ある研究員の、隣人観察記録 これは、僕の家の隣に数日間だけ住んでいた人達の話だ。
ほんの数日間しかいなかったけれど、毎日ひたすら研究に明け暮れて同じような日を過ごしている僕に、色々なインパクトを与えてくれた、そんな人達の話。
■一日目
年末と正月の賑やかさが過ぎ去って、少し落ち着いた頃のことだった。
ちょうど区切りが良かったのでいつもより少し早めに作業を切り上げて、少し食材を買い込んで帰宅した。小さなアパートの、一階の奥から二つ目の部屋。部屋の前まで来ると、空きであるはずの隣の部屋に、人だかりができている。皆同じ作業服だった。
「引っ越し……かな」
前の住人は僕よりもずっと年上の男性で、結婚して妻の実家に入ることになりました、と幸せそうな笑顔で挨拶をくれて退去していったのが二年前。以降はずっと空きの状態が続いていた。ついに人が引っ越してくるんだろうか。どんな人だろう。あまり煩くない人だといいけど。このアパートは見た目よりずっと耐震性や防音がしっかりしているけど(僕も時々家でも機械いじりをして少し音を立ててしまうので、防音がしっかりしているここを選んだ)、それでも度を越す音は流石に伝わってくるだろうし。
隣に住む人ということで流石にちょっと気になって、そのまま引っ越し作業を眺めていたけれど、暫くすると部屋の中から作業服ではない人が出てきた。引っ越してくる人かな、とその人に目を移した僕は、その姿に思わず息を呑んでしまった。
男性だった。僕より少し年上か。背の高い、色の濃い艶のある髪を持つ、とても綺麗な人。
男性なのに綺麗と表現したのは外見も勿論なんだけど、姿勢良く立つ様子や、作業服の人達と話しているその様子がとても洗練されているように見えたからだ。僕はテレビや雑誌も自分の研究に関するものしか基本見ないから、今人気の俳優さんやモデルさん等は全然知らないけれど、そういう人なんだろうか。そう思ってしまうくらい、オーラのある人だった。
ずっと見ていたから気付かれてしまったようで、その人がこちらに歩いて来る。僕のところに来てるんだよな、そう思って思わず背筋が伸びた。
「この部屋に住む方だろうか」
僕の目の前まで来た男性は、穏やかな笑みを浮かべて、僕の部屋を示しながら話しかけてきた。
「は、はい!」
やはり男性は、隣の部屋に引っ越してきた人だった。仕事の関係で短期間だけ部屋を借りるらしい。よろしく、と頭を下げられて僕も深々と頭を下げた。
「よ、よろしくお願いします! 僕、この近くの研究所に勤めていて、朝と夜しか基本いないんですけど」
「ほう、研究所に」
「そうなんです、小さい所なんですけど――」
そこまで言ったところで男性の後方からすみません、と声が聞こえた。作業服の人が男性に聞きたいことがあるみたいだ。
「それでは、今日はこれで」
「あ、はい! よろしくお願いします」
互いに再度挨拶をして、男性は隣の部屋に戻って行った。僕も自分の部屋に入って、ドアを閉めて息を一つつく。
「なんか、すごい人が引っ越してきたな……」
仕事と言っていたけど、どんな仕事なんだろう。先程思ったような、俳優さん等ではないのだろうか。そこまで考えたところで、僕はあることに気が付いた。
「……名前聞くの忘れた……」
そして自分も名乗り忘れている。しまったな、と思ったけれど、隣同士なのだからこれからいくらでも機会があるだろう。今日のところはそう思うことにした。
■二日目
いつものように朝家を出て研究という名の仕事をして、昨日とほぼ同じ時間に帰ってきた。昨日の人には今日はまだ会えていないけれど、仕事で来たと言っていたから同じようにどこかに仕事に行っているんだろうか。そんな事を考えながらアパートの通路まで来たところで、僕は足を止めた。
隣の部屋の前に、誰かがしゃがみ込んでいる。
年齢と体格は昨日の人と同じ位だろうか。ふわっとした明るめの髪の人。昨日の人は凛とした、固めな感じの人だったけれど、この人は気怠げな雰囲気を醸し出していて、まるで正反対に見える。あの人に用があるのだろうか。
困ったのは僕だ。部屋に入るにはこの人に近付かなければいけない。でも、煙草を吸っていて何だか少し怖そうに見える。どうしたものか。
