甘めのニューゲーム ──そうなんです、日中によくパワー切れになってしまって。毎日ちゃんとフル充電されているはずなんですけど。
──はい。よろしくお願いします。ほら、ミスラさんもお願いしますって。
──……おねがいします。
──ふふ。眠たそうでしょう? いつもよりぼんやりさんで、かわいいんですけどね。
朝一番、フォルモーント・ラボラトリーのフィガロ・ガルシア博士のもとに馴染みの若い顧客からのビデオ通話がはいった。例によって、カメラの前へ顔を出したのはガルシア博士その人ではない。彼が個人的に所有するアシストロイドであるところの〈スノウ〉、そして〈ホワイト〉である。
顔だちの同じ少年がいつのまにか増えていることに若い顧客は驚いたが、すぐに「ご兄弟なんですね、すてき!」と顔をほころばせた。
いぎたないオーナーを起こすまでもない。彼らは慣れた様子で端末を操作し、顧客のもとへ職員を派遣した。救急車両にも似たラボの専用エアカーが、公道へとすべりだしていく。
運ばれてきたのは、背の高い青年の姿をしたアシストロイドだった。髪の燃えたつような赤いカラーリングが特徴的な個体だ。ラボにはいってきたガルシア博士はほとんど寝起きだったが、つつがなく改修は執り行われ、赤毛のアシストロイドは午過ぎにはメンテナンスルームへと転送された。メンテナンスを控えたいまは、ストレッチャーの上で意識のない人間のように横たわっている。
レノックスは以前にも、同じアシストロイドのメンテナンスを担当している。数世代前の護衛型アシストロイドで、名前は〈ミスラ〉。
護衛型のならいで造りは頑丈だが、暮らしに寄り添うための機能は少ない。現在のオーナーに引き継がれるさいにいくつかの拡張機能が追加されたものの、たびたび動作不良を起こしてはこうして運びこまれている。
ミスラは不思議な経歴をもつアシストロイドだ。彼はもともと、著名なハイクラスの女性に所有されていた。女性の死去に際して相続手続がなされ、現在はワーキングクラスの親族のもとに所有が移っている。
企業やハイクラスの個人に所有されたアシストロイドは、一般的には機密保持のために廃棄されるケースが多い。所有者が廃棄を望まない場合に限り、蓄積されたデータの初期化と入念なクリーニングがほどこされ、ややクラスダウンされた個体となって、ラボ公式の中古販売サイトに出品される。ごくまれなケースだ。
ミスラの場合、データの初期化は行われなかった。加えて、一般的な市民生活において必要のない強力な護衛対応設定さえ、新旧オーナー両名の希望によって保持されている。現在の彼のオーナーは年若い兄弟だが、彼らはどういったわけか、アシストロイドであるミスラに対して「ミスラさん」とうやうやしく呼びかけるようだ。さらには限定的な機能のおかげで、ミスラ自身はどちらかといえば、お世話をされる側として暮らしている。
今回はいつもより大きな改修をしたため、メンテナンスにも時間がかかりそうだった。助手として派遣されてきた高性能アシストロイドの〈オーエン〉は、ミスラを一目みるなり歓声をあげた。
「ポンコツのミスラじゃない。やった」
公開されたのち、いまだ世論を騒がせているカルディア・システム。それをいち早く搭載されていた個体であるオーエンは、非常に魅力たっぷりにほほ笑む。
「あの能天気そうなオーナー、やっとカルディアシステムをいれる気になったわけ?」
「いや。バッテリーが消耗しやすくなったから、ソーラーシステムとのハイブリッドにしたんだそうだ」
「なんだ。つまらない」
驚異的な人間くささで、オーエンはぶすくれてみせた。しかし次の瞬間、ポカンとした顔つきで表情が固定される。
「ハイブリッド? こいつ、いまだにケーブル充電だけで動いてたわけ? やっぱりポンコツ──」
上からさかさまにミスラの顔を覗きこんだオーエンがそう言いかけたところで、ミスラの瞼が唐突にひらいた。オーエンは驚きのあまり、さっと身を引く。
「ちょっと。何こいつ?」
「ん?」
彼は身を引いた拍子に背後のレノックスに体をぶつけたが、相手は涼しい顔だ。研究員という肩書でありながら、レノックスはパワータイプのアシストロイドを相手にトレーニングを行えるほどの身体能力の持ち主でもある。彼はオーエンの肩ごしにストレッチャーの上を覗きこむと、納得のいった顔をした。
