができてたら苦労はなかった。
    「いや、そんなまさか、小学生じゃあるまいし」
    「そういや高一のときの絡み方も小学生だったな。俺が言うことに何でも正反対のこと言ってきてさあ」
    「よくネタ切れしないなあって感心してたよ。まあ、それだけ黒尾は夜久が気になって仕方なかったってことだろうけど」
    「ちょっと、俺にだけ集中砲火よくないと思います!」
     俺の黒歴史だと思ってにやにや笑う夜久と、それが高一だけじゃなくて現在まで続いてるとわかってて楽しそうに火に油を注ぐ海を前に、俺はなす術がなかった。夜久と俺の前では菩薩ぶりは表情だけになるんだから、海も本当にいい性格をしていると思う。
     
     
    「――今日は、どうする?」
     俺がいないところでまたケンカするなよ、と上機嫌で言う海と店の前で解散して、残された夜久に問いかける。空けておけ、とだけ言われてホテルを予約するのもあまりにも気が急いてる気がしたし、数年ぶりの逢瀬だったから俺としては諸々気を遣わずに済むように、夜久が俺の部屋に来てくれることを期待していた。
    「俺の部屋来いよ」
     俺から誘おうと言葉を選んでいる間に、そんな俺の思惑は見事に外れた。どうせツインでベッド空いてるし、ちょうどいいだろ。なんて得意気に言う夜久に、顔が熱くなるのを感じる。今が夜でよかった。
    「嫌なのかよ」
     何と返すべきか迷った俺が返事をしないので、夜久の声が不審そうにこちらに向けられた。
    「いや、ではない、ですけど」
    「なんだよ。文句あんのか?」
    「だって、夜久の泊まってるとこって、代表宿泊してるホテルだろ」
    「おう。こっからも近いし」
    「夜久選手が部屋に男を連れ込んだなんて、撮られちゃったらよくないかなー、と思いまして」
     俺が口にした最もな懸念は夜久には想定外だったらしく、ぱちくりとその大きな猫目を瞬かせた。代表メンバーは全員顔見知りだし、夜久と俺のことを知ってる奴のほうが多いくらいだからそれはいい。でも万が一にも夜久に悪意が向けられるようなことを招くことは避けたかった。
    「それを言うなら、朝帰り撮られるほうが気まずいわ」
    「朝帰りなら相手特定されねえだろ」
    「へえ、黒尾さんは一夜の相手を送り届けてはくれねえんだ。遊んでんなあ」
    「遊べればよかったんですけどねー。ていうかワンナイトにされちゃ、ここ数年一途に待ってた俺が報われないんですけど」
     軽口に本音を混ぜて口を尖らせれば、耐えきれないように夜久が吹き出した。俺にとってはちっとも笑い事じゃなかったけれど、屈託なく笑う夜久を見てると文句を言う気も失せてくるからずるい。
    「で、鉄朗くんはどうしたいわけ?」
     一頻り笑った後で、夜久が俺に向き直った。口元には笑みをたたえたまま、上目遣いで問われると、俺の葛藤もすべて見透かされている気になって悔しいけれど、だからと言ってここまで来て目の前の獲物を逃すほど俺も呑気じゃない。
    「それはもちろん、俺の部屋に来て欲しいです」
    「最初からそう言えばいいだろ」
    「やっくんが言わせてくれなかったんじゃん」
     恨みがましく言えば、そんなの決断力に欠ける黒尾が悪い。と一刀両断されて言葉に詰まった。夜久が俺の十分の一でもロマンチストなら、俺の意図を汲んでくれそうなものを、でもそうしたらそれはもう夜久ではない気もするから悩ましい。
    「黒尾の家でも俺はいいけど、お前いま一人暮らしだろ?」
    「そうですけど」
     俺が言葉を探す間に夜久からはあっさり了承がもらえて、夜の闇の中でも光を失わない大きな目がきらりと光って俺を捉えた。
    「身体痛めるし、俺は床で寝るのは嫌だからな」
    「――ベッドはダブルサイズなんで、遠慮なく俺の隣で寝てね」
     寝かす気はないけど。そんな言葉を言外に込めて、夜久の瞳を見つめたままできるだけいい声に聞こえるように囁くと、夜久は満足そうに笑った。
     