けれどずっと立ち尽くしていたから流石に気付かれたみたいで、その人がこっちを見た。鋭い視線に背筋が凍る。やっぱり怖い人なのだろうか。そう思ったけれど、次の瞬間その鋭さは消えた。へらりと薄く笑いながら、こっちに近付いてくる。
「ココの人?」
そう言いながら僕の部屋のドアを示したから、こくこくと首を縦に振った。
「おぉ〜、アイツが言った通りだな。実は鍵持ってくの忘れちまってさぁ」
もうすぐアイツが帰ってくるはずなんで待ってるんだけど、とこの人は言う。『アイツ』というのが、昨日の人か。この話し振りだと、昨日僕と会ったということはこの人も知っているようだ。僕は意を決して話しかけた。
「あの、あなたもここに……?」
「ん? あぁ、昨日アイツも言ったと思うけど、仕事で。ったく、朝晩アイツとずっと一緒とか、息が詰まって仕方ねぇんだけどさ」
どうやらあの人と一緒に住んでいるようだ。ここは2LDKだから二人で住んでいても不思議じゃない。でも、雰囲気が全く違って見える二人の共通する仕事とは、一体何なのだろう。
「昨日の人は、お出かけなんですね」
「そ。もう少しで帰ってくるはずなんだけど」
「あの、お仕事って何を――」
そう聞きかけた時だった。男性がふと僕の後方に目を移し、軽く手を上げてみせる。もしかしてと振り返ってみると、そこにはやはり昨日の人がいた。
不機嫌そうに、見える。この男性を睨んでいるんだとわかった。視線の鋭さにまた僕の背筋は伸びたけれど、僕に目を移したその人は、すぐに昨日と同じ穏やかな笑顔を浮かべて軽く会釈をしてくれた。僕も慌てて頭を下げる。
「おぉ、相っ変わらずの変わり身だなぁ〜」
けれど、僕の側にいる人が茶化すように言うと、昨日の人はまたぎっとこの人を睨みつけた。
「鍵を忘れるとは……」
「仕方ねぇだろ。出るときはお前と一緒だったから鍵を使わなかったし」
「何故、出発時に確認をしなかった」
「入ってると思ったんだって」
二人は僕を間に挟んだまま、軽い言い合いに発展する。あまり仲は良くないのだろうか。雰囲気が違うから考え方も合わない、とか。そして、僕はこの状態で一体どうすれば良いのか。影が薄い人間であることは自覚済みだけれど、完全に存在を忘れられているような気がしなくもない。困った、と思っていたが、やがて昨日の人の方が先に僕に気付いて、また穏やかに笑いかけてきた。
「見苦しい所をお見せしてすまない」
「い、いえ……」
「お前がすぐ小言言い始めるからだろ〜」
「貴様は黙っていろ」
後ろからの言葉にはぴしゃりと言い返す。これはまた続きが始まってしまう前に退散した方が良いかもしれない。
「それじゃあ、僕はこれで」
二人に深く頭を下げて、自分の部屋の鍵を開けて勢い良く中に入った。ドアを閉めて一息。
「なんか、色々びっくりしたなぁ……」
正反対に見える二人。どちらの人も僕が今まで出会ったことのある人達とは全く異なるタイプだ。一体どんな仕事をしているというのだろう。
そして、また名前を聞き忘れてしまった。
■三日目
どうもこの人達とは、帰りに会う気がする。今日は休みだったので、軽く部屋を片付けて、それから近くにある本が読めたり買えたりするカフェで本を買ってきた。残りの時間はそれを読みながらゆっくり過ごそうか、そう思いながらアパートの敷地に入ろうとしたところで、初日に会った方の人と一緒になった。この人もどこかに行っていた帰りらしい。
「こんにちは」
挨拶をするといつもの笑顔で応じてくれた。昨日の不機嫌さは、感じられない。やっぱりあの人限定なのだろうか。
「それは……何かの資料だろうか?」
どうやら僕の鞄から覗いている本が気になったみたいで、それに視線を移しながら聞いてきた。僕は本を取り出してこの人に見せる。
「すぐ近くに本を読みながら飲食ができるカフェがあるんですけど、本を買うこともできて。今やっている研究に関連する本が入ったと聞いて買ってきたんです」
「成程……、実はそのカフェには以前から興味を持っていて。よろしければ、少し話を聞かせてもらえないだろうか」
「は、はい、僕なんかで良ければ」
互いの部屋に入る程でもないしと、自分達の部屋の前まで移動して、それから少し話をした。芋蔓式に僕の研究のことも話すことになったんだけど。
「ほう、機械工学を」