「ああ。ミスラは護衛型だからな。周囲に強い信号を感じると非常電力がはたらいて、スキャンモードになるんだ」
スリープ状態のミスラは死人のように横たわったまま、翠緑の瞳だけをきろきろと動かして辺りを窺っている。
「うわ。きも……」
淡く明滅する瞳がオーエンをとらえる。やがて必要な情報を集め終えたのか、何ごともなかったかのようにとろりと瞼を伏せた。
「危険はないと判断されたようだ。よかったじゃないか」
「べつによくはない。……はあ。びっくりした。ポンコツって言ったのを怒ったのかと思った」
唇をとがらせたオーエンが、ふたたびそろそろとミスラの寝顔を覗きこむ。眠る親猫にちょっかいをかける仔猫のようだ。レノックスは口もとをゆるませる。
「怒らないだろうな。『ポンコツ』の意味を聞いてきたりはするかもしれないが」
「意味がわかったら怒るだろ」
「……いや。怒らない。もし怒ったら……」
護衛型のアシストロイドは威圧行動をとるが、その行動原理は怒りではない。それは慈善事業に携わるアシストロイドの端整な微笑が、慈愛によって形づくられるものではないことと同じだ。
「怒ったら?」
オーエンが愛らしく小首をかしげる。彼にはもうわかっているはずだが、ヒューマン・エラーを楽しみたいのだろう。オーエンではない多くのアシストロイドたちにとって、それらはプログラムであって、感情ではない。プログラムであって、心ではない。
レノックスは人さし指をたてると、天井を示した。
「逆戻りだ」
上階にはラボがある。すなわち、ガルシア博士の手もとへ送り戻さなければならない。不具合報告書を添えて。オーエンはストレッチャーに肘をついて、はなはだ退屈そうにふうんと吐息した。
そのとき、メンテナンスルームの透過型モニタがアラートを発した。優先度の低いインシデントに使用される音だ。彼らが揃ってモニタを見あげるタイミングで、フォルモーント・ラボラトリーの施設外縁のマップと、赤いインシデント地点が表示される。音声は出力されていないが、反カルディア・システムの市民デモが行われているようだ。職員がデモに巻きこまれることを防ぐための報知であり、最近では週に何度か見ることができる。
それを興味深く注視していたオーエンが、ふとふり返った。いかにも楽しげに、レノックスに目配せを送る。
「こいつさ、過剰防衛で何度もしょっぴかれかけてるじゃない。人間のいるところでテストしてきたほうがいいと思うなあ」
こいつ、と指をさすのは、スリープ状態のミスラである。レノックスはミスラのメンテナンスに取りかかりつつ、首をかしげた。
「ソーラーシステムのテストのために、公園に連れていく予定だが……いっしょに行きたいのか?」
「は? べつに行きたくない。公園って、ラボの隣の緑地だろ。あんなとこ、とっくに歩き尽くしちゃったよ」
「そうか」
施設周辺の絶望的な退屈さについて嘆きながらも、オーエンは必要なツールを次々に差しだして、優秀な助手としての手腕をいかんなく発揮する。
ほどなくしてメンテナンスは完了し、レノックスは新システムを搭載した〈ミスラ〉を起動した。眠りから覚める人間のように、ミスラは数度まばたきをして、ゆっくりと起きあがる。
「おはよう、ミスラ。気分はどうだ?」
「いまは午後なので、こんにちは、です。レノックス。とくに問題はありません」
ミスラは人間がストレッチをするように、体のいろいろなところを伸ばしたり、曲げたりしながら答えた。
「ミスラ。フローレス兄弟のところへ帰る前に、公共空間での動作テストが必要なんだ。羊たちの散歩に付きあってくれるか」
「ひつじ」
「ああ。こいつのことだ」
レノックスのツールバッグの影から、羊型のペットロイドが覗いている。
「これは知っています。〈Mu-Mu〉ですよね」
「そうだな。〈Mu-Mu〉ではないが、同じペットロイドではある」
「散歩の護衛ですか?」
「そうだ。頼めるか?」
「お安い御用ですよ」
当初の予定通り、ペットロイドの散歩を兼ねた動作テストにミスラを誘いだす。ミスラの顔つきは、心なしか運ばれてきたときよりもすっきりとしたようだ。レノックスの職員タグに顔を近づけると、一時的なオーナー権限を付与するコードを読みとった。
「じゃあ、連れてくるからここで待っていてくれ」