     
     俺の部屋について玄関のドアにチェーンまでしっかりと鍵をかけて邪魔者を排除してからは、夜久も俺も夢中だった。
     肌を合わせるのは本当に久しぶりだったから無理をさせないようにしたかったのに、これまた久しぶりのキスをやめられなくて、服を脱ぐ前からなし崩しになりそうで、呼吸が重なる距離で顔を見合わせてお互い笑ってしまった。
     首筋に顔を埋めると、瀟洒な香水の代わりに懐かしく愛おしい夜久の匂いがして、思わず吸い込むと「くすぐったい」と夜久が身体を震わせた。そのまま細かくくちびるを這わせてキスを落とし、鎖骨を舐めると夜久が熱い息を吐いた。
    「――やっぱり俺は、夜久を子ども扱いしたことねえし、夜久が子どもだと困るな」
    「何の話だ」
    「やっくんには、子ども相手じゃできないこと、いろいろしたいんで」
     痕がつかない程度に鎖骨や柔らかな首筋に吸いつきながら見上げれば、夜久が艶やかに笑った。
    「衛輔、いい?」
    「……ここでやめるって言ったら、許さねえからな」
     胸元の俺を見下ろしながら、見せつけるように上くちびるを舐める舌を逃すものかと、噛みつく勢いのくちづけを合図にしてふたりしてベッドに沈んだ。
     
     散々俺を煽ってきた夜久への仕返しに寝かせないつもり満々だったのに、学生時代から夜久にアドバンテージがあったスタミナは、現役アスリートと一般サラリーマンの間でさらに差が開いているのは自然の摂理で、先にギブアップしたのは俺のほうだった。
     口では「情けねえなあ!」なんて言う言葉とは反対に、夜久の目元は俺を愛おしむように優しかった。そんな些細なことにも愛おしさが溢れて同時に劣情がもう一度灯りかけたところで、俺の意識はあえなくブラックアウトした。
     
     
     目が覚めて、薄暗い部屋で最初に目に入ったのはいつもの寝相と違って枕の代わりに抱きしめていた夜久だった。トクトクと規則正しく刻まれる鼓動と、自分よりも温かに重なる裸の胸に、昨日の夜が夢じゃないことを実感して、愛しい人をもう一度抱きしめ、慈しみを込めて旋毛にキスを落とした。
     男二人が寝るにはロングサイズとはいえダブルベッドは少し小さかったけれど、こうして隙間なくくっついて寝るには大正解だったな、と腕の中にすっぽりと収まる夜久を見て思う。
     抱きしめたことで夜久がみじろいで、ぼんやりと目を開けた。俺の今日最初の視界がそうであったように、夜久にも俺を見て欲しくて名前を呼ぶ。緩慢に顔を上げた夜久の瞳に、俺だけが映っていることにひどくあまい満足を覚えて鼻にくちづけた。
    「おはよ」
     ぱちぱちと目を瞬く夜久を覗き込んで言えば、やや掠れた声で「…はよ」と返ってくる。普段のハキハキした声とはかけ離れたくぐもった声は昨夜を思い出させるには充分だったけれど、それ以上に綿菓子のようにふにゃりと幸せそうにとろける夜久の顔は、ただでさえ寝起きでふやけている理性に対する凶器だった。
    「ねぐせ、いつもとちがう」
    「衛輔を抱っこしてたからね」
    「なんだそれ」
     たぶん俺も似たような脂下がった顔をしているに違いないけれど、くすくすと微睡みながら笑う夜久は可愛いとしか言い様がなく、平生とのギャップに風邪を引きそうどころか、腕の中で長年の想い人にそんな顔をされたことで朝からまた元気になりそうだった。だけど、先日うっかり夜久に先を越されたことを、今日こそは俺から言うためには、欲望に負けてはいられなかった。
     
