義景がおやと勘付いたのはその声色である。
その日、義景は光秀を茶室へ誘っていた。ちょうど、彼の実直な従者は旧領へ、明朗な相棒は京へと出向いており、一人きりで黙々と鍛錬に励んでいると聞きおよんで声をかけたのだ。
「偶にはこうしてゆっくり過ごすのも悪くないでしょう」
「お気遣い痛み入ります、義景様」
「光秀は一人でいるときのほうが疲れているように見えますから」
「……お恥ずかしい限りです」
城中の女たちは、この見目の良い勤勉な客将の世話をとにかく焼きたがった。あれこれ理由をつけては顔を出し衣食住を整えるだけではなく、夜の世話すらも厭わないと秋波を送るものまでいると聞く。
光秀は困り顔で彼女たちをやんわりと躱しているそうだが、いつも傍にいる男どもが揃って留守をしている今こそ好機と女たちの誘いも熱を帯びているのだろう。いくさ場でも見たことのない疲労の色がその秀麗な顔に浮かんでいる。
「早く戻ると良いですね」
一人でいるよりはあからさまな誘いも影を潜めるだろう。利三でも鹿介でも、どちらかが戻れば彼女たちも落ち着くはずだと思い義景はそう言ったのだが、光秀は違う受け取り方をしたようだった。
「ええ、しかし尼子のご遺児とはいえ、還俗を説き伏せるのは容易ではないはず……」
「……そうですね」
遣いに行った利三ではなく、いつ戻ると知れない鹿介の話だと光秀が判断するのは不思議ではないが、これまでに聡い光秀と齟齬が生じたことがなかったため、義景はいささか違和を覚えた。
「ですが、鹿介ならきっとやり遂げるでしょう。できぬことは口にしない男です。その大願のため、俺もできることは何でもしてやりたい」
こちらの反応を待たずに言葉を続ける様子もまた珍しく、義景は光秀を黙って見つめた。
膝の上でこぶしを握る光秀に、先ほどまでの疲労は見えない。
双眸に強い光がみなぎり、頬に血の気が差す。心なしかうなだれていた顔が見る間に生気を取り戻していく。
「そのためにも俺はもっと強くならねば……」
上ずった声が、献身という尊い情を乗せ決意を改めて口にする。義景に、強さとは何かと問うたものとはまるで異なる響きで。
ああ、と思う。
何ということはない。はじめから光秀の頭には彼の片割れ月しかいなかったのだ。
合点のいった義景は独り言ちる。
「――どうやら私の杞憂だったようです」
光秀が片眉を上げる。義景はそれには応えずに、
「早く戻ると良いですね、光秀」
と重ねるだけにとどめた。
先ほどとは違い含むものがあることを気取ったのか、光秀はぎょっと目を剥く。
咄嗟に言を紡げず、そのまま気まずげにせわしなく視線を泳がせる青臭い仕草が好ましく、義景はおだやかに相好を崩した。
◆
利三がほらと呆れたのはその顔である。
近頃、鹿介の挙動がおかしい。
朝はなかなか起きてこない上に、ようやっと起きてくればどこか呆けている。鍛錬を始めればさすがに集中するが、一度刀を置くと落ち着きなくそわそわしたり、ぎくしゃくと絡繰りじみた動きをする。壁にぶつかり段差を踏み外し池に落ちる。身に着けていたはずの鉢金を失くし、慌てて捜しに行ったと思えばぼんやりしながら手ぶらで帰ってくる。
目に余る奇行の数々に利三の我慢は限界だったのだが、
「すまない利三、もう少しだけ待ってやってはくれないか」
と敬愛する主君に先回りされてしまえば何も言えない。
もう少し待てというならそういうことなのだろう。おのれが口を挟むのは野暮というものである。
利発な従者はそうわきまえ、成り行きに任せることにした。のだが――、
「利三、ちょっといいか」
ある夜、硬い顔でやってきた鹿介をどれだけ追い返してやりたかったか……。のちに酒の席で利三はそう語ったという。
しかしこれは主に大きく関わることなので無碍にもできない。利三はひとつ首肯して鹿介を招き入れた。
今宵はきっと長い夜になる――。そんな予感をひしひし感じながら。
「実は話せば長くなるんだけど――」