「はい。この辺りはニューミリオンの郊外だからサブスタンスを用いた技術が使われているものばかりですけど、僕の研究所は昔ながらのサブスタンスを用いない技術の研究を主にやっていて。時代錯誤かもしれないですけど」
「いや……、研究はあらゆる角度から行われるべきであって、時代錯誤とはならないだろう」
嬉しい言葉をかけてもらった僕はつい喜んでしまって、そこから少し研究の話になってしまった。驚いたのは、この人が工学に関する知識も持っていると言うことだ。僕の悪い癖で、このジャンルに詳しくない人にはわからないような専門用語をうっかり使ってしまうことがあるんだけれど、この人にはかなり通じた。もしかしてこっち側の人なのかな、と思ってしまうくらい。
「今日買ってきたのは、サブスタンス研究の方でも有名なノヴァ・サマーフィールド博士の著書なんですけどね」
「ほう……」
「あの方は機械工学の方面もすごいので、著書はすごく参考になるんですよ。何度か所長にあの方が発表する学会に連れて行ってもらったことがあるんですけど、論文も発表の内容も素晴らしくて。格好良いなぁって」
「……普段は至る所で行き倒れているが……」
「? あ、すみません、今の聞き取れなくて」
「いや、こちらの話だ」
この人は聞き方も上手くて、その後もつい聞かれるままに色々話してしまった。研究のことはもちろん、この辺りの地理やカフェのことも。
「こんな辺鄙な場所にあるには勿体無いくらい、幅広いジャンルの本がある広いカフェなんですよ」
「幅広い……では、出入りする客層も幅広いのだろうか」
「そうですね。大人から子供、僕みたいな本の虫もいれば、スーツをぴしっと着た仕事中っぽい人なんかもよく見ますね。仕事中にも立ち寄りやすいのかも」
「成程」
「僕は入ってないんですけど奥には会員制の個室もあるらしくて、ゆっくり本を読みながらレストラン並の食事とか、あとモニターもあって映画なんかも楽しめるらしいですよ」
気が付いたら、結構な時間話してしまった気がする。
「す、すみません、余計なことまで長々と」
「いや……貴重な話を沢山聞くことができ、感謝している」
「それなら、良かったです」
流石にそろそろ話を切り上げなければと、互いに挨拶をして同時に部屋に入った。
長く話ができて、少し仲良くなれた気がする。今まではそのオーラから近付きにくい印象も持っていたけれど、話してみたら会話も続いて、その印象はかなり薄れた。
仲良くできそうなお隣さんで良かったと思った。
■四日目
このアパートの一階の各部屋には裏側に小さな庭があって、僕は自分の庭には自分で作った数種類の計測器を置いていた。土の状態を調べたり空気の状態を調べたり、専門以外の知識も必要なやつだから、どこまで調べられるかって半分趣味チャレンジみたいな感じになっているけど。今日は朝出かける前に一度データを取って、帰ってからもう一度データを取って比較してみようと思った。
僕の部屋の裏庭に出るには隣の部屋の庭を通らなければいけないから、足音等で迷惑にならないように慎重に通り過ぎる。その途中、視界の端でふわりとカーテンが動いたのに気付いてついそちらに目をやってしまった。お隣さんが窓を少し開けていたから風でカーテンが動いたみたいだ。少しだけ、中が見えてしまった。
朝食を二人で取っているようだった。向かい合って話をしながら食べている。それを見た僕は少し驚いた。
二日目に会った時はあんなに険悪そうに見えたのに、今はすごく穏やかに互いを見ている。昨日話したあの人も、僕に向けていた穏やかさとはまた違った表情を見せていた。何と言えば良いのだろう、リラックスしていて楽しそう、幸せそう、そんな感じだ。
なんだ、実は仲が良かったのか。
仲が良いなら、仕事で住むとなっても過ごしやすいだろうな。それなら良かった。
朝の僕は、そう思っただけだった。
* * * * *
夕方研究所から帰宅して、また裏庭に向かった。同じように気を配りながら隣の部屋の庭を通り過ぎ、計測器のデータを取って、また戻る。
その時に、また視界の端でカーテンが動いたように見えた。また窓を開けているのかなと、ついそちらに目が行ってしまう。中の様子を少しだけ目にした後で自分の部屋に戻った。この時の僕はまずデータを比較することで頭が一杯で、目にしたものについて、全く気にしていなかったんだ。