     このまま夜久を腕の中に閉じ込めておきたい誘惑に駆られながら、寝癖で跳ね上がった前髪が隠さない額にキスをして身体を起こす。時計を見れば9時過ぎ。カーテンを開ければ鮮やかな晴れ空が室内を一気に目覚めさせた。俺が起き上がったので、夜久も伸びをしながら降り注ぐ朝日の中でベッドに座った。
     むき出しの上半身にはところどころ赤い痕が散って、明るい日差しを浴びた白い夜久の肌に映えて俺の決意を揺らそうとするので、慌てて頭を振って邪念を払う。無防備な夜久の前に正座して向き合って、深呼吸を一回。覚悟を決めて、まだぼんやりしている夜久と目が合うまでじっと見つめた。
    「順番がちょっとズレたし、いろいろ間に合ってなくて格好つかないけど。だけど、夜久に話がある」
    「おー」
    「夜久衛輔さん。俺と、結婚してください」
     
     緊張に震える俺の声が寝室に消えても、目の前の夜久は微動だにしなかった。その代わりに寝ぼけ眼が三日月から満月になるみたいにゆっくり開かれて、まんまるな瞳に光が集まって弾けた。それからカッと頬に朱が走る。
    「おっまえ、そういうの! 朝からずるいだろ!」
    「朝は大事な話する時間ですー!」
    「ていうかそういうのはさあ、昨日ヤる前に言えよ!」
    「だから順番ズレたって言ってるダロ! 言うつもりはありましたー! でも衛輔だってノリノリだったじゃん! 俺だけのせいにしないでくださいー!」
    「くっそ……!」
    「え、それは何に対する罵倒なの。やっくんまだ俺の一大決心にお返事くれてないからね? 勢いで俺の心折らないでね??」
    「うるせえ、鉄朗のくせに不意打ちしてんじゃねえよ……俺だって、くそっ、結婚するに決まってるだろ!」
    「大事なことなのでやけくそみたいに言わないでください!」
     夜久の大声に合わせて、俺もボリュームアップする。辛辣な言葉とは裏腹に、涙目のまま首まで赤くする夜久の感情は正直で、そんな夜久を見てひどく安心した。たぶん俺も負けず劣らず赤い顔をしているんだろうけど、たった一言を伝えるためになけなしの勇気を総動員した後だから多少の情けなさは許して欲しい。
    「衛輔」
     膝を合わせたまま抱き寄せると、しなやかな身体が素直にもたれかかってきて夜久の鼓動と俺の鼓動が重なった。
    「結婚って言ったけどさ。俺は、どんな形でも衛輔と家族になりたい」
     もう離れたくない、という気持ちを込めて腕に力を入れると、俺の背に夜久の腕が回って同じ強さで抱きしめ返された。
    「俺たちは今の日本では結婚できないし、パートナーシップ制度とか養子縁組とか、結婚だけがその方法じゃないし、俺の親見てると結婚すれば安泰とも言えねえけど」
     できない理由は山積みだったけれど、それでも夜久のそばにいたいし、いて欲しいなら、待っているだけじゃ駄目だとこの数年で思い知った。夜久が望むなら、と言いかけてそれでは駄目だと思い直して、身体を少し離し夜久と目を合わせた。
    「俺は、俺たちに合う形を衛輔と考えたい」
     俺だけを映す胡桃色を見つめて、抱きしめる代わりに握った両手に力を込めて、祈るように言葉を紡ぐ。夜久は大きくゆっくり瞬きをしてから、ふ、と微笑んだ。
    「俺は、結婚がいい。だってそれが一番わかりやすく、鉄朗と家族になれる方法だろ」
     降り注ぐ朝日のせいだけじゃなく、いつだって俺の迷いごと照らす夜久が俺を選んでくれた事実を噛み締めると、じんわりと胸が熱くなった。ああ、もう、これは。泣いてしまうかもしれない。いま泣いても、きっと夜久が笑って抱きしめてくれるだろうし、いっそ泣いてしまおうか。
    「……はー」
    「なんだよ」
    「いやあ、俺のやっくんが相変わらず格好良くて眩しいなーって、思っただけ」
    「はあ? なんだそれ。つーか、俺がお前のなら、お前は俺のだからな」
     さりげない所有欲を滲ませた呟きもちゃんと拾って、夜久はにやりと笑った。そんなところにもうっかりときめいてしまうから、夜久にはこの先一生敵わない気がする。
    「だってさあ、衛輔は俺がいなくても日本どころか、ロシアでもポーランドでも大活躍してるわけじゃん」
    「そうだな」
    「そんな奴に、プロポーズして受け入れてもらっただけで、今日どころか今年の仕事はやり切った気分」
    「まだ10月だぞ」
    「そうですけど。衛輔なしで、我ながらここまでよく頑張ったと思って」
     夜久と離れていた年数、世界が終わりになるわけでも俺が生まれ変わるわけでもなく、俺の心情なんてお構いなしに世界も夜久も俺自身も時を刻んで、不本意ながら夜久がいなくても生きていけることは証明されてしまった。だけど、俺にとって生きることは呼吸をして心臓を動かすだけじゃなかった。仕事はともかく夜久がいない生活の虚しさ味気なさは、もう経験したくない。
    「そうだな。鉄朗がいなくても、俺は俺のバレーができる」
    「うん」
    「だけど、勝っても負けても、試合が終わった後に浮かぶのはお前の顔だったし、帰る家には鉄朗がいて欲しいって思った」
    「……うん」
    「だから鉄朗が俺と家族になりたいって言ってくれて、すげえ嬉しい」
     大きな猫目が真っ直ぐ俺を射抜き、それから花がほころぶように夜久は笑った。その笑顔があんまり美しくて放心していると、笑いながら「泣くなよ」と言われて初めて自分が泣いていることに気づいた。予想通り夜久は俺を抱きしめ、いつもと違う寝癖頭を大袈裟にかき混ぜてくれたので、俺も遠慮なくひと回り小さな身体をぎゅうぎゅうと抱きすくめた。
     
