無題またこの夢だ、と思った。
気づくとコンビニの前に立っている。アパートから一番近い店だ。入店音に続いて青と白の制服の店員が「いらっしゃいませぇ」と間延びした挨拶をする。
夢だとわかっているのに、オレの行動は意思では自由にならない。店内をうろうろして適当な商品を手に取り、セルフレジに向かう。飲み物やお菓子や雑誌、商品はその時によってさまざまだったがなにか買わなければいけないようだった。コード決済をして自動ドアに足を向ける。ふと目に入ったスマホの時間は23時20分。
やめろ、ダメだ、止まれ、いくら念じてもやっぱり意思ではどうにもならない。視界は自分のそれなのに、映画を見ているような感覚だった。
発音のあやしい「ありがとうございましたぁ」を背中で聞きながら店を出る。数歩進んだところで、ふいに視線を感じて右を見た。
物陰から、ものすごい形相をした女がじっとこっちを見ている。見たことのない──いや、ここ最近夢で毎日見てるんだけど、現実では会ったことないはずだ、たぶん──その女はオレと目が合うなり突然駆け出してくる。
──避けろ!
“オレ”が叫んだ声も間に合わず、女は体当たりの勢いで正面からぶつかってきた。優に頭ひとつぶんはある体格差だが、オレの身体はぐらりと傾ぐ。
「……あ?」
途端にカッと熱くなった腹。直角に生えている棒状のなにか。じわじわと赤く染まっていくパーカー。ナイフだ。腹に、ナイフが刺さってる。
「な、んで……」
正面へ視線を戻すと、女はニタリと不気味な笑みを浮かべた──
「……それで?」
「それで? じゃねぇだろ! 毎晩毎晩同じ時間に刺される夢見てみろよ、いい加減頭おかしくなりそうだぜ……」
夢を見始めてから今日でちょうど一週間経った。気味が悪くて夜だろうが昼だろうがあのコンビニには立ち寄れないし、万が一のために23時前後には絶対に外へ出ないようにしている。
けれど、あの時間にあそこへ近寄らなければ大丈夫だろうという期待を嘲笑うかのように、女は毎日夢に現れてはあの不気味な笑みでオレを見つめる。
深夜に飛び起きては汗まみれのシャツを着たまま、まんじりともせずに朝を迎える。ほとんど眠っていないので日中のパフォーマンスは落ちる一方だった。
そんな精神も体力もギリギリの繊細な恋人にかける第一声が「それで?」だと? ノンデリ野郎め、オレがマジで刺されて死んだら毎晩夢に出てやるからな。
「それ、愛の告白?」
「今の聞いてどこでそう思うんだよ」
「どう聞いてもそうだろ……まあいいや、今からそのコンビニ行ってみよう」
「は? 絶対やだね」
今、23時ちょい前だから、店を出てあのコンビニへ向かうとちょうどあの時間になっちまう。そもそも、だからまだ帰りたくねぇってここでクダ巻いてたってのに、こいつは本当にオレの話を聞いてない。
嫌だって言ってるのに、森重はさっさと店員を呼んで伝票を受け取り、自分のリュックとオレのジャケットを手に取った。
「いやマジでほんと無理だから」
「夢ではいつもあんた一人だったんだろ? 違うことしてみたら案外大丈夫かもしれねーじゃん。絶対いるとも限らねーし、行ってみてなんでもないって安心したほうがいいよ」
「もし大丈夫じゃなかったらどうすんだよ!? 刺されんだぞ?」
「オレが守るから平気でしょ」
「…………」
「ドキッとした?」
「女の心配した」
「ひっでーの」
唇の片端を上げるいつもの笑い方で立ち上がった森重は「帰ろ」と手のひらを差し出した。デカいそれに手を重ねると軽々と引っ張られ、齧り付いていたテーブルと引き離される。
人混みの中でも新鮮な空気を吸えるオレの、さらにふた回りくらいデカくて厚い身体。女どころか、並の男だって太刀打ちできないだろう。
「……守ってくれるのは有り難ぇけど、一応怪我はさせんなよ」
「それはセートーボーエーってことで」
怪我するなとは結局言えずに、ボディーガード料として夜メシの代金はオレが持ち、ふたり並んで暗く静かな夜道へ繰り出した。
「その女、どのへんに居んの?」
「ドア出た右手の電柱の影から出てくるけど、入るときから居るのかはわかんねぇ……っておい!」
煌々とバカみたいに明るい灯りの元へズンズン突き進む森重は、自動ドアの前でぴたりと足を止めゆったり左右を見回した。
「だれも居ねー」
「だから、マジで居たらどうすんだよっ」
小走りで駆け寄り坊主頭を平手で叩くとむっすりした顔が見下ろしてくる。
「でも居なかったじゃん」
結果論の話はしてねぇ、と口を開く前に森重は店内に入ろうとするから、オレは慌ててその腕を掴んだ。
「……なに?」