データの比較が終わって満足して、お茶でも入れようかな、と思ったところではたと気が付いた。さっきちらりと目にしたもののことだ。
見えたのは一瞬だった。でも鮮明に思い出せた。初日に会った、凛とした方の人が壁を背にして立ち、もう一人の気怠げに見えた人が、壁と自分の身でその人を挟むようにして立っていて。
重ねられた手、顔、唇。
「…………え?」
ちょっと待てちょっと待て。研究ばかりの僕だけれど、あの意味は流石にわかる。急に心臓が煩くなって顔が熱くなってきた。
え、仲が良いって、そういう仲が良いってこと、だったのか? 二日目のあのやり取りも、仲が良い故の遠慮のなさからくるものだったのか。
「仲が良い、のは、良いことだよな、うん」
動揺を沈めようとそう呟く。
とりあえず、あまり二人の邪魔にならないように気を付けようと思った。
〜幕間〜
薄く目を開けたブラッドが、キースの変化に気付いて一度口を離した。
「どう、した?」
「いや、何でもねぇよ」
そう言って、キースはまたブラッドの口を己のそれで塞ぐ。角度的にブラッドからは完全に死角になっているから、気付いていない。それを良いことに、キースは庭を横切る気配に気付いて僅かに能力を使ってカーテンを動かした。隣人が、少しだけ中の様子を覗けるように。
(念には念をってヤツだけど)
隣人がブラッドに対して、特別な感情を持っていないことは百も承知だ。必要のない行為であることはわかっている。
だが、昨日仲良さそうに話しているところを見かけて、ほんの少しだけだが面白くないと思ってしまったから。そんなところに嫉妬するなんて、我ながら心が狭いと思うが仕方がない。それが誰かを好きになるということだ。
だから示した。コイツは、オレのモンだと。
長い時間口内を堪能して、離した。手も離すと、ブラッドは小さく笑ってキースの背に腕を回す。
「やけにがっついているように見えるが」
「気の所為だよ。細かいことは気にすんな」
「気にしているのは、お前の方ではないか?」
「……オレが、何だって?」
「隣人が研究にしか興味のない人物であることは、見て明らかだろう」
どうやら心の内はしっかり読まれていたらしい。うっと一瞬言葉に詰まったキースだったが、開き直ってブラッドを睨んだ。
「お前が人たらしなのが悪ぃんだよ。仏頂面でも外面用の営業スマイルでも、周りはきゃーきゃー言うからな〜」
「そんなことはないだろう」
「あるんだよ」
これ以上この話題を続けても埒が明かないような気がしたので、この話は終わりだという意図を込めて、再度触れるだけのキスを送った。
「ところで、あと何日かかりそうなんだよ。そろそろルーキーどもの休暇、明けるんじゃねぇ?」
ホリデーシーズンが過ぎた後に交代で取得する特別休暇。現在はメンターとして担当しているルーキー達が休暇を取得中だ。キースとブラッドは、その間に特別任務に就くことになった。この地域にある、とある飲食店がサブスタンスを不正に利用しているという情報が入ったため、その真偽を調査するというものだ。
だが、ルーキー達の休暇もあと数日で明ける。オスカーとディノがいるから心配することはないが、長く不在にするわけにはいかないだろう。
「お前にしてはまともな指摘だな」
「一言余計なんだよ」
「心配しなくても、あと二、三日で片が付くだろう」
「本当かよ」
二人で任務、といっても今のところは別行動が殆どだ。キースはブラッドの指示の通りに調査をしているから、その間ブラッドがどう調査をしているかは詳しく把握していない。
「おそらく明日、例の場所に潜り込める」
「……マジで?」
「あぁ。昨日隣人から入手した話とお前のこれまでの調査結果を踏まえて、今日カフェに行ってきた。お前が目星を付けた副店長との接触に成功し、明日会員制の個室を紹介してもらうと約束を取り付けたからな」
「……それ、一人で行くつもりかよ」
「お前には他に行ってもらう場所がある」
「…………」
つまり、一人で敵地に潜入しようとしているわけなのだ、この男は。伊達にメジャーヒーローはやっていないから、潜入調査の経験だってそれなりにあることはよくわかっている。だから明日もそつなくこなすだろうということも。それでも。
