こっちの水は苦いのなんの「それでえ、姫はやっぱり王子を刺すことができなくって、海に身を投げて、泡になって消えちゃうんですよお……」
西の魔法使いの商う、魔法舎のバーである。時計の短針が天頂に差しかかるころ、カウンターで袖を濡らしているのは賢者だ。
くだを巻く賢者の様子はあきらかに酒に酔っている者のそれだが、実際のところ、彼を酔わせているのは酒ではない。西の知恵者が西の行儀のよくないサロンで手にいれてきた「酔っぱらい体験シュガー」なる不審な魔法使いのシュガーを、好奇心に負けた賢者自身が口にした結果である。
「ああ、なんということだ。悲劇ですね」
「人魚姫、かわいそう。優しい子なのに……」
悲しみを遠ざけるように瞼を伏せる貴公子と、頬をつたう涙もそのままにしゃくりあげる仕立屋の青年。こちらを酔わせているのは正真正銘、酒である。
「ふふ。物語のなかの悲恋に涙するクロエも、とっても愛らしいですよ」
「シャイロック、クロエを肴に飲んでる?」
「美しく悲しい物語と、美しく愛らしいクロエの涙を」
彼らの前でにこやかに手酌酒をかたむけるのはバーの店主だ。酔っているとはいえないが、こちらももちろん、酒気を漂わせている。
この状況を作りだした張本人である西の知恵者は、何もないところからこうもりのように逆さにぶらさがって嬌声をあげた。当然酒に酔っているが、酔っていてもいなくても、彼はおおむねこういった状態である。
「……はっ。俺、なんかいますごく酔っぱらいっぽくなかったですか……!?」
話し終えると同時にカウンターへ打ち伏していた賢者が、勢いよく顔をはね上げる。
「おや、残念。お早いお目覚めですね」
「へえ。キスで解術する術式ですか」
「わっ、ミスラ」
我に返った賢者の後ろから腕が伸び、カウンターに硬貨を数枚置いた。水辺の鳥のように長い脚を折りたたんでするりと賢者の隣席へおさまったのは、けだものなどと呼ばれることもある北の魔法使いだ。
「いつからいたんですか?」
「ずっといましたけど?」
けだものはけだるげに頬杖をつくと、横目に賢者を見やる。
「ずっといましたね」
「ずっといたよ! 賢者様の真後ろで腕を組んで立ってた!」
「怖い! 声かけてくださいよ……!」
「はあ。なんかあなた、盛りあがってたので……」
硬貨と引き換えに、カウンターにロックグラスが置かれる。グラスに口をつけながらミスラはぼやいた。その向こうで、先ほどまで悲しみに暮れていた貴公子と仕立屋がもう笑っている。
「で、声を失った上に対象を襲ってキスをしないと死ぬ呪いの話ですけど」
ミスラはグラスを置くと、頬杖をついたまま賢者に向きなおった。
「お、襲わなくても大丈夫です」
「そうなんですか。でも、ナイフを持って王子の寝込みを襲ったんでしょう?」
「それはいたしかたない事情があって……というか、ほんとにずっといたんですね……」
しかも、心なしか物騒な筋書きになっている。賢者は早々に訂正をあきらめて、あいまいに相槌をうった。
「手が込んでておもしろいじゃないですか。賢者様の世界の呪いもなかなかですね。道具が揃ったら、組んでみようかな」
「えっ」
グラスをかたむけるミスラに、にわかに衆目が集まる。西の魔法使いたちは一様に目を輝かせると、おのおのの酒杯を手に身を乗りだした。
「ミスラ、作れるの?」
「おとぎ話の呪いなのに?」
「まあ、俺なので」
「だ、駄目ですよ!」
ひとかたまりになって色めきたつ魔法使いたちのなかで、賢者は一人あわてふためいた。
「駄目なんですか」
「うっ……いや、作るのは自由……なのかな? ええと、誰かに試したりしないのであれば、べつに……?」
賢者が首をかしげる方向にあわせて、ミスラが首をかしげる。はるか高い場所に顔のある相手がいったいどのような技巧によって上目遣いにこちらを窺うことができるのか、賢者にはまったくわからない。わからないが、彼はつねづねその視線に押し負けている。
「誰か……」
ミスラは首をかたむけたまま、くるりと視線を上向かせた。
「あてはあります」
「あるの!?」
「誰!?」
「あったら駄目ですよ!?」
「あはは。おもしろい顔しますね」
仕立屋と知恵者と賢者とが、雁首をそろえてミスラに迫る。ミスラはけらけらと笑うと、彼らのうちの誰の問いにも答えず、のんびりとグラスの氷を噛みくだいた。