「いやいや、こっちが“なに?” 居なかったんだしもういいだろ?」
「買い物した帰りに刺されるんでしょ」
「そうだけど……」
「なら、ちゃんと買い物しなきゃ検証の意味ねーし」
なんでこいつそんな前のめりなんだ? 意外とホラーとか好きな人なのか? そんな感じ全然しなかったけど。
恋人の新たな一面を知って目を丸くしてるあいだに森重はまたもズンズンと店内へ入っちまった。今すぐこの場から離れたいが、かと言って情けないけど一人で帰りたくもないし、しょうがねぇのでオレも後に続く。
「いらっしゃいませぇ」
間延びした店員の挨拶を聞きながら、探すまでもなく陳列棚から飛び出す巨男のそばに寄る。なにを見てるんだろうと思ってその視線を追うと、歯ブラシなんかの衛生商品が並ぶ棚の隅っこに置かれた、やけに黒々としたパッケージをじっと見つめていた。
「サイズなくね?」
「……諸星さんちのまだあったっけ?」
「あっても我慢しろよ」
「あんたができんの?」
「うわうざっ。ナマイキ。かっわいくねぇ」
「つーか腹へったからなんか食いもん買お」
相変わらず自由でマイペースで三大欲求に忠実な森重は早々にそこから離れてカップ麺を物色しはじめる。こいつの胃袋にはツッコミ出したらキリがないので黙ってその後ろ姿を眺めながらちらっと見たスマホは、23時15分を表示していた。
「なにヘンな顔してんの?」
「時間が……」
「時間?」
一瞬不思議そうな表情を浮かべた森重は、すぐに「ああ、」と得心いった顔になった。
「会計して帰ろ」そう、なんでもないように言う。
オレとしてはもういっそ朝までここに居たい気分だったが、見上げるほどに体格差のある男に腕を引かれれば抗うすべはない。あっさりセルフレジに連れてこられ、アホみたいな量のカップ麺(まさか全部食うつもりか?)のバーコードを次々と読み込んでいく。慣れた手つきで決済画面まで進んで、また「あ」みたいな顔をしてオレを見るから、
「絶対ェ返せよ」とスマホをリーダーにかざした。嫌でも目に入っちまう時間は23時20分。偶然にしてはピッタリすぎる。サイアクだ。
「ありがとうございましたぁ」という発音のあやしい店員の挨拶と気の抜けるドアの開閉音を聞きながら、オレたちは外へ出た。
無駄に明るいコンビニの照明の端、右手にぽっかり穴が空いたみたいに電柱の影が落ちている。
気味が悪い。なにもない。そう思ってるのに、夢と同じくオレの視線はそこへ縫い止められる。来るときには確かになにもなかったその影の中で、ふとなにかがうごめいて──
「……っ!」
「なに?」
バチっと音が鳴ったと思うくらいに真っ直ぐに視線が交わった。暗闇の中でもハッキリとわかるくらいにギラギラと不気味に濡れたその目。
咄嗟に森重のブルゾンを握った。乾いた布の感触が、ひどく手汗を掻いていることを伝える。森重が不思議そうにオレを見ているが、唇がわなないてうまく声が出せない。出てくるのは荒い呼吸と、「あ、あれ……」という蚊の鳴くような声だった。
「どれ?」森重がオレの視線を辿って首を捻る。それと同時にぬらりと影が動いた。
「ヒッ……!」
コンビニの明かりに照らされたそれは、やはり毎晩出てくる夢の女だった。長く黒い髪は乱れてぼさぼさで、そこから覗く目だけが爛々と異様に光っている。
ただ、夢と違うのは、オレと目が合っても全力で駆け寄ってこないことだった。ゆら、ゆら、と幽鬼じみた足取りでゆっくり近づいてくる。
「あんた、この人になんか用?」
森重は、レジ袋をオレに押しつけると女からオレを隠すように割って入った。
女はそれに答えず、ただまっすぐこっちへ歩いてくる。夢の中では不気味な笑みを湛えていたが、その表情は妙に強張って引き攣ってすらいた。
「──いで」突然、ぼそりと女がなにかを口にした。
「は?」
「おい……っ!」
刺々しい声で聞き返すので、つい森重のブルゾンを皺になるのも構わずに引いた。ヘタに刺激したらなにをされるかわかったもんじゃない。
が、女は森重なんて見えてないみたいに相変わらずまっすぐにオレだけを見て──いや、もはや睨みつけている。ひどく怨みがましい目で。
そうして、ふたたび口を開いた。
「夢と違うことしないで」
それだけ言うと、パッと踵を返して駅前の方へと去っていってしまった。
「…………」
「えーっと……」
「…………」
「……とりあえず、今日はカップ麺食ってえっちして寝る?」
絶対今それじゃねぇだろノンデリ野郎!
そう怒鳴りつけてやりたかったが、アスファルトに座り込んだまま力の入らないオレは巨木みたいに太くて逞しいふくらはぎを殴りつけることしかできなかった。