「わかりました」
ストレッチャーの上で、素直に頷くミスラ。そのやりとりをまじろぎもせず観察していたオーエンの瞳が、獲物を見つけた猫のように輝いていたことを、背を向けてメンテナンスルームから出ていったレノックスは知る由もなかった。
「ねえミスラ」
「なんですか、オーエン」
人間のいなくなった空間で、二体の美しいアシストロイドたちが交歓する様子を、メンテナンスルームの監視モニタが映している。
「お前、もっとあの兄弟を効率的に守れるようになりたいと思わない?」
オーエンは施設内のシステム制御をほとんど完全に掌握している。監視モニタにしばらくのあいだ数十分まえの映像を差しこむためのシグナルを送ると、彼はにこやかにミスラをふり返った。その手に、透明なプレート状のなにかが、のせられている。
「あの兄弟。ルチルとミチルのことですか。効率化はしたいですね。彼ら、行動の予測がつかなくて守りにくいので」
「最高。じゃあ、僕がいいものをあげる」
「いいもの」
「そう。マナプレート抜くね」
「あっ」
という間に、ミスラは目と口をあけたまま停止する。
護衛型のアシストロイドは、基本的には他者と信用にもとづいた関係を築かない。一度危険性なしと判断された対象であっても、期間をおいてプロファイルの一部はリフレッシュされ、再度判定が行われるようプログラムされている。
ただしそれは、判定のタイミングさえクリアすれば一定期間内警戒されない、という重大なシステム上の抜け穴になりうる特性だ。ものいわぬ人形となった隣人を前に、オーエンはニンマリと笑みを深めた。
「ミスラ。準備ができた。護衛を頼む」
「わかりました」
十五分ほどで、レノックスがペットロイドのひと群れを率いて戻ってくる。彼はメンテナンスルームを覗きこむと、扉をひらいてミスラを誘った。
「ねえ、ミスラ。あとで感想を聞かせてよね」
ストレッチャーから降りたミスラの影から、オーエンがひょっこりと顔を出す。
「感想?」
「そう。羊の散歩の感想」
屈託のない笑顔で、オーエンはミスラに笑いかける。
「俺がするのは羊の散歩の護衛であって、羊の散歩じゃないですよね。羊の散歩の護衛の感想なら──」
「めんどくさいやつだな」
打って変わって、オーエンの顔は盛大に渋面をつくる。くるくるとよく動く表情は、カルディア・システムの要だ。
「それでいいから、ちゃんと記憶しておけよな」
「はあ。わかりましたよ。よくわかりませんけど」
ミスラはもの憂げにあくびをすると、ゆったりとした足どりでメンテナンスルームを出ていった。
緑地はラボの施設群に寄り添うように広がっている。もともとは、室内にこもりがちなラボ職員たちのために整備された屋外運動場だ。それが近年、誰もが利用できるメトロポリタンパークとして開放された。研究のあい間に昼寝やスポーツでリフレッシュする職員たちと、ピクニックを楽しむ家族連れ、ジャグリングの練習をする大道芸人などが混然と入り交じって、おのおのくつろいでいる。
てんでに鳴き声をあげながらついてくる羊たちのいちばん後ろから、ミスラがついてきていた。「羊の散歩の護衛」であるため、すべての羊に監視が行き届くようにとのことだ。
緑地の中ほどに、ペットロイドたちの遊び場が設けてある。犬型の個体が数体、すでにドッグランでたわむれていた。羊型ペットロイドや〈Mu-Mu〉たちの放牧場とドッグランとは、植え込みなどでそれとなく仕切られている。不慮の事故を防いでくれるしくみだ。
「ミスラ、ありがとう。しばらくは──」
しばらくは、自由に過ごしていいぞ。と声をかけるつもりで、彼はふり返った。
「……ミスラ?」
いちばん後ろをついてきているはずのミスラが、こつぜんと姿を消している。レノックスは(あくまでも彼にとってはひどくうろたえた表情で)うろたえた。ミスラは預かりものである。すぐさまあたりに目をくばるが、あの特別な赤い髪は見あたらない。
彼は急いで羊たちをスリープ状態にすると、もときた道をたどりながら目撃情報をもとめた。さすがに目立っていたらしい。目撃者は多く、幸運にも、彼はまだ緑地内にいた。
遠くにポツンと浮きあがるように、ミスラの髪の色が揺れている。燃えたつような赤い髪は、どのような風景にもなじみにくい。ミスラの両側で、過剰に布の少ない装いをした男女がわらっている。各々ミスラの腕をとってなにごとかをフレンドリーに囁きかけながら、緑地の外へと連れ出そうとしていた。
