森重寛の最低で最高な一日どこかで目覚まし時計が鳴っている。隣の部屋のフリーターだろうか。うるせえな、早く止めろよ。まだまだ惰眠をむさぼりたい森重は、眉根を寄せながら寝返りをひとつうった。
もう一度眠るつもりでいたのに、目覚ましは止まるどころか、ますます音を大きくして鳴り続けている。やがて、どん、とベッド横の壁が叩かれた。森重は、そこでようやく、この時計の音がこの部屋で鳴っているのだと気づいた。渋々、重たいまぶたを開ける。
飛び込んできたのは、いつもの殺風景な自分の六畳間ではなく、シンプルなデザインのインテリアでまとめられた、恋人の部屋だった。ヘッドボードのデジタル時計をガチャガチャいじっていると、けたたましかったそれはようやくおとなしくなる。
「諸星さん?」
返事はない。
トイレだろうか、と視線をドアの向こうへ巡らせると、ローテーブルに置かれた紙きれが目に入った。
部屋の主はたいそうな綺麗好きで、ものを置きっぱなしにすることを好まない。森重がほんのすこしのあいだ、床に缶ジュースを置いただけで、やいやいと目くじらを立てるのだ。その諸星が、「片づけらんねーなら、もううちには入れねえ」とまで言うので、森重も最近は使ったものをきちんと仕舞ったり、ごみはすぐに片づけるようにしている。
森重は、のっそりベッドから起きあがり、その紙切れを手に取った。
バイトあるから先に出る。鍵はいつものとこによろしく。
美しいとも、きたないとも言い難い諸星の字を見ながら、森重は鷹揚に坊主頭を掻いた。大きなあくびをひとつして、そういえばあのひと、昨日そんなことを言っていたなあ、と思った。
諸星は、このアパートから海南大学へ向かうあいだの駅構内にある、コーヒーショップでアルバイトをしている。夕方から夜は部活があるため、講義が始まるまでの早朝シフトは都合がいいらしく、もう一年は働いているのだそうだ。
こんな朝は、これまでも何度かあった。諸星のいない部屋に一人で目覚めて、適当に腹ごしらえをして、鍵をかけたら郵便ポストに突っこんでおく。男の一人暮らしとはいえ、不用心だから合い鍵を作ったほうがいいんじゃないかと森重が提案してみても、彼は決して首を縦には振らなかった。
「だっておまえ、鍵渡したらうちに住みつくだろ」
森重からしたら、ふたりで住めば家賃も生活費も抑えられて好都合だと思うが、諸星はそんなケジメのつかない関係は許さないと言う。
「おたがいが親の扶養に入ってるうちは、鍵は渡さねーぞ」
年上の恋人の真意が理解できない森重は、諸星にそう諭されるたび、憮然とした顔をつくるのだった。
さて、諸星がご丁寧に目覚ましをセットして出かけてくれたおかげで、森重の目はすっかり覚めてしまった。今から準備しても1限には十分間に合う時間だ。
森重は、諸星宅の勝手知ったる台所の備蓄を漁り、カップ麺2個とご飯1パックをたいらげて、部屋着のジャージから、「海南大学バスケットボール部」の英字ロゴが入ったジャージへ着替えた。今日の部活は完全オフだが、森重にとって、これは制服みたいなものなのでかまわない。
カップ麺の殻は水でゆすいでゴミ箱へ、箸は洗って水切りカゴへ、脱いだジャージは自分のリュックの中へ。諸星から口酸っぱく言われたとおりに部屋を片づけ、森重は大きな体をちぢこませながら、狭い玄関でスニーカーを履いた。シューズボックスのうえに置かれた鍵を取り、ドアをくぐると、ひとつしかないその鍵でしっかりと施錠する。
あとはこの鍵を、一階の共有スペースに並んだ郵便受けに入れるまでがいつもの流れだが、なんとなく、今日は直接、諸星に渡してやろうと思った。
「……バイト先に行ったら、驚くかな」
口をついて出た思いつきは、音を伴うとこれ以上ない名案のように感じられた。
諸星は、突然現れた森重を見つけて目を丸くしたあと、うれしそうにするだろうか。それとも、バイトの制服姿を見られた気恥ずかしさに、素っ気ない態度を取るだろうか。
制服姿の諸星からコーヒーを受け取り、鍵を渡す。店内で彼のシフトの上り時間を待って、いっしょに大学へ行く。なんてすばらしい一日の始まりだろう。
早く、諸星さんに会いたい。
その気持ちだけ抱えて、森重は足取り軽く最寄り駅への道を駆けた。
2メートル超の巨体を満員電車に詰め込み、揺られ、森重は目的の駅で下車した。
プラットホームを出て、ふたつある改札のうち私鉄への乗り換え口が近いほうへ向かうと、改札の手前にチェーン店のコーヒーショップがある。
モーニングのピークタイムは抜けたのか、ガラス張りの自動ドアから見える店内は、まあまあの客入りだった。サラリーマン風の男が、カップを受け取り奥の客席へ移動したのを見送ってから、森重は自動ドアをくぐり店内へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ」
