待ち針 ミチル・フローレスは困っている。とても、かなり、はなはだしく、切実に、困っている。
「これって……もしかして……?」
あかるいさみどりの目が、ベッドシーツの一点にひたと据えられている。彼の注目を浴びているのは、一縷の絹糸のような髪だ。白いシーツの波間で、忘れ去られたように浮かんでいる。彼がそっと持ちあげると、やわらかくカールした髪はくるんと指さきに懐いた。
彼はそれを、魔法舎三階の窓から差しこむ朝の光にかざした。日に透けてなお、苛烈な色彩を失わない。
「ミスラさん……?」
問いかけに答えは返らない。ここは南の羊飼い、レノックス・ラムの私室である。
朝、ミチルは学校へ通っていたころと同じように目を覚まし、同じように身支度を整える。次にすることといえばもちろん、隣の部屋で眠る兄を起こしにいくことだ。存外に寝汚い兄が職場に遅刻しないように、勢いよくカーテンをひらいて朝日をいれる。芸術的な寝癖をつけて起きだした兄は、まだ目が半ぶんあいたばかりの顔で「いい天気だなあ」と呟いた。
「賢者様の世界では、こういうお天気を秋晴れっていうらしいですよ。秋は空気が澄んでいるから、晴れると空が高くて綺麗なんですって」
「まあ、素敵な言葉……確かにそうかも。気持ちいいから、今日はお布団干しちゃおうか?」
寝癖をつけたままで、さらにウィンクを失敗する兄に、ミチルは笑って頷いた。
「いいですね! フィガロ先生とレノさんのお布団も干してあげたいです」
「よーし、じゃあ私はミスラさんのシーツをひっぺがしてこようかな」
「ひ、ひっぺがすのはやめたほうがいいと思います」
学校へ通っていたときよりも、少しだけのんびりとした朝の時間が過ぎていく。彼らは揃って朝食をとり、ひととき別れた。ルチルは一階のフィガロ(と、ついでにミスラ)に声をかけるために。ミチルは三階のレノックスに声をかけるために。
羊飼いの朝は早い。魔法舎の魔法使いのなかでも三本の指に数えられるほど、早い。
現在の彼は羊を追って生活をしているわけではないが、生活の基盤を移してからも、彼の朝の日課はそれほど変化しなかった。日の出とともに起きだし、羊たちを森へ遊ばせ、朝食までの時間は自身の鍛錬をして過ごす。
魔法使いであるところの羊飼い、レノックスのそういった姿をミチルが知ったのは、ともに賢者の魔法使いとして魔法舎で過ごしはじめてからのことだ。近いようでいてときに遠い存在であったレノックスが、同じ屋根の下で起居をともにする存在になったことは、ミチルにとって面映ゆくも嬉しいできごとだった。
この時間なら、レノさんはお部屋で羊さんのブラッシングをしているかな。道具の手入れをしているかも。思いめぐらせながら階段を登っていたミチルは、三階の廊下から階段室にはいってきた人影に気がつかなかった。
「わっ……!」
「うわ。危ないな」
あわや後ろ向きに転げ落ちそうになり、すんでのところで腕を掴まれる。
「ミスラさん……!?」
「ちょっと、気をつけてくださいよ。死んだらどうするんですか」
ほとんどぶら下げるようにしてミチルの腕を支えているのは、三階ではあまり姿を見ることのない人物である。
「ミスラさん、お部屋にいたんじゃないんですか? たぶん、兄様が探してると思いますけど……」
「お部屋にはいましたよ。ルチルが? なぜ?」
「えっと、お天気がいいので、みんなのお布団を干そうかっていう話を──わあっ」
ぶら下げられたまま、ミチルは釣られた魚のように階段の反対側へ投げ降ろされる。
「いたた……! もう、腕が取れちゃうじゃないですか!」
「取れませんよ、そんなことで。脱臼くらいはするかもしれませんが。ああ、布団なら勝手に持っていけとルチルに伝えてください。俺はこれから朝食なので」
のんびりと、しかしひと息にそれだけのことを言うと、ミスラは大あくびを嚙みころしながら階段を降りはじめた。もの憂い靴音が遠くなっていく。
