赤くなる季節 これは夢かしら。
午後の日差しに金いろの睫毛をくしけずられながら、ルチルはそっと首をかたむける。
彼は一人、魔法舎三階の廊下を歩いていた。市場帰りの料理人からわけてもらった早生林檎を、同郷の羊飼いの男(と、彼の羊たち)に届けにいくためだ。まだらに赤い、まだ硬い林檎が、彼の手のなかですがすがしく香る。
わけても短い秋の日が、窓からはすに差しこんでいる。彼は足をとめると、窓に向かって立った。目を閉じて瞼に日差しをあてる。ゆるやかにかぶりを振り、右頬と左頬とに、まんべんなく日差しをあてる。あたたかい。口もとがほころぶ。
なるほど、これはまさに「秋晴れ」というものだな。弟のミチルから伝え聞いた賢者の世界の言葉が、彼の胸に帰来する。そのとき、ふいに、視界のすみに鮮やかな色彩がはいりこんできた。
「あれ? レノさんだ」
窓からは、植木の葉むらを透かして中庭の一角を見わたすことができる。植えこみのそばで誰かと立ち話をしているらしいレノックスの、彫像のような長身をルチルは見つけた。
「お外にいたんだ。ええと、お隣のかたは……」
風が樹々を揺らし、隠されていた隣の男の姿が垣間見える。濃いオレンジや黄、てんでに色づきはじめた植木の葉むらの向こうに、ひときわ鮮やかな色彩がちらちらとまたたいた。
「わっ……ミスラさん?」
ふしぎな組み合わせだな。なにをお話しているんだろう。羊さんたちのお散歩かな? 意外な二人の交流にルチルはやにわ嬉しくなり、いそいそと窓をあける。挨拶をしようと身を乗りだし、大きく息を吸いこんだとき、風が強く吹いて彼の口をふさいだ。
樹々の細枝がいっせいにしなる。色づいた葉が枝をはなれて舞いあがる。そういったものにとりまかれて、あるいは隠れるようにして、二つの影がふと重なった。
たとえば誰かと並んで歩いているときに、相手の足どりと自分の足どりとが妙な感じにあわさって、思わず肩がくっついてしまうときがある。
二人の所作はそれほどさりげないものだったので、眠くてふらふらしたミスラさんをレノさんが支えてあげたのかな、とルチルは思った。風はまだやまない。
ミスラがつと顔をあげる。レノックスがうつむく。ルチルの目には、彼らの前髪がくっついた、ように見えた。レノックスの腕がミスラの腰を支えている。相手の風よけになるかのように、それとなく風上へと背を向ける。二人は、そのまましばらく動かなかった。
二人がはなれるまえに、ルチルはその場をはなれた。
いまのは、どういうことだったんだろう。もときた廊下を足早に引きかえしながら、ルチルは握りこんでいた林檎を服の胸もとでぎゅっと握った。うそみたいにどきどきしている。
子どものように階段を一段飛ばしで降りきって、自室のドアをあけて、閉める。息をととのえるあいだ、風でカーテンがふくらんで、彼ははっと我にかえった。朝、風をいれるために窓をあけたままだったのだ。
ルチルはできるだけそっと窓辺へと近づき、そっと窓を閉めた。色のつきはじめた日差しが、彼の前髪と睫毛をやさしく透かしている。
これは、夢かしら? 頬に寄せた林檎は、褪せず香る。熱の引かない頬をひんやりと押しかえした。
深夜、南の魔法使いと東の魔法使いが、任務を終えて魔法舎へともどってくる。彼らの安息の地を守りきった南の魔法使いたちはもとより、東の魔法使いたちもまた、晴ればれとした疲労をかかえている。短い挨拶をかわしたあと、東の魔法使いたちはおのおのの寝床へと帰っていった。
南の大人の魔法使いたちが、連れだって食堂へと向かっている。彼らはおおいに祝宴を楽しんだあとだったが、少しの名残惜しさを慰める必要があった。
なにかあたたかいものでも飲んで寝ましょう。大人たちのなかではもっとも年若いルチルが提案し、年嵩の魔法使いたちも頷く。年少のミチルだけは、到着するなり深く眠りこんでしまったため、すでにベッドのなかだ。
食堂のドアを押しひらくと、先客があった。黒いシャツを腕まくりして、キッチンに立っているなま長い男。ミスラだ。全員の気配に気づいているだろうが、のんべんだらりとした挨拶をよこしただけで、背を向けたままふり返ることはない。調理台には、およそ食材とは思われないなにものかがところ狭しと置かれ、鍋からは不穏な色のゆげが立ちのぼっている。
「ミスラ、お前ね……共用の調理器具で妙なものを作るのはやめろって前にも」
フィガロがつい、苦言をもらしたとき、彼の背後からぬらりと進みでた者がある。レノックスだ。疲労と眠気のせいか、常よりもややぼんやりとした様子のレノックスが、なぜかふらふらとミスラの背中へと引き寄せられていく。
この場にミチルをともなっていたならば、フィガロはレノックスを引き留めたかもしれない。しかし彼はその背を見送りながら「あーあ」と呟き、含みのある笑みを唇にのせただけだった。ルチルには、フィガロの微笑の意味するところを読みとけない。
謎を抱えたままレノックスの背を目で追っていた彼は、レノックスがごく自然なしぐさで、キッチンに立つミスラの腰を抱き、さらには襟足に鼻をもぐらせるのを見た。
ルチルが口をひらいたかたちのまま動けなくなってしまったいっぽうで、フィガロは「やれやれ」といった風情を醸し出しつつも、頓着なくキッチンへと歩み寄る。