レジのスタッフがとびきりの笑顔で挨拶する。「ご注文お決まりでしたら、どうぞ」と促されるが、森重はかまわずカウンター内のスタッフを一人一人確認した。
……女ばっかりじゃねえか。
いずれも、朝からきびきびと快活に動き回る、若い女性スタッフばかりである。こちらに背を向け、奥の客席でテーブルを拭いているスタッフも、女性であった。
森重は一通り店内を眺めると、ずいっとレジカウンターに詰め寄った。
「諸星さんは?」
「はい?」
「今日、シフト入ってたはずだけど」
「あの……」
突如、坊主頭の巨漢につっけんどんな物言いをされ、レジの少女は表情を凍りつかせてしまった。
「失礼ですけど、あなたは?」
すかさず、カウンター内にいたべつのスタッフが少女をかばうようにあいだに入り、森重に問いかける。
「諸星さんの、大学の後輩」
胡乱そうな視線が森重を捉える。嘘は言っていないので、森重も黙ってスタッフを見つめ返す。
「大ちゃんなら、今日はもう上がって学校行ったよ」
レジ前の不穏な空気に、明るい声で割って入ってきたのは、さっきまでテーブル席を掃除していたスタッフだった。森重が視線を向けると、ダスターを片手にした彼女は、森重が着ているジャージのロゴに目をやり、にっこりと微笑む。
「きみ、森重くんでしょ。近くで見るとほんとおっきいね」
「あんたは」
「三浦。あたしも海南大」
「そうなんだ。じゃ、アリガトウゴザイマシタ」
諸星はここにいない。なら、自分がこれ以上長居する必要はない。
森重がさっさと頭を下げてレジに背を向けると、三浦はからりと笑った。
「本当に、大ちゃんが好きなんだねえ」
そうだよ、悪いか。よっぽどそう言ってやりたかったけれど、もうこれ以上、ここにいたくはなかった。森重は足早に自動ドアをくぐり抜ける。すぐそこの改札を通り、私鉄の乗り換え口へと一目散に向かった。
JRとは違い、この時間帯の私鉄は学生であふれかえっているが、今日はいつも以上に人波が割れ、歩きやすかった。みんな、森重のための道を開けてくれている。
オレはいま、そんなにおそろしい顔をしているだろうか。
「おまえさあ、ただでさえデカくて恐いんだから、もうすこしくらい愛想よくしろよ」
いつだか、諸星が呆れ気味に言っていた言葉を思い出す。諸星は、愛想よく振舞っているのだろうか。女性ばかりが働くあのコーヒーショップで。
三浦が親しげに、「大ちゃん」と呼ぶ声が頭から離れない。
恋人の森重だって、「諸星さん」なのに。合い鍵だって渡してもらえないのに。
なんだかひどくモヤモヤして、おもしろくない。あんなところ、行かなければよかった。
大学に着いたらさっさと諸星を捕まえて鍵を渡し、ついでにこのモヤモヤを解消してもらおう。
思うようにプレーができないとき、厳しいチェックにあってベンチへ下げられたとき、レポートの書き方がわからなかったとき。諸星はいつも森重の話を聞き、いっしょに考え、解決の糸口を探してくれた。諸星なら、きっとこの胸のわだかまりを解消してくれる。
早く、諸星さんに会いたい。
電車に揺られながら、家を出たときとは違う気持ちで、森重は同じことを思った。
長ったらしく、要領を得ない話し方をする講師による、退屈な講義を立て続けに2コマ終わらせた森重は、恋人を求めて南棟の学食へ向かった。
そこは、キャンパス内の学食では、一番メニューが豊富かつボリュームがあり、とくに体育会系の男子学生にひいきにされている。バスケ部の面々も、よくそこにたむろしているのであった。
しかし、たどり着いた学食に、森重の探し人はどこにもいなかった。いつもバスケ部が固まっている、ウォーターサーバー付近のテーブルには、牧と清田しか座っていない。
「諸星さんは?」
「森重テメエ、先に牧さんに挨拶しろこの無礼者!」
二回連続での空振りに、森重の口調はいつにも増してぶっきらぼうになる。
そんな森重の態度に憤慨し、目くじらを立てたのは同じ一年の清田だ。彼はとにかく、尊敬している牧への無礼を許さない。体格差や森重の不愛想にも物怖じせずキャンキャン嚙みついてくるため、最近では森重が早々に折れることのほうが多かった。
「……牧さんチワス。諸星さんは? いないんですか」
渋々といった様子で頭を下げた森重に、なにか言おうと口を開きかけた清田を、牧が手ぶりで制した。一度箸を置き、その大人びた顔に苦笑を浮かべ、答える。
「今日はゼミのやつらとラーメンを食いにいったぞ。知ってるか? 駅の反対口の、緑の屋根の」
知っている。以前、諸星が「いつ覗いてもめちゃくちゃ並んでるんだよな」とこぼしていた店だ。森重は満腹になればカップ麺でも袋麵でもかまわないので、「ふーん」と聞き流していた。
「ほんっと、かわいくねーな。おまえは絶対連れてってやんねー」
そう言ってイーッと歯を剝いていた諸星だったが、まさか本当に連れていってくれないとは思わなかった。
その、ゼミのやつらのほうがかわいいのだろうか。恋人の自分よりも?