「ミスラさん、こんなところでなにをしてたんだろう……?」
掴まれていた腕をさすりながら、ミチルが呟く。彼は気を取りなおすと、レノックスの私室へと赴いた。乱れた衣服を直して、軽く扉をノックする。
「レノさん、おはようございます。いますか?」
声をかけると、ほどなくして室内で立ち歩く気配があり、内側から扉がひらいた。ミチルの頭よりずっと高い場所から、レノックスが顔を出す。
「おはよう、ミチル。どうかしたのか?」
「えへへ。今日はお天気がいいから、お布団を干そうかって兄様と話してたんです。よかったらレノさんもどうですか?」
新しい遊びを見つけたときのように楽しげなミチルの様子に、レノックスの口もとがゆるむ。
「そうか。それはいい考えだな。さっそく布団を運ぼう」
「やった! ボクもお手伝いします」
「じゃあ、ミチルは枕とクッションを頼む」
「おやすいごようです!」
ミチルはレノックスのあとに続いて部屋へはいると、羊のかたちのクッションを抱えた。レノックスが布団を持ちあげると、彼特製の羊毛の枕があらわれる。それをもういっぽうの腕に抱えあげようとしたミチルは、ふと、視界のすみでなにかがちらりと光るのを見た。
「ミチル? 先に行っているぞ」
「あ、はい! ボクも行きます!」
すでに扉の外へ出ているレノックスに向かって、ミチルは声を張りあげる。なぜだか、気になってしまう。泉のおもてに魚影を見つけたときのように、ふわふわと落ちつかない。ミチルはクッションと枕とをどうにか片腕におさめると、シーツの上をまじまじと観察した。
「……あれ?」
そして、冒頭にもどる。
なかなか部屋から出てこないミチルを不思議に思ったのだろう、ひらいたままの扉の向こうからレノックスがミチルを呼ぶ声がする。ミチルはあわてふためき、とっさに魔道具の薬瓶を出すと、そこへ問題のものをおさめてしっかりと蓋をした。
「はーい! いま行きます!」
彼は持ちものを抱えなおして、いっさんに部屋を駆けだしていった。
朝のひと仕事を終えるあいだじゅう、魔道具のなかの問題に気をとられてぼんやりとしていたミチルを、南の大人たちはすこぶる心配した。ミチルは否定したが、そういったとき、どうしても相手と目を合わせられないのが彼の美点である。
昼食後、午後はしっかり休むようにとのドクターストップをかけられたミチルは、一人とぼとぼと一階の廊下を歩いていた。訓練のために、みんなの前で魔道具を取りださねばならない事態に陥った場合よりは、いくらかましなのかもしれない。
それはそうと、きらきらしい秋の日の予定が丸つぶれになってしまうことは、少年にとってあまりに重大な損失だといえるだろう。
悄然として自室の前に立ったとき、藪から棒に背後で大きな音がして、彼はその場で垂直に跳びあがった。おそるおそるふり返ってみれば、はす向かいの部屋の扉が大きくひらかれている。
「あ、ミチル。いいところに。俺の布団とシーツと枕、知りません?」
そこからひょいと顔を出したのは、部屋の主であり、彼のポケットのなかにある問題の元凶といえる人物だ。
「ミスラさん……」
「はい?」
「の、馬鹿……!」
「はあ? 何──」
ミチルは小さな砲弾のようになって、ミスラの腹へ突進した。そのまま相手を室内へと押し戻すと、後ろ手にぴったりと扉を閉める。
「痛いな! なんなんですか、急に」
「お部屋に……」
「は?」
「さっき、お部屋にいたって……、誰のお部屋に、いたんですか……?」
勢いに反して不安に満ち満ちた声でそう言うと、ミチルは手もとへと魔道具を呼びだした。なかから、うす暗い室内にも鮮やかな髪の一本を取りだしてみせる。ミスラは背を丸めて、ミチルの手のひらを訝しげに覗きこむ。