    「それでですね、ここまできて大変申し上げにくいんですけど」
    「おう、言ってみろ」
    「この間からちょっと急展開過ぎて、指輪は間に合いませんでした。なので、それはもう少し待ってください」
     俺の涙が止まったところで、隣に座る夜久にする告白はどうにも格好がつかない。本当なら一生に一度のプロポーズは、もっと計画的にやりたかった。だけど、俺の自己満足であれこれ格好つけるよりも、数日後には日本からまたポーランドに行ってしまう夜久にいま伝えるべきだと思った。
    「指輪くらいいいじゃん。なんなら今日にでも、ふたりで選びに行こうぜ」
     俺の懺悔を受けて、夜久は長いまつ毛をパチパチと瞬かせてから何でもないように言った。鉄朗のことだから目星はつけてるんだろ、とにんまり笑われてお手上げだった。幸い今日は日曜日。お天気もいい。これから着替えて、久しぶりにデートするのも悪くない。
     
     
     
     ***
     
    ――夜久選手は、同性パートナーを公表されてますよね。トップアスリートとしては、日本ではまだ珍しいと思うのですが。
    『そうですね。残念なことにまだ結婚はできてないんですけど、ずっと大事な相手です。でも今の関係に落ち着くまで、数年距離があったこともあって』
    ――夜久選手は、海外でも活躍されてますが、現在の活動拠点はポーランドですものね。
    『はい。ポーランドも同性婚は日本と似たような状況ですけど、日本でも俺たちみたいなカップルがいるって知ってもらうことは、同じようにもどかしい思いをしている方々へのエールになるんじゃないかと思ったんです』
    ――ということは、最初から公表される予定だったのですか?
    『いえ、むしろパートナーは俺のことを心配して、最初反対してました。だけど、〝ネットを下げる〟っていう相手の口癖を出したら納得してましたね』
    ――なるほど、〝ネットを下げる〟、素敵な考えですね。
    『ありがとうございます。下げるべきネットは、何もバレーボールだけじゃないんで』
    ――公表されてから、何か反響はありましたか?
    『学生時代からの友人たちや代表メンバーがサプライズで祝ってくれて、嬉しかったですね。だからあとは、早く家族になりたいです』
     