光秀に懸想していると告げられたが自分は彼をどう想っているのかわからず返事に困窮している。
鹿介の話を要約するとこれだけである。
ただこれだけのために、利三は貴重な睡眠時間ととっておきの寝酒をいくらか犠牲に払った。
途中、幾度も寝落ちしかけ、いっそのこと決定的な言葉で場を収めようとも考えたのだが、これもすべて主のためと耐え忍んだ。わが殿の幸せはおのれの幸せ。まさに忠臣の鑑である。
「鹿介、今宵はもうここで寝ても構わぬから、せめて布団には自分で入ってくれぬか」
続きの間に褥を敷きながらぐらぐら舟を漕ぐ鹿介のつむじに話しかける。と、鹿介はいくつかあいまいな呻きを発した後で「戻るよ」と静かに、けれどもはっきりと口にした。
「ちゃんと返事しないままほかのやつの部屋に泊まったんじゃ、光秀に悪いもんな……」
「……そうか」
――何が光秀をどう想っているかいるのかわからない、だ。利三はいよいよいい加減にしてくれと嘆息したかった。
今すぐにそのふにゃふにゃの身体を月明かりの元に引きずり出し、その寝ぼけまなこをひん剥いて鼻先に鏡を突き付けてやりたかった。
この時ばかりではない。
近頃の鹿介がどんな顔で光秀を見つめ、光秀を語り、光秀のことを考えているのか。知らぬは当の本人ただ一人なのである。
◆
長政があれと思ったのはその雰囲気である。
すっかり秋めいた一乗谷の城下を長政は一人で歩いていた。
越前の秋は短く、うかうかしているとあっという間に雪が厚く降り積もり、身動きが取れなくなってしまう。その前に一度顔を見ておきたかったのだ。盟友の義景はもちろん、友人であるその客将たちにも。
すでに義景には目通りを済ませているが、光秀と鹿介は連れ立って城下に出ているのだという。城で待たせてもらっても構わなかったのだけれども、急いでいるわけでもないし久しぶりに散策したい心持ちだったのでこうしてぶらぶらとしている。
野菜、穀物、魚、織物、装飾品、薬、金物、食器……。市に並ぶものはどれも近江のそれと似ているようでやや異なる。越前と近江、暮らしの小さな違いがそこにある。長政はそれらをひとつひとつ見て回るのが好きだ。
そうして歩いていると、中には「これは近江のお殿さま……」と声を掛けてくるものも少なくない。活気と人の良さは自領のそれと違いはなく、そんなところもまた長政は好きだった。
ややあって、長政はふと、十数間先の軒下に見覚えのある後姿を見つけた。
行き交う人々から頭一つ分は抜けた、乱雑に束ねた墨色の髪と、それよりは幾分か低い位置の明るい鹿毛の頭である。
あんなに目を引く二人連れはそうそういまい。心当たりに間違いはないだろう。偶然会えれば僥倖とは思っていたが、こんなにあっさり見かけるとは。
しかし、声を掛けるにはいささか距離がある。長政は初老の店主に断りを入れ通りへ出た。と、同時に二人も長政とは逆の方向へ足を向けたため、慌てて後を追う。人の合間を縫いながら歩を早めた。
並んで連れ立つその背まであと三間と迫ったところで、長政は口を開いた。
「光秀、鹿介――、」
が、その名前は持ち主へ届く前に長政の噤んだ口の中に溶けていった。
――長政が彼らを呼ぶほんのわずかな時間である。
鹿介が何か話しかけたようだった。光秀の頭がそちらへ傾ぐ。やり取りまでは聞こえないが二言三言言葉を交わし、やにわに光秀の指が鹿介の髪をさらりと撫ぜた――。
ただそれだけのことであるが、長政はとっさに呼びかけるのをやめた。
すぐに霧散したあの刹那の雰囲気は、以前の二人にはたしかにないものだった。視線のおだやかさ、口角の角度、顔の近さ。どれをとっても以前会った時のそれとはまるで違う。もともと仲の良い二人ではあったからか、不思議とそれは長政の胸にすとんと落ちてきた。
仲睦まじく並んだ背は談笑しているのだろう、時折肩を揺らしながらゆっくり人波に紛れていく。
長政はもうその背を追うことはせずに、一人静かに踵を返した。今宵の酒の席でどう冷やかしてやろうか、そう意地の悪いことを考えながら。