それがなんであるかを察したとたん、ミスラはさっと顔色を変えた。すばやくミチルの手のひらを掴むと、顔の前まで引っぱりあげる。
「ちょっと。嘘でしょう? なぜあなたがこんなものを持っているんです。ここへくるまでに誰かに見せたり見られたりしなかったでしょうね」
「し、してないです! 離してください……!」
つま先が浮きあがりそうになり、ミチルがわたわたと抵抗する。
「ボクだって好きで持ってるわけじゃないです! でもレノさんのお部屋にこれがあって、前にミスラさんは自分の髪や爪を人に渡すなって言ってたから、内緒で返してあげたほうがいいのかなって──」
「…………」
「わっ」
やにわ手を離される。ミチルはよろめいて尻もちをつきそうになったが、どうにか持ちこたえた。
「レノックスの部屋って言いました? いま」
「えっ。は、はい。言いました」
ミチルの目と鼻の先にミスラの顔が迫る。まばたきもせずにミチルの顔を見つめていたミスラは、やがてふと遠い目をした。
「あっ……」
「え?」
「あー、そういえば……忘れた、かも……?」
独りごとのように不明瞭に呟いたあと、ミスラはミチルに向けて片手を差しだした。反射的に、ミチルがその手をとる。握手のかたちだ。
「どうも、ありがとうございます。拾ったのがあなたでよかったですよ、まったく」
そう言うと、ミスラは小さくスペルをたたいた。
「ひゃっ……!?」
まるで熱を感じないうちに、手のひらのなかの髪は炎上したらしい。握られた手の指のあいだから、煤煙がかすかに立ちのぼった。最後にパチンと爆ぜた火花の感触だけが皮膚の上に残る。
「どうして……」
手のひらを見つめながら、ミチルは混乱した声音で呟いた。
「どうしてって、前にも言ったでしょう。そろそろ覚えてもらわないと困ります。身体の一部を明け渡すことは、いつ誰ともしれない者に呪いを──」
「お、覚えてます。そうじゃなくて、ミスラさんはどうして、レノさんのお部屋に」
じりじりと距離を詰められて、ミチルは背後の扉へと背中をぶつける。迫力に圧されながらも彼が果敢に言い返そうとしたとき、ふいに、扉をノックする音が響いた。扉に背をつけていたミチルの身体を、かすかな振動が揺らす。
「ミスラ? ミチルの声がするんだが……そこにいるか?」
ミチルは肩をびくつかせたが、その耳に聞きなれた声がはいってきたことで、力がぬけたように扉へと取りついた。
「レノさあん……!」
「はあ。この通りです。あいているのでどうぞ、連れていってください」
部屋の主はけだるげに応じる。扉がそろりとひらかれ、レノックスの姿が見えたとたん、ミチルはその懐へと駆けこんだ。
「レノさん、大丈夫ですよね? ミスラさんにいじめられているとか、弱みを握られているとか、呪われているとかじゃないですよね?」
「ミ、ミチル……、落ちついてくれ。どういう状況だ?」
後半はミスラに向かって問いかけながら、レノックスは眼鏡の奥の瞳にありありと困惑の色をたたえている。
「あなたの部屋に俺の髪が残ってて、それをこの人が見つけたんですよ。今朝、寝ぼけてて痕跡を消すのを忘れていたらしくて」
「今朝……」
思いあたる節があったのか、レノックスはなるほど、と頷いた。そののち、ミスラにのみ見える角度で無言の一瞥をくれる。この話は子どもの前ではするな、とのことである。ただし、その含意が正しくミスラに伝わったのかどうかは定かでない。
「大丈夫だ、ミチル。いじめられていないし、弱みも握られていないし、呪われてもいない」
レノックスはミチルへと向き直ると、落ちつかせるように背をかがめて視線を合わせた。
「そうですよ。失礼だな。南の魔法使いの弱みなんて握ってどうするんです? それにどちらかといえば、いじめられているのは俺むぐ」
「朝、様子がおかしかったのはそのせいか。体調が悪いわけではないなら、よかった」