「無茶したら後でペナルティーな」
「ほう、お前が俺にペナルティーを課すと?」
「お前が滅茶苦茶嫌がるヤツをな」
ブラッドはルーキーの頃から比べると無茶の頻度も程度も減ったが、それでも時折昔の名残を覗かせる。キースはその度に心配するこちらの身にもなれと思うのだ。何かあったら本当にペナルティーを与えるからなと思いながら首筋を甘噛みしてやると、ブラッドは体を震わせ熱の籠もった息を吐いた。
■五日目
夕方、いつものように研究所を出た。昨日取得したデータを確認していて少し調べたいことができたから、またあのカフェに寄って関係する本を買ってから帰ろうと思う。あのお店、見た目はお洒落な感じなのに、僕が読むような専門書も揃っていてすごいと思うんだ。だからつい通ってしまう。
店の中は書店の部分と、カフェの部分と、カフェの奥にある個室で構成されている。僕はいつも書店部分を見てすぐ帰ってしまうけれど、一昨日お隣さんに説明したこともあって、少しカフェを覗いてみようかなと思い今日はそっちへも足を伸ばしてみた。
カフェは自分で席を確保して、カウンターで注文するスタイルだ。偶には注文してみようかと席を探していたところ、ある部分が目に止まった。
「……あの人……」
今し方考えていた、一昨日ここについて話していたお隣さんがいた。個室から出てきたところだ。早速会員になったのだろうか。続いてもう一人。その人は見覚えがあった。この店の副店長さんだ。お隣さんの肩に手を置いて、奥を示している。副店長さんはもしかしてまた個室に戻りたいのだろうか。でもお隣さんは帰ろうとしているみたいだ。せっかく会員になったばかりで断りにくいのかなと思った僕は、彼らに近付いてみた。
すぐにお隣さんは僕に気付いて、副店長さんに何かを伝えたみたいだった。副店長さんは僕を一度見た後で渋々といった感じでお隣さんを離す。お隣さんは副店長さんに頭を下げると、僕の方に歩いてきた。
「こんにちは。すみません、姿が見えたもので……お邪魔でしたか?」
「いや、丁度帰ろうと思っていた所だ。こちらに来てもらえて助かった」
聞けば、お仕事の話を副店長さんと個室でしていたんだけど、お隣さんはこの後別の仕事があるからと一度出てきたところだったらしい。副店長さんはもう少し話を詰めたかったらしくて、少し帰り難かったみたいだ。自分の行動が間違っていなかったことがわかって、少しほっとする。僕も一緒に帰ることにした。
「個室って僕入ったことがないんですよ。どんな感じでした?」
「カフェはモダンな印象が強いが、個室は重厚なデザインの調度品が並んでいたな。会員制ということもあり、高級感を出したかったのだろう」
「成程……」
確か食事もカフェ部分は軽食のみだけど、個室ではレストランのような料理も注文できると聞いたことがある。その辺りで差別化をはかろうとしているんだな。
他にもこの辺りのお店の話等、世間話をしながらアパートに戻ってきた。それじゃあと挨拶をして部屋に入ろうとしたんだけど。
隣の部屋のドアに近付いた所で、お隣さんの体が突然傾いた。ぐらりと倒れかかったけれど、ドアに手を付いて何とか堪える。
「だ、大丈夫ですか!」
僕は慌てて駆け寄った。支えようとするけれど、手を掲げられて遠慮の意を示される。
「問題ない。少し、立ち眩みがしただけで……」
「で、でも」
さっきまでは全く異変を感じなかったのに、実は体調が悪かったのだろうか。もう一人の、あの人は今どこだ。思わず周りを見回してしまう。すると。
「お前……」
もう一人のお隣さんが、呆れたようにそう言いながら歩いて来るのが見えた。良かった、あの人も丁度帰ってきたところだったんだ。彼は僕達の所に辿り着くと、一度僕に向かって苦笑してみせた。
「悪ぃな、お隣さん。ここまで送ってもらって」
「いえ、さっきまでは何ともなさそうだったので……」
「……成程な」
後は大丈夫だから戻って良いと僕に言う。心配だったけれど無理に首を突っ込むのも余計なお世話になる気がして、僕はその言葉に従って自分の部屋に入った。
でも、本当に驚いた。早く具合が良くなると良いけど。
「……明日、様子を聞いてみようかな」
隣の部屋の方を見つめながら、僕はぽつりと呟いた。
〜幕間〜