「ちょっと。あなた、くさいです」
「えっ」
されるがままに作業に集中していたミスラが、やおら眉間にしわを寄せてレノックスをにらんだ。
「春になって腐りはじめた死体の下の泥みたいな気配がしますよ。いったい何をしてきたんです?」
「そ、そんなにもか……」
「いえ、かすかにですけど。……うわ、フィガロの魔法の気配までする」
「そうそう。ちょっと変なのに絡まれちゃってさ。俺が治療したんだ。ね、レノ」
奥の棚を物色していたフィガロが軽い調子で呼びかける。籠いっぱいに詰められた卵を見つけだし、一つ取りだしてためつすがめつした。
「はい。もうほとんど癒えています。おかげさまで」
ミスラの腰を抱いたまま、レノックスがいつもの調子で応える。ミスラは不信のまなざしでフィガロを一瞥したのち「変なの?」と眉をつりあげた。
「これ、呪いの気配でしょう。あなた、呪いを受けたんですか? 俺に断りもなく?」
「断りをいれるべきだったか……?」
「ルチル、エッグノック作るけど飲む?」
「えっ? あっ、はい! 飲みたいです!」
ルチルの意識はレノックスとミスラのやりとりに惹きつけられている。突然呼びかけられて、彼ははっとした顔で応じた。
「べきっていうか……あなたの身体がほかのやつに好きにされるの、なんかムカつきますよ。あなたの身体を好きにさせるのは俺だけにしてください」
「あ、もう林檎が出はじめてるんだ。フィガロ先生特製ホットワインって手もあるよ。どっちがいい?」
「……はは。なるほど」
「ちょっと。なに笑ってるんですか」
密着する二人をあいだにはさんでいるせいで、会話が交錯している。ルチルはやや混乱したが、混乱しながらも、あの箱庭のような中庭の風景がまなうらによみがえるのを感じた。
オレンジ、黄。常葉の緑。そしてどの色彩よりも鮮烈な、赤と黒。秋風のなかで寄り添う魔法使いと魔法使いの姿。
「……あっ……」
突然、点と点が線で繋がるような感覚があり、ルチルは手のひらで口もとを覆った。そうだ。あれは。
「あれ? ルチル? おーい」
「──キスだ!」
「わっ」
だしぬけに大きな声をだしたルチルに、彼の鼻さきで手を振っていたフィガロが驚く。目を丸くするフィガロを、ルチルは一等星のようにかがやく瞳で見つめかえした。
そうだ。キスだ。あれはキスの風景だったのだ。
「なんですか。うるさいな」
驚いたのはフィガロだけではない。ルチルの混乱のもとであった二人もまた、半ば目を見ひらいて彼に注目していた。依然として、レノックスの手はミスラの腰を抱いている。ミスラの手は、レノックスの腰を抱いている。
「どうしたんだ。ルチ──」
そうしてくっついたままルチルの名を口にしたところで、レノックスが突然、雷に打たれたかのような身のこなしでミスラから離れた。支えを失ったミスラがよろめいてたたらを踏む。
「……俺はいま、いったい……?」
ミスラの恨みがましい眼差しを尻目に、レノックスはあたかも我に返りましたといった面もちで自分の両手をジッと見つめた。しだいに頬から目もとが、酒宴の終わりがけのように赤くなる。かわいいな、とルチルは思う。
そういえば──蔓草が伸びひろがるように、彼は記憶を呼び覚ましていく。レノさんのお布団を干したときに、赤い髪が落ちていたって、ミチルが言っていたっけ。
朝、部屋を出たとき、ミスラさんのお部屋からレノさんが出てくるのを見たこともあった。ミスラさんのお部屋にはレノさんと同じ枕があったし、それから、それから──
「フィガロ先生……私、すっごくいいことを思いついちゃったんですけど……」
「えっ。な、なに?」
「ロリトデポロを作りましょう!」
心象風景の住人になっていたルチルが勢いよくふり返り、フィガロの手をとる。
「え!? いま!?」
「フィガロ先生特製ホットワインも飲みたいです!」
「それはいいんだけど、いまから!?」
「ほらほら、お酒多めバージョンにしましょ。お祝いですから。のんでーとんでーのんでー!」
「えっ、ほんとに? 参ったなあ、今夜は素面で通そうと思ってたんだけど。明日ミチルにバレたら、ルチルもいっしょに怒られてね」
「フィガロ様」
真夜中のキッチンが、にわかに色めきたつ。ひとしきり自分の手のひらを眺め終えたレノックスも、遠慮がちに口をはさんだ。
「ルチル……気持ちは非常にありがたいが、せめて、明日に」
「いいじゃないですか。ロリトなんたらって、肉を肉で巻いてあるやつでしょう。俺も嫌いじゃないですよ。ちょうどさっき肉塊にしたやつがありますけど、使います?」
「ミスラさんはなにを作っていたんですか?」
素面ですでに酔いどれの風情を漂わせるルチルが、ミスラの脇の下から顔を出す。
「スープです」
「いい香り! じゃあ、できたロリトデポロはそのスープにいれますね」
「はあ、いいですけど。俺以外しばらく目を覚まさなくなると思いますよ」
「ねーえ、この肉なに? ぜったいに鶏肉じゃないでしょ、これ」
ちぐはぐな大人たちの夜が、誰にも知られずに更けていく。赤い髪の魔法使いの口もとを、赤い瞳の魔法使いが慣れた手つきでぬぐう。ホットワインのなかで林檎が揺れる。樹々も、果実も赤くなる季節に、彼らにもたらされた小さな祝福のために、彼らの頬もまた、赤くなる。