夜の気配のする話がまろびでるミスラの口を、レノックスの大きな手がすかさずふさぐ。
「朝がなんですって?」
ミスラはその手のひらに内側から咬みつくと、指のすき間から口をはさんだ。
「いいお天気だから、南のみんなでお布団を干したんです。ちゃんと言いましたよね、ボク……」
「あ。それで布団がなかったのか。まったく、人の部屋のものを勝手に持っていかないでくださいよ」
「勝手に持っていけって言ったのもミスラさんですよ」
ミチルがじんねりとミスラをにらむ。当のミスラはといえば、そうでしたっけと言わんばかりに小首をかしげるばかりだ。
「もう。こないだも真夜中に急にミスラさんがきたって、みなさんがびっくりしてましたよ。あんまりみんなに迷惑かけないでほしいです」
腰に手をあてて年嵩の魔法使いに小言を垂れる姿に、レノックスは少しだけほほえましい気持ちになる。いったい、誰に似たのだか。
「……そろそろ、ふかふかになっている頃あいかもしれないな。あまり干しすぎるのも生地が傷む。ミチル、取りこむのを手伝ってくれるか?」
「あ、はい。もちろんです!」
しかし、相手は北のミスラである。いまはぼんやりと聞き流しているが、いつ機嫌を急変させるとも知れない。そういえば、といったていで、レノックスは話の腰を折った。
「じゃあ、ルチルとフィガロ先生も中庭に呼んできてくれ」
「わかりました。ミスラさん、レノさんを困らせちゃだめですからね!」
しっかりと釘を刺すと、ミチルは元気よく駆けだしていく。あとには、夜をともに過ごしたらしき大人たちだけがとり残される。
「あとであなたの部屋に行ったら、あなた困ります?」
ミチルの背中が見えなくなると、ミスラは首をかたむけてレノックスをはすに見あげた。レノックスはミスラを見つめかえす。その顔は、どことなく驚いているようにも見える。
「いや、困らないが……」
レノックスが言いよどむ。辺りに視線をくばると、一歩、ミスラの私室のなかへと踏みこんだ。顔が近づいて、ミスラは相手の眉が下がっていることを発見する。
「もう困ってるじゃないですか」
「困っているわけでは。……それを、誘いと受けとってもいいものかどうか、なやんでいるんだ」
「誘い? 何のです? 俺は痕跡を消したいんですよ。きまっているでしょう」
ミスラは呆れ顔をつくると、レノックスの眼鏡を奪った。ためつすがめつしたのち、自分でかける。
「そ……、そうだったな。すまない」
「困らないでください。べつに困るようなことを言っていないでしょ」
ミスラがスペルをたたく。レノックスの背後の廊下に、空間の扉が立つ。扉がひらけば、その先は三階のレノックスの部屋だ。
「やっぱり先に行ってます。慎重に持ってきてくださいね。布団にも痕跡が残っているかもしれないので」
「ああ。わかった」
「……まあ、消すのは、明日の朝にしてやってもいいです」
重い音をたてて扉が閉まる間際、不思議によく通るミスラの声が、まじないのようにささやいた。
「えっ? あ、ミスラ、眼鏡を」
その背中に手を伸ばしたときには、扉はもう立ち消えている。
中庭にあつまった南の魔法使いたちは、ふかふかになった布団を上機嫌に抱えながらも、しきりとレノックスのことを気にかけているようだ。若い兄弟にとってのレノックスは、のんびりとしているところはあるが、ぼんやりとしていることはまれな人物である。しかも、なぜか、眼鏡がない。
「レノさん、私たちで支えましょうか」
「またミスラさんですか? もう、困らせちゃだめだって言ったのに」
「はは……いや、平気だ。ありがとう」
どうということのない段差につまずきそうになる彼を兄弟は気遣ったが、レノックスはふかふかの問題をしかと抱えて、ほほ笑んでみせた。それがほほ笑みと呼べるたぐいのものであればの話だが。
レノックス・ラムは、困っている。とても、かなり、はなはだしく、切実に、困っている。