ドアを閉めて鍵をかけるやいなや、ブラッドがキースを引き寄せた。それからすぐに、キースの唇を噛み付くような勢いで塞ぐ。
「……っ、待て待て、ブラッド。ちゃんと対処してやるから、落ち着けって」
一度口を離して態勢を整えたキースは、改めてブラッドの背に腕を回す。明らかにブラッドの体が、熱い。隣人の話では先程まで問題なさそうだったというが、相当やせ我慢をしていたのだろう。
「無茶すんなって言ったよな、オレ。いつ何を盛られた」
「正確にいつだったのかは、定かではないが……飲み物は何度か出されたからな」
「おい」
「仕方ない、だろう。これを、入手する為だった」
息を乱しながらもブラッドは、小さなピルケースを取り出す。
「コイツは……?」
「会員制の個室内で、更に特定の相手にのみ販売されているサプリメント、だそうだ。体のあらゆる不調に効くという謳い文句でな。これを調査し、サブスタンスの痕跡が認められれば、動かぬ証拠になる」
ブラッドは説明を終えると一度キースから体を離し、そのケースを室内に設置したデスクの抽斗の中にしまった。それからまたすぐにキースの元へ戻り、倒れ込むようにしてキースに凭れ掛かる。確かに重要な証拠となるだろう物を手に入れ、ここまで帰還できたが、もし脱出に失敗していたらどうなっていたことか。『こんな状態』にされたということは、『そういう危険』が迫っていたということだ。キースは呆れたように溜息を吐きながらも、ブラッドを受け止める。
「んじゃ、このままベッド行くか?」
「シャワーを、浴びる」
「その状態でかよ」
「連れて行け」
「……何だって?」
言ったことがすぐには理解できず、キースは思わず聞き返した。バスルームに連れて行けと、言ってきたのか、この男は。連れて行くこと自体は、構わないが。
「良いのか? シャワーだけじゃ済まねぇぞ」
「良い。何をしても構わん。だから、キース」
はやく、とキースの耳元で囁いた後で、ブラッドがキースを見た。熱に浮かされた瞳がキースを捉えて、体の熱はキースにじわじわと移っていく。
「帰宅まで、耐え切る自信はあった。なのに……」
キースの背に回された腕の力が、僅かに強くなる。
「部屋に入る前、遠くにお前の姿を見てしまった瞬間に、力が抜けて体が疼いた。貴様の所為だ」
「――っ」
それは、キースを大きく揺さぶるのに十分すぎる言葉だった。それ程までに、お前は、オレを。内容や口調は暴君そのものなのに、その全てがキースの思考を支配していく。
「何しても良いって言ったのはお前だからな、後悔すんなよ……!」
荒々しい動作でバスルームを開け、二人で転がり込むようにして中に入る。
その後、開けたときと同様に、荒々しくドアは閉められた。
■六日目
朝、出かける前にお隣さんの部屋を一度訪ねてみたところ、留守だった。体調が思わしくなくて病院に行っているということもあるんだろうか。気にはなったが遅刻するわけにはいかないから、その場はそれで諦めて研究所に向かった。帰りにまた訪ねてみようかなと思いながら。
夕方までいつも通りの作業や研究をこなし、いつも通りに帰路についた。朝考えた通りに部屋に入る前にお隣さんを訪ねてみようと思っていたんだけれど、カフェの横を通った時に、お隣さんが二人揃ってカフェスペースにいるのが見えた。道から様子をうかがってみたけれど、どうやら体調は大丈夫そうだ。僕はほっとした。
そのまま帰っても良かったのだけれど、やっぱり直接大丈夫か確認したいなと思って、店内に入った。真っ直ぐカフェスペースの、二人の元に向かう。二人共すぐに僕に気付いて、手を上げて応えてくれた。
「昨日は、迷惑をかけた」
「いえ。僕は何も。もう大丈夫なんですか?」
「大丈夫大丈夫。コイツ一晩寝るとケロッとするタイプなんだよな」
「勝手に答えるな」
その口調からも体調は良くなっているのがわかった。良かった。せっかくだから僕もどこか席を取って何か食べようかと思ったんだけれど。
「今から店内が少し騒がしくなるから、その前に店を出た方が良いかもしれない」
「騒がしく……?」
お隣さんの忠告に、僕は首を傾げた。騒がしくなるとは、どういうことだろう。賑やかなお客さんでも来るのだろうか。どういうことか聞こうとした時だった。
店の入り口から次々と人が入ってくる。その装いは……え、警察?