    「――笑顔で語る夜久選手の左手薬指には、シンプルなリングが説得力を持って佇んでいた」
    「音読すんな」
    「こんな堂々と惚気けて様になるの、流石ですねえ」
    「惚気てねえし、うぜえ」
     夜久からの心底煩わしそうな視線が突き刺さるのを感じながら、雑誌にもう一度目を落とす。普段はプレイの妨げにならないように首から下げられているプラチナが、雑誌では本来あるべき場所に収まっていた。そして今も。
     海との同期会から、夜久とふたりで俺の家に帰ってきて、順番に風呂を済ませて諸々の家事をこなし、後はもう寝るだけ。今回の帰国では、夜久はホテルではなく俺の家に泊まっている。本格的に同居するのは夜久が帰ってきてからにしようと決めて(これにも一悶着あった)引っ越しはまだしていないけれど、当たり前のように夜久が俺の部屋に帰って来ることに俺は未だに新鮮に浮かれてしまう。当たり前はごく簡単に壊れてしまうことを思い知ったから、余計にそうなんだと思う。
     寝る前のルーティンを夜久がこなしている間待つつもりで眺めていた雑誌の特集は、既に何度か読んだのに夜久の短いインタビューを読むたび、ここに至るまでの紆余曲折が走馬灯のように蘇って去来する感情を持て余し気味になる。
    「もういいだろ。これ以上放っとくなら、俺は先に寝るからな」
     一人感傷に浸りそうになっている俺を現実に呼び戻すように、ベッドに腰掛けた俺の寝癖頭がぺしりと叩かれた。顔を上げれば、夜久は少し眠そうにあくびを噛み殺したところだった。
    「疲れてるなら、今日はやめとくか」
     にやりと笑って雑誌を閉じると、「お前の頭にはそれしかねえのか」と呆れた顔をされた。そんなわけはないけれど、俺だけが盛ってるみたいな言い方には文句を言いたくて両手を広げてじっと見上げると、愉快そうに膝に乗ってくれた。
    「なに。今日はやけに素直じゃん」
    「ボクが素直なのはいつものことです」
     上機嫌に笑いながら俺の首の後ろで手を組んで顔を覗き込んでくる夜久からは、俺と同じ石けんの匂いがする。愛おしさをまるごと溶かし込んだような飴色の瞳には俺しか映っていないことを確かめて、先程の感傷が解れていくのがわかる。パジャマ越しに触れ合う身体の熱さと重さがたまらず、夜久の胸に顔を埋めるように抱きしめると「甘えただな」と頭上から楽しげな声がした。
    「鉄朗」
     ふかふかでやわらかな胸筋に包まれトク、トク、とゆったりと刻む夜久の心音に安心して、このまま眠るのも悪くないな、なんて思ったところで夜久に呼ばれた。惜しむように頬擦りして顔を上げたところで、掠めるようにくちびるに触れるだけのキスが落とされる。
    「お前も眠そうだし、今日はこのまま寝ようぜ」
    「……うん」
    「なんだよその間は」
    「いや、なんか贅沢だなって思って」
    「贅沢ぅ?」
    「俺はさ、いつも離れてるぶん、衛輔とやりたいことはいろいろあるんだけど。だからこそ何もしないでそばにいられるって、すげえ幸せだなって、思ったんだよね」
     夜久の左手を取ってくちづければ、体温に馴染んだリングがくちびるに触れた。そのまま夜久を見上げると、照明の逆光では隠し切れないくらい赤い耳が見えた。
    「……ふーん」
    「やっくんこそ、なんですかその間は」
    「鉄朗が健気なこと言うなーって思って」
    「惚れ直した?」
    「いや?」
    「そこは惚れ直しておいてよ」
    「残念ながら、今更直す余地がないほどお前に惚れてるからな」
    「……」
    「嬉しいか?」
    「嬉しいに決まってるだろ!」
     可愛い奴、とは夜久は口には出さなかったけど、さっきの夜久に負けず劣らず真っ赤になってるだろう俺を見つめる柔らかく弧を描く胡桃色は、口よりも余程雄弁だった。
     
