そこかしこで蝉が大音声で鳴いている。
光秀は手近な木陰に腰を下ろし、後から後から転がり落ちる汗の玉を手拭いで拭った。
夏の盛りを過ぎたとはいえ、時を忘れて長い間体を動かし続けていれば暑さもひとしおだった。首と胸元の汗を拭うために袷を楽にする。ざっと拭ったところで、行儀よく襟を戻す気にはとてもなれずそのままにした。身なりに厳しい従者は遣いで領外へ出ているため、多少は構わないだろう。
まれに吹く風が心地よい。ほんの少し前までは暑さも忘れ刀を振るっていたというのに、一度木陰の快適さを知ってしまえば、あの中天の陽射しが照りつける中へ戻る気にはなれなかった。
そうして、「待ってろ」と言い置き光の中を駆けて行った背を思い浮かべる。何やらたくらみ顔をしていた彼がどこへ向かったかは知らぬが、戻ってきたら隣に座らせきっと汗まみれであろう顔を拭ってやり、しばらくここでゆっくりしよう。
思い思いの声色で存在を主張する蝉の声を聞きながらぼんやり考えを巡らせていると、やがて光秀の耳に軽快に地を蹴る足音が届いた。
「光秀!」
足取りと同じく、明るく晴れやかな声と顔で鹿介は手を振り光秀を呼んだ。いつの間に脱いだのか片肌脱ぎの上体は夏の陽射しをふんだんに浴び、それ自体が輝いているかのごとくまぶしい。
利三がいれば鹿介の恰好に目くじらを立てたのだろうが、光秀も人のことを言えぬほど襟元を崩しているしあたりには人影も見えない。たまにはよいだろうと黙殺して、光秀はそのしなやかな肢体が躍動し真っすぐ傍に駆けてくる様を目に焼きつける。
「へへっ、お待たせ」
「随分と遅かったな、どこまで行っていたんだ?」
鹿介が片腕に抱えた笊にはあえて言及せず、光秀は逆の手を取って友を隣に座らせた。鹿介は次から次へと額に浮く汗を気にも留めず、まだ腰も落ち着けないうちに「ほら」と光秀へ笊の中を見せてくる。
「立派な桃だ……どこでこれを?」
「今朝、厨番からもらったのを井戸で冷やしておいたんだ。ふたつしかないから、悪いけど利三には内緒な」
茶目っ気のある言い回しで片目を瞑ると、鹿介はむんずと桃を掴み皮を剥きにかかった。
光秀はそれよりもまず当初の目論見通り鹿介の汗を拭ってやりたかったのだが、
「早く食べなきゃ温くなるぞ」
と急かされたので、ひとまず順序を変更することにした。促されるままに残った桃を手に取る。
鹿介の言通り、細かな産毛が水滴を弾きながらも丸々とした桃はよく冷えていた。実を潰さぬよう爪を立て慎重に皮を剥ぐと、つるりと艶やかな果肉が姿を見せる。
鍛錬後に水は口にしたはずだったが急にのどの渇きを感じ、光秀は早々に桃へ齧りついた。
「……美味いな」
歯を立てた瞬間、芳醇な香りと果汁が口いっぱいに広がる。実は柔らかく、爽やかな甘さが舌の上でさっと舞う。表面だけではなく中までひやりとしていて、それまで感じていた暑さも、のどの渇きも忘れてしまうほどだった。
「そうだろ? やっぱり冷やしておいて正解だったな」
得意げに鹿介が言うのに頷き返し、光秀は二口目を頬張った。
熟れた果肉は瑞々しく、まるで血のように果汁を滴らせる。口で受けきれなかったものが指を伝い、手を通り、腕へと流れていく。多少のもったいなさを感じつつも、光秀は肘で止まったそれに手拭いで拭った。すると、そうしている間にも拓いた道をたどり果汁が先を競って伝い落ちてくるため、ままならない。
どうしたものかと逡巡していると、隣から声が掛かる。
「もう舐め取ったほうが早くないか?」
「しかし……」
「だれもいないし構わないって。俺も、利三には内緒にするからさ」
そう笑うと、鹿介は舌を伸ばし己の手首から指を舐りあげた。鹿介の手も、光秀以上に滴る果汁に濡れ、心地よい木陰の中でてらてら光っている。
甘露のごときしずくを舐め取っていく舌は、驚くほどに赤い。その鮮烈な色に若い光秀の目は奪われた。
「……光秀?」
「い、いや、何でもない」
鹿介の怪訝そうな声に我に返った光秀は慌てて友から視線を引きはがす。そのため、鹿介の目がきらりと光ったのを知らなかった。
――こんなところで、と光秀は思う。
頭をよぎった、閨での彼の姿を必死に追い払う。いまは昼九つで、ここは武家屋敷の庭の一角で、鹿介はただ桃を食べているだけだ。それなのに俺ときたら。
桃を食べ終えたらしばらく休むつもりだったけれども、すぐに鍛錬に戻ったほうがよいかもしれない。無心で体を動かせば煩悩も取り払われることだろう。まだ鹿介の汗を拭いてやっていないが、いま彼に触れたらきっと止まれなくなる。手拭いだけ渡してさっさと立ち去ろう――。
ひとり自省しながら、光秀は残りの桃を平らげた。さきほどの比ではないほど指も手も腕も汁で汚れているが、気にしているいとまなどない。
「鹿介、俺は先に始めているから――」
傍らの木刀を手にしつつ、目を合わせず発した言葉は最後まで続かなかった。鹿介が、光秀の手を取ったからだ。
「…………」
「…………」
木陰と蝉しぐれの中で、時が止まったように二人は見つめあう。
触れ合った手よりも絡む視線のほうがよほど熱かった。
先ほど潤したばかりだというのに、光秀は激しいのどの渇きを感じた。せっかく拭った汗が再び噴き出す。
「光秀……」
常の溌溂とした声とは違い、密やかに光秀を呼ぶそれは閨で聞くものと同じだ。
ごくりと大きくのどが鳴る。
「利三には内緒、な」
二人だけの秘め事という甘美な響きを囁く唇が割れ、くだんの赤い舌が見え隠れする。そのどちらもが蜜にまみれてあやしく光り、食べごろに熟れていると光秀を誘う。
そしてそれは、若い男の身の内で燻っていた種火を燃え上がらせるには十分であった。
中天の陽射しは熱く照りつけ、蝉は変わらず大音声で鳴いている。
しかし、ただそれだけだ。どうせだれも見てやしない。
光秀は誘われるがまま、唯一自身の渇きを癒してくれるその唇へ食らいついた。