翌日。いつもなら賑やかな夕食後の時間帯、魔法舎はいつになく静けさをたもっている。中央と西の魔法使いたちが、依頼を受けて暮れがたから出かけていったためだ。
わけてもいっそう静かな四階の廊下を、靴音も高く歩んでくる者がいる。呪術道具のはいった木箱をかかえたミスラである。彼はファウストの私室の前で立ちどまると、横着にも靴のつま先でドアをノックした。
ファウストはとくにこだわりなく、突然の来訪者を部屋に招きいれた。いつもの呪具自慢であろうと思われたからだ。どうやら事情が違うらしいと彼が察したのは、それらの道具がなにかしらの目的をもって、自室の床に装置されはじめてからだった。
邪悪な気配をはなつ呪具の数々を危なげない手つきで扱いながら、ミスラは賢者から聞きおよんだ異世界の物語と、異世界の呪術らしきものについてかいつまんだ説明をする。かいつまみすぎたせいで、実際よりもやや血の気の多い物語として伝わってしまったことは否めない。
「で、組んでみたんですけど」
「いやだ」
語り終わったとき、ファウストの私室の床にはいくつかの魔法陣と呪具とが整然と配置され、それらは互いに結びつき、精密に干渉しあい、あきらかにこれから呪いますというていをなしていた。呪い屋の私室としては、これ以上はないほどに「クールでダーティな」仕上がりである。しかし、当の呪い屋の機嫌は芳しくない。
「まだなにも言っていませんよ」
「言わなくてもわかる。ろくなものじゃない。しかもそれを僕で試そうとしている」
「失礼な人だな……まあ、試そうとしているのは事実ですけど」
できるかぎり壁ぎわへと身を寄せながら、ファウストは警戒もあらわに髪をふくらませた。その反応が心外であるとばかりに、ミスラは眉をはね上げる。
「べつに解術できなくても死なないようにはしてありますし、成立しようがしまいがたいしたことは起こらないですよ。ただの試作です」
「声を失うとかナイフで襲うとか聞こえたけど?」
並の人間であれば、この場に数分とどまるだけで変調をきたすであろう。自身ではいまだ到達できない精度の術式を前にして好奇心にとらわれつつも、ファウストは疑念を払拭できずにいる。その様子を一瞥すると、ミスラはフムと鼻を鳴らした。
「じゃあ、ほかのやつで試してみますかね」
「は?」
妙にあっさりと、ミスラは身を引いた。早々に踵を返して部屋を出ていこうとする。床にならんだ装置がそのままだ。この部屋で術をとりおこなう意向は変わらないらしい。
ファウストはあっけにとられていたが、扉が閉まる前には我に返った。床の呪具のあいだをぬって、間一髪相手のベルトを掴む。
「おい、待て! いったい誰に声をかけるつもりなんだ」
誰にキスをするつもりだとは、扉がひらいている状態ではさすがに訊けない。ふり返ったミスラは、ベルトをつかまえられたかたちのまま、首をかたむけて思案した。
「そうですねえ……レノックスとか、いいんじゃないですかね」
「は!?」
思いがけず親しい者の名が出る。ファウストはいたく動揺したが、自身の声が廊下にまで響きわたった気配を察し、深呼吸をして、どうにか混乱をおさめた。
「……念のため確認させてくれ。きみは彼とも、そういった関係にあるのか……?」
つい、声に探るような色が出る。自分ばかりがきまった相手だと思いこんでいたところに突如として二人目の存在が持ちあがったうえ、それが幸福を願ってやまない男の顔をしていたとあれば、無理からぬことかもしれない。
「そういった関係って?」
ミスラが首をかしげる。ファウストは言葉に詰まった。相手がミスラであるかぎり「察してほしい」はまずもってして成功をみないコミュニケーションである。
「だから、その……性的なことを、したりする……」
いまだ半びらきの扉の向こうを運の悪い誰かが通らないことを祈りつつ、ファウストは小声でつけ足した。
「はあ? レノックスとセックスしてるかってことですか? 俺が? なぜ?」
「声が大きい!」
ファウストは即座に相手の口をふさいだが、彼の叱責の声のほうがいくぶんか大きい。ともあれその反応にファウストは心ならずも胸を撫でおろし、咳ばらいでごまかした。