     
    「衛輔は、海が言ってたみたいな春高の夢とか、見たことある?」
     二人でのびのびと並ぶには少し狭いダブルベッドで、狭さを理由に眠りにつくまでの間夜久を抱え込むように頭を胸に乗せて足を絡めたところで、ふと気になったことが口をついた。
    「ゴミ捨て場の決戦の?」
    「そう」
    「んー、俺はねえな」
    「へえ……」
     夏みかんみたいにさっぱりした答えに、世界を相手に今もバレーを続けている夜久からしたら高校時代のあの試合も相対化されてしまうのだろうか、なんてセンチメンタルが勝手に顔を出す。
    「悔いが残ってねえからな」
     そんな俺を見越したように、胸の上からあっけらかんとした声が続いた。あの試合で楽しかったことやあのときのチームとしての音駒の終わりだったことへの淋しさは覚えているけれど、後悔はない。
    「鉄朗は違うのかよ?」
    「……いや、それはそうだな。勝ちたかったっていうのとはまた別で、俺たちのベストは尽くしたし、後悔はねえかな」
    「だろ。そういう意味では、都大会敗者復活のほうが今でもフラッシュバックするかな。もうあんな局面で、怪我して退場したくねえし」
     そんなことを言いながら、コート外にボールが飛んでも躊躇なく飛び込んで繋ぎに行く夜久をプロになってからも何度も何度も何度も見ている。夜久に言わせれば、拾えるボールをみすみす見逃すことはできないということだが、見ているだけのこっちまで戸美戦を思い出して心臓に悪かったりする。
    「それに、そういう意味ならロシアにいたとき……いや、なんでもねえ」
     それまでふふ、と温かな呼気を転がしながら話していた夜久が不自然に言葉を切った。ここまでの文脈から聞き逃せるわけがなくて、思わず夜久を抱える腕に力が入る。
    「えっなに、そこまで言って止められたら気になるでしょうが」
    「うるせえ、寝ろ!」
    「俺より大きな声出してるのは衛輔だろ」
    「ぐ…いいだろ、聞かなかったことにしろ」
    「そこまで言われたら逆に気になるダロ」
     腕だけでなく絡めた足もきゅっと引いて密着し、目の前の生え際にキスを落として続きをねだる。そのまま何度かゆっくりキスを重ねていると、一つ息を吐いて夜久が折れた。
    「あー……ロシアにいたとき、夢見が悪かった時期があったんだよ」
     夜久はそれ以上は言わなかったけれど、俺には充分だった。その上であまりにも不本意そうな声で言うから、思わずホッとして笑いそうになる。
    「……もう二度とそんな思い、お互いしたくねえな」
    「次はねえぞ」
    「わかってる」
     
     
     夜久と俺の関係は、元クラスメイトで元チームメイト、それに元恋人。長いこと見続けていた悪い夢みたいなこの数年を経て、いまは婚約者で生涯のパートナーになった。
     
    「おやすみ、衛輔」
    「ん、おやすみ、鉄朗」
     先ほどまで絡めていた身体を離して、今日の最後に見る顔と明日の朝最初に見る顔が最愛の人であることの幸せを噛み締めて眠りにつく。
     たとえ悪夢を見たとしても目を開ければ夜久がいる。隣から感じる温もりと呼吸は、考え過ぎなきらいのある俺にその事実を否定しようもなく突きつけてくる。
     
     ああ、今日はいい夢が見られそうだ。
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