そう考えた瞬間、どろりとした感情が胸をうずまく。まだなにも食べていないのに、胸焼けしたみたいに腹の底が重たくて、むかむかする。
急に拳を握りしめて押し黙った森重をどう思ったのか、清田が学食のカレーを食べる手を止めて、ふんっと鼻を鳴らした。
「諸星さんだって、たまにはほかのツレとメシ食いたいときもあるだろ。ちょっとは諸星さん離れしろよ」
「おまえにだけは言われたくねえ」
「こればかりは森重に同感だな」
森重が清田を睨みつけて反論すると、牧も深く頷きながら同調した。それを受けた清田は、「なんで牧さんがあいつに同感するんですか」と喚き散らす。
ピークを迎えた学食で、迷惑そうに清田を見やる学生は数える程度である。大半は、なんだまたあのバスケ部の一年かと、あきらめにも似た面持ちで目を逸らすのだ。
いまだ騒ぎつづける清田と牧をおいて、森重は学食をあとにした。
キャンパスの正門を出て、大通り沿いに15分ほど歩くと、海南生がおもに使っている私鉄の駅が見える。
森重は駅を突っ切り、反対口へと出た。くだんの店は、ロータリーを一本超えた先の脇道にある。3限が始まるまではあと10分ほどしかないが、いまの森重にとって、サボリなど些末なことだった。
ずんずんと迷いない足取りで歩みを進めた森重は、犯人を追い詰めた警察官のような気持ちで、ひとつめの角を勢いよく曲がった。
「は?」
目に飛び込んできたのは行列に並ぶ諸星ではなく、人影ひとつすらないただの小道だった。一瞬、曲がる角を間違えたかとも思ったけれど、目印の緑の屋根の店はそこにある。まさかと思い近づいてみれば、シャッターに張り紙がしてあった。
諸事情により、本日夜からの営業とさせていただきます。
「マジかよ……」
さすがの森重も、泣き言のひとつやふたつ言いたい気分だった。
諸星は、友人とこの張り紙を見て、ほかの店へと行ってしまったのだろうか。森重がここに来るまでにすれ違わなかったということは、もしかしたら大通りの反対側の、商店街あたりにいるのかもしれない。しかし、やみくもに探すには決め手に欠けるうえに、範囲が広すぎる。
森重は、乱雑な手つきで後ろ頭をバリバリと掻いた。
——You got mail.