「違うのか。違うならいい。いや、よくはないが」
彼はずり落ちたサングラスの位置を直し、同時にミスラをふたたび室内へと引っぱりこんだ。しっかりと扉を閉めて、結界の効力が持続していることを確認する。背後で不平をもらすミスラの声が聞こえたが、これ以上のやりとりを半室外でおこなうのは危険である。
「それにしたって、なぜレノックスなんだ……彼はたしかに強靭だが、呪いへの耐性は南の兄弟たちと比べてもさまで変わらないぞ」
ため息をついて、ファウストは扉の前で腕を組む。それを悠然と見おろしつつ、ミスラはベルトで押さえつけられた腹をさすった。
「べつに、耐性なんかなくったってできることでしょう。それにあれくらいの体格なら、多少負荷をかけても平気かなって」
「不成立を前提に試すつもりなのか!? 絶対にやめろ」
「はあ? 俺を誰だと思っているんですか。ぜったいに成立させてやりますよ。もう、なんなんですか、さっきから。レノックスが俺にキスをするのがそんなに嫌なんですか?」
「そ、そんなことを話しているんじゃ、」
ない。と言いかけて、ファウストははたと動きをとめた。
「待ってくれ。きみがキスをされる側なのか?」
「はい?」
「……は?」
沈黙が流れる。お互いの認識に齟齬が生じていることに察しのつくたぐいの沈黙だ。
「だから……、僕が呪いを受けて、きみにキスをされてやるんじゃなく?」
ファウストはミスラに顔を近づけると、小声で問いかけた。顔を近づけるためには、彼は不本意ながらもつま先立ちをしなければならない。
「違いますよ。自分で術をかぶって、成立させて、解いて、実証するんです。不成立だったら組み直してもう一度。それがいちばん効率的でしょ。だからあなたやレノックスはそのへんにつっ立っていて、しかるべきタイミングで俺にキスをしてくれれば、それで……なんなんです? その顔」
突然がっくりとこうべを垂れた相手の顔を、ミスラは覗きこむ。
「きみが人魚の姫君役だったのか……」
ファウストは眉間を指で押し揉みながら、絞りだすようにうめいた。
つまり、術が成立した場合に呪いを被るのはミスラである。不成立であった場合に、うろんな不具合をかぶるのも、ミスラである。これまでもそのようにして術式の研鑽をしてきたのかもしれない、とファウストは思いあたり、感銘を受けるよりは半ば呆れた。危ういことこの上ない。
「問題あります?」
「……言いたいことは山ほどあるが、残念ながら問題はない。まったく……」
ファウストは両手で衣服のすそを持つと、再び呪具を慎重にまたいで室内を横切り、ベッドへと腰かけた。まぬけにつっ立って待ってやる気はない。
「わかったよ。なんでもいいから早くしてくれ、お姫様」
「なんか腹の立つ言いぐさだな……」
ミスラは独りごちて、装置の中心にできた空間にはいる。その場にあぐらをかき、静かにスペルを唇にのせた。いくつかの小さな陣が淡く発光し、術式が発動する。
それからは、精緻に組みあげられたからくり仕掛けを観ているようだった。円形に装置された陣と呪具とが、時計回りになめらかに起動していく。
円の結ばれる地点に、小型の蒸留器が置いてある。今夜のミスラが白衣を着ていないのは、一応、狭い場所で火を使うことへの配慮であったらしい。次第に薬草と花の香りが立ちこめ、謎めいた薬液が小瓶に溜まっていく様子を、ファウストはつぶさに見つめた。
やがて術式が閉じられたとき、ミスラの手のなかにはうすい珊瑚いろの薬液のはいった小瓶が握られていた。
「……できた?」
「できましたよ。見ます? はい」
「うわ。投げるな」
ぞんざいに投げて寄越された成果をファウストは危うく受けとめる。キャンドルの灯りにかざしてしげしげと眺めると、呪いを帯びた薬液はとろりと睡たげに光った。
「どぎつい呪具を使うわりに、それほど邪悪な気配はしない」
「飲んでみたくなりました?」
「そんなわけないだろう。かえって恐ろしいよ」
お返しとばかりに、ファウストは小瓶を投げかえす。役目を終えた呪具を足で端に寄せていたミスラは、なんなくそれを受けとめると、ためらいなく蓋をあけた。部屋のまん中に立ったまま、一瞬で酒のように飲みくだす。
「…………」