驚いていると、店の奥からも人が沢山出てきた。黒服の、怖そうな人達。え、今から何が始まるの? それまで店内にいた普通のお客さん達も、この異変に外に出ていった。
「キース、この人を」
「はいよ」
キースと呼ばれた気怠げな人が、凛とした人の指示に僕の腕を取った。状況が飲み込めず指示したその人を見ると。
「では、また」
その人は不敵に笑って背を向けた。
「んじゃ、お隣さんはコッチな」
僕はキースさん(?)に誘導されて入り口まで辿り着く。僕を店内から出した後で、この人も僕に向かって軽く手を振ってみせた。
「んじゃ、またな〜」
その挨拶と共に扉は閉ざされる。窓から中を見たけれど、警察やら黒服の人やら、沢山の人が走り回っていてさっぱり様子がわからない。
「大丈夫、かな……?」
けれどずっとそこにいても埒が明かないので、仕方なく家に戻った。お隣さんは帰ってきただろうかと気になったけれど、このアパートは隣の生活音は殆どわからないから、確認できない。
次の日、朝にお隣さんを訪ねてみたけど、留守だった。まだ帰ってきていないのだろうか。昨日と同様気になったけれど、遅刻するわけにもいかないから研究所に向かった。また帰りに寄ってみよう、そう思いながら。ちなみにカフェの前を通ったら、臨時休業で立ち入り禁止になっていた。
そして、帰宅した僕が見たものは。
引っ越した後の、もぬけの殻になった隣の部屋だった。
■後日譚
お隣さんが忽然と姿を消してから数日後、僕の家に一通の手紙が届いた。開けてみると、それはお隣さんだった二人の、連名による挨拶文だった。
内容は、仕事の関係で急遽移動しなければならなくなったという説明と、挨拶もせずに去ってしまった事を謝るものだった。それから、世話になった礼だと、ギフトカードが一枚。
「そんなに気を使わなくても良かったのに」
僕はそう呟きながら、手紙の一番最後を見た。
ブラッド・ビームス
キース・マックス
二人の直筆の署名が記載されている。
「ブラッドさんと、キースさん、だったんだ」
そう言えば結局名前を聞かずじまいだったと思っていたため、知ることができたのは良かった。どんな仕事をしている人なのかは、分からなかったけれど。あの時警察が来ることを知っていた様子であの場に残ったのだから、警察関係の人だったのだろうか。
けれど、彼らは警察関係者ではなかった。
僕がそれを知ったのは、それから数ヶ月後。
作業が長引いて少し遅くまで研究所にいた日、同様に残っていた研究員の女の子達がテレビを見て騒いでいて、何となくそれに視線を送ったときのことだ。
HELIOSという機関とそこに所属するヒーロー達の存在は僕も知っている。
テレビ画面の向こうでは、一年前に入所したというヒーロー達の、入所一周年記念パーティーの様子が中継されていて。
その中に、彼らの指導者として揃って立っている、あの二人の姿があったんだ。