ふいに、場にそぐわない女性の明るい声が着信を告げる。その音で、森重はほとんど携帯しない携帯電話の存在をようやく思い出した。これで諸星へ連絡を取ればよかったのだ。
善は急げとリュックの底から引っ張り出したそれは、清田からの新着メールを伝えている。件名に「代返しといた」とあるそれはあとで読むとして、森重は着信履歴から諸星の番号を呼びだし、すぐに通話ボタンを押した。
1コール、2コール……、コール音はなかなか途切れない。このまま店のまえにいるわけにもいかず、耳に携帯を当てたまま、森重は来た道を戻る。
コール音が8回目を迎えたとき、前触れなく、それはぷつりと途切れた。
「もしもし? もしもし!」
スピーカーからはなんの応答もない。携帯を耳から離して画面を見ると、まっくらな液晶の中央でバッテリーのマークが赤く点滅していた。電池切れだ。
「クソッ!」
頼みの綱も途切れてしまい、いよいよ捜索手段はひとつしかなくなってしまった。
森重は役立たずの携帯をリュックに放り込み、猛ダッシュで大学への道を駆け戻った。
キャンパスへたどり着くなり、バスケ部の部室と諸星のゼミを順番に覗いてまわった。
けれど、やはりというかそのどちらにも、諸星の姿はなかった。
「今日はもう講義も部活もないし、帰るって言ってたよ」
「朝早かったからさっさと寝たいーって、すごく眠そうにしてたよね」
「わかる、目がちょっととろんとしててかわいかった」
同じゼミだという女子が楽しそうに諸星のようすを話しているが、いまの森重には憤りを感じる余裕もない。
「アリガトウゴザイマシタ」
きびすを返しかけたところで、
「あれ、森重くんじゃん」
と、どこかで聞いた声が背中からかかる。「大ちゃんには会えた?」とタンブラーを片手に親しげに問いかけてくる三浦は、相変わらず悪気なく森重の神経を逆なでする。
「いま捜してるんだって」
「朝からずっとすれ違ってて、会えないらしいよ」
森重の代わりに、ゼミの女子が答える。
「大変だね。なんの用事か知らないけど、明日じゃダメなの」
「ダメ」
今度は、森重がきっぱりと答えた。
「オレが、諸星さんに会いたいから」
声に出すとこれ以上ないくらいにしっくりきた。オレが会いたいから、会いに行く。
名古屋から神奈川の大学へ進学したのも、昨夜諸星のアパートを訪ねたのも、朝からずっと足取りを探して奔走しているのも、すべては諸星に会いたいからだ。
彼が流れ星のように、一所にとどまらずどこかへと行ってしまうのなら、どこまでも追いかけて必ず捕まえてやる。
早く諸星さんに会いたい。
これまでにないほど強く願いながら、森重は再度、大学から私鉄までの大通りを駆けていった。
私鉄を降り、例のコーヒーショップを横目にJRへと乗り換え、諸星のアパートの最寄り駅で下車した。
そのまま通いなれた道を一直線に進んでいくと、左手にグレーの外観のアパートが見えてくる。一息に駆け上がった外階段のさきで、なぜか部屋に入らず、自分の部屋のまえに立っている諸星と目が合った。
「おまえなあ……!」
森重を見るなり、諸星は目を三角にしていつものお説教のモードに入る。すかさず距離を詰めた森重は、長い腕で力任せに諸星を閉じこめた。
「おいっ」
「うるさい、ちょっと静かにしてて」
「はあ!?」
「あんたのせいで、オレは朝から散々だったんだ」
腕の中でじたばた暴れる諸星の首元へ鼻先を埋め、思いきり息を吸う。彼が好んでつけている整髪料の、シトラスの香りが胸いっぱいに広がった。諸星らしいさわやかなその香りが、森重は好きだった。
「……おまえが鍵持って出てったせいで、自分の家に入れないオレのほうが散々だっての。電話してきたと思ったら充電切れてるし。まさか合い鍵渡さないことへの嫌がらせじゃねーだろうな?」
びくともしない森重の体に抵抗をあきらめたのか、諸星はすっぽりと抱きしめられたまま、ぶちぶちとお小言を始める。
このひとはこのひとでちょっと変なやつだよな、と森重は思ったが、よけいに怒らせそうなので黙って首を横に振った。
「べつに、そういうんじゃない。ただ色々忘れてただけ」
「ほんとかよ」
「本当。それよりも、諸星さんこそ、オレがいつ戻るかわからないんだから、ほかのところに行ったりすればよかったんじゃないの」
たとえば牧や清田や、バスケ部のやつらを通して連絡を取るなり、バイトやゼミの、家が近いやつに頼んで転がりこむこともできたはずだ。
「だっておまえが鍵持ってるなら、すぐ帰ってくんだろって思って」
と、諸星はほかの手段なんか考えもしなかったようなあっけらかんとした口調で、そう言った。
やっぱりこのひとちょっと変なやつだな、と森重は思った。
思っただけだったが顔に出ていたようで、「なに笑ってんだよ」と諸星がみぞおちを小突いてくる。
「笑ってねえ。てか、あんたから見えてないだろ」
「見えなくても雰囲気でわかんだよ。ほら、もういいだろ。さっさと部屋入ろうぜ」
ぐっと胸を押されたのでそのまま腕をほどくと、諸星は大きなあくびをしながら離れた。ゼミの女子が言っていた通り、薄茶色の大きな目が眠たそうにとろんとしている。
すこし仮眠をしたら、二人でなにか食べに行こう。それからまたこの部屋に戻ってきて、最後の欲求を満たせたら、これまでのゴタゴタは全部チャラになる。なんてすばらしい一日の締めくくりだろう。
森重は空腹に叫ぶ腹の虫と、目をしきりに擦る諸星を尻目に、ジャージのポケットに突っこんだ鍵を取り出し、シリンダーに差し込んだ。
20240707