ミスラはなんとも形容しがたい顔をした。そもそも美味いものではないだろうが、この男としてはめずらしい反応である。ファウストは忍び笑いをもらし、ミスラはファウストをにらんだ。
「大丈夫なの、お姫様」
「……、…………、」
「ああ。なるほど」
喉もとに手をあてて、ミスラは眉を吊りあげている。数度、もの言いたげに唇を動かしたあと、肩をすくめてため息をついた。繊細な術式を動かして疲れたのか、ファウストのいるベッドへ歩み寄るそぶりをみせる。
「…………っ!」
その場から一歩踏みだしたとたん、ミスラはよろめいた。横向きにベッドへと倒れこんでくる。向こう側の壁に頭を打ちつける重い音を響かせたのち、水を打ったように静かになり、ファウストはさすがに声をたててわらった。
「声を奪い、両脚に歩行にともなう激しい痛みをもたらす。話に聞く症状そのものじゃないか。よかったな」
尾ひれを人間の脚に変えてもらうために、深海に棲む魔女に美しい声を差しだした人魚姫。けれども彼女の手にいれた脚は、土を踏みしめるたびに刺すような痛みにさいなまれる。そのうえ、約束の日までに王子の愛を勝ちとらなければ、あわれ海の泡と消えてしまう運命だ。呪いを解くには、王子からの──。
ミスラがファウストの腕を引く。痛む脚をかばうようにシーツの上でとぐろを巻いたミスラが、その指をとり、自分の唇へとみちびいた。
「何」
「……、……」
指さきを唇に触れさせて、ミスラは声なき声で訴える。
「ナイフで襲わなくていいのか?」
キスをねだるミスラはかわいい。理由がどうであれ。ファウストは機嫌をよくして、形のよい丸い頭を膝の上へと引きあげた。
「それにしても──」
前髪を上げて、なめらかな額を撫でる。
「声を奪っておきながら、痛む脚を寄越して」
うすく血管の透ける瞼を親指でなぞる。厚ぼったい睫毛は、睡たげなまなこをいっそうけぶらせている。
「あげく死の呪いを授けるなんて、その姫君は魔女の恨みでも買っていたのか? いくらなんでも悪辣すぎるだろう。物語とはいえ」
ほそい鼻すじを、唇の上の窪みを、ファウストはていねいに愛玩する。
「…………」
「賢者の世界では、痛っ」
しらじらしい与太話に痺れをきらしたらしい、ミスラはファウストの手首を掴むと、親指の根もとに思いきり咬みついて抗議の視線を送った。
「ふふ、よしよし。悪かったよ」
拗ねた動物にするように、ファウストはミスラの頬を軽くたたく。ミスラは誘いこむように、唇をなかばひらいている。咬まれるかもしれないと予感しつつ、ファウストはそこへ唇を押しあてた。案の定、下唇の端に牙が食いこんだ。
ささやかに皮膚が裂けたようだ。唇がはなれると、うすく血の匂いが立ちのぼった。
「あなた……、俺を焦らすとはいい度胸してますね」
大きく息をついたあと軽く咳きこんだミスラが、ざらついた声で凄む。
「なんだ、もう話せるのか。ままならなさそうでかわいかったのに」
「趣味が悪いですよ」
「きみに言われたくはない。脚は?」
シーツの上で折りたたまれていた脚は、いまは脱力して投げだされている。その脚が靴を履いていることに気づいて、ファウストは顔をしかめた。
「痛みはありません。術も解術も設計通りです。まあ、当然ですけど」
ミスラは若木のような脚を持ちあげて伸びをすると、かかとをベッドの格子の上へと引っかける。
設計通りに式をひらいてゆく技術は、元来魔力の強さのみによらない。ミスラ本人が意識的におこなっているかはともかくとして、魔力のコントロールの微妙こそが彼を呪術体系の高みへと引きあげているはずだが、ファウストはそれを胸中にしまった。なんとなく癪であったので。
「参考までに聞いておく。成立しなかった場合、何が起こった?」
靴を履いたままの脚をはたいて、ファウストがたずねる。ミスラはファウストの膝の上で腕を組むと、しばし沈黙した。
「発情していたでしょうね」
なんでもないことのように答えながら、ぬいだ靴をおざなりに蹴り落とす。
「は? 発情?」
「タイガーベリーの花が手にはいらなかったんで、組成の近いバイパーベリーの花を使ったんですよ。なにも起こらなかった場合、ただの強力な精力増強剤になります。たいしたことにはならないって言ったでしょう?」
「たいしたことだと思うが!?」
ファウストは間髪いれずに叫んだ。得意げな顔をしていたミスラは瞬時に小言の気配を感じとり、あさっての方向へと視線を逸らす。
「きみ……レノックス相手にその状態になったらどうするつもりだったんだ」
「だから、あの人なら負荷がかかっても平気かなって」
「クソ野郎じゃないか。はあ、さっきまでかわいかったのに……」
思わず、ふだんは鳴りをひそめている粗野な言葉づかいが転がりでる。ファウストはミスラの顎をむんずと掴むと、強制的に視線を合わせた。
「いいか。レノックスのところへ行っていたら、きみは解術に失敗した」
「……はい?」
「賢者はこう言ったはずだ。『愛する者からのキスで、呪いはとける』と。おとぎ話の定石だろう。きみとレノックスがむつまじい関係にあるのなら問題なく解術しただろうが、そうでないなら、きみは僕のキスでなければ──」
ミスラは眉間にしわを寄せ、得意分野での能力を軽んじられたことへの不快をあらわにしていたが、突然「あっ」と声をあげた。口をひらいたまま、次第に「ああ……」と覇気のない顔つきになる。
「なんだ、急に」
「その要素、忘れてました。いれるの」
「……はあ?」
「なにか忘れているような気はしていたんですよね。妙にたやすく組めましたし。はあ、しょうがないな。もう一度初めから組み直しです」
「ちょっと待て。……それは、つまり、」
ファウストは気が遠くなるのを感じた。つまり、先ほどの術は、相手が彼以外の者であっても問題なく解術できてしまったということだ。万感の思いでもって頭を抱える彼の下で、ミスラは早くも思索をめぐらせている。
「次も付きあってくれますよね? ああでも、あなただけだとちゃんと解術が破棄されるのかどうかわからないのか。やっぱりレノックスも呼んでおいて、まず彼にキスを」
「したら、ナイフを持って寝込みを襲うぞ」
ファウストは前髪の緞帳の向こうから、サングラスごしの目を光らせる。
「やめてください。せっかく眠れたのにそんなことをされたら、うっかり殺しちゃうじゃないですか」
「そうだな。僕は姫君じゃなくて呪い屋だから、それは正式な方法とはいえないだろう。千年先まで呪ったりはするかもしれないが」
「うわ……」
本領発揮とばかりに呪い屋らしい演出につとめはじめるファウストの顔から、サングラスが奪われる。重要な記号を奪われたファウストの形勢は思わしくない。ミスラはそのまま身体を丸めて、ごろんと反対側へとのがれた。
「あなた、めちゃくちゃ俺のこと好きじゃないです?」
「そうだけど何? 床を早く片づけてくれ、結界に障りがないか点検しないと」
ファウストはつんと顔を反らして言いきると、威勢よく立ちあがった。正確には、立ちあがろうとした。
ミスラの両脚がファウストの腰をはさみ、立ちさることを強固にさまたげている。膝をからめて荒っぽく引き寄せられ、ファウストはなすすべなくミスラの胸の上へ倒れた。さながら軟体動物の腕に捕まったかのようだ。
「おい。脚の使いかたはそうじゃないぞ、人魚の姫君」
ミスラはみずから組み敷かれるような具合になり、じっとファウストを見あげた。ファウストは言葉を待ったが、湖水の色の瞳がもの言いたげにまたたくばかりで、その唇はうごかない。
「……もう口はきけるだろう。言葉で言わないとわからないよ」
うす灯りのなかで注意深くファウストの瞳の奥を窺っていたミスラは、やがてばつが悪そうに眉を下げると「怒りました?」と訊ねた。
「怒らないでください。愛だのなんだのはよくわかりませんが、あなたに怒られるのは、なんとなくいやです」
そう言って、ファウストの顔にサングラスを返す。空いた手で相手の後頭部を引き寄せると、先ほど自分が牙をたてた場所に唇をあてた。皮膚のやぶれたところを、舌がするりと撫でていく。
「姫君が魔女の恨みを買っていたのも、あながち間違いじゃない気がしてきたな……」
「なんです?」
「なんでも。僕たちに姫役と王子役を回すようなやつは狂っているなと思っただけ」
ミスラはしばらく考えたあと、生真面目な顔をして「そうですね」と答えた。彼らに姫役と王子役をあたえたのはミスラである。ファウストは少し笑って「もう怒ってない」と告げた。愛と平和を撹乱する悪役でも、この男なら痛快な物語にしてしまうのかもしれないと、ファウストは思う。