違法性のある業務につかせるために、店の外で主人を待つアシストロイドやはぐれたアシストロイドを誘拐し、斡旋する業者がいる。どうやら、なにかしらの行儀のよくない勧誘に捕まったらしかった。
レノックスが駆けつけると、男女は彼の胸の職員タグを一瞥して、そそくさとその場をあとにした。ミスラは腕をとられていたときのかたちのまま、不思議そうにふり返る。
「ミスラ……探したぞ。傷をつけられていないか?」
「探したんですか。あなたはいま、一時的に俺を所有しているんですから、その職員タグと端末で追跡できるでしょう」
「……あっ」
ミスラの指さきがレノックスの胸もとを示す。便利な機能をすっかり失念していたレノックスは、眼鏡をおさえて赤面した。
「傷はないです。体をべたべたとさわられましたけど」
「そうか……それは、いやだっただろう」
相手が感情の機微を有さないことを知りながらも、レノックスは同情を向ける。こういったところは、彼の上司の影響である。
ミスラは首をかしげた。その辺りをさわられたのだろう、胸もとや首筋を手でこすりながら、なんとも形容しがたい表情をつくる。
「チレッタと、ルチルとミチル以外の人間に、はじめて体をさわられました」
両手をじっと眺めて、ミスラはポツリと呟いた。
「そうか。殴り飛ばしたりしなくて、えらかったな」
ねぎらうように、レノックスがミスラの衣服を整える。ミスラは撫でられ慣れた猫のように、首をそらして彼の手を受けいれた。
ミスラはこれまでにも数度、危険人物であると彼が判じた相手に過剰防衛をはたらいている。個人的には、今回ばかりは殴り飛ばしてやってもかまわなかったのではないかと思ったことを、レノックスはそっと心にしまった。
「はあ。べつに、たいしたことない連中だったんで……でも、なんだか、変な感じがしたな」
「変な感じ?」
「よくない感じというか、疲れる感じというか。よくわかりませんけど。……あ、オーエンが言ってた〈めんどくさい〉って、こういう感じのことを言うんですかね」
「…………」
ミスラのあざやかなエメラルドグリーンの虹彩に、かたむきはじめた陽が透いている。考えこんでいるらしい横顔は、奇妙に生っぽい。
「ミスラ、……お前、」
レノックスの胸に、ある予感が帰来した。改修時に〈あれ〉をいれられたのだろうか。まっさきに、その懸念がよぎる。
いや、まさか。そんなリクエストはなかった。ただ充電システムの改修をして、運用テストと最終メンテナンスをクリアすれば、明日にも兄弟の待つ家に返却される予定だ。
「……オーエンか」
はたと彼は得心した。舌を出していたずらっぽく笑うオーエンの顔がよぎる。してやられてしまった。
あれをいれられたとなったら、テストもメンテナンスも、一日では済まない。というよりも、それがオーナーのリクエストでなければ、まずはシステム自体を取り除かなければならないだろう。
ミスラの一見して無感情な瞳には、公園の外にあるフードトラックのネオンが映っている。ホログラムの企業CM、デモ隊の掲げるカラフルなトーキーパネル、タワーのビーコン、芝生で憩う人びとに備わるウェアラブルコンピュータのシグナル、そんなものたちに次々に「心」を動かされているらしく、瞳がせわしなく行き来している。
「レノックス。あれはなんですか」
「うん?」
ミスラのすんなりとしたアシストロイドらしい指が、一台のフードトラックをしめす。
「あれか。あれはCBSCといって……冷たくて、甘い食べものだよ」
「へえ、あれが。オーエンが食うたびに自慢してくるんですよね。そんなにいいものなら、食べてみたいな。最近、食べられるようになったんですよ。俺がおいしいと言うと、ミチルは変な顔をするし、ルチルは大笑いするんですけど。なんか、俺の味覚のバグがとれないとか言って、フィガロが変な顔をしてましたよ。あの顔、いま思いだすとちょっとおもしろかったな。記録しておけばよかったですね」
ミスラはいつになく饒舌になっている。カルディア・システムの学習速度は驚異的だ。これ以上好奇心が燃え広がらないうちに、連れて帰らなければならない。
「ミスラ」
「はい」
「俺と手を繋いでくれるか」
「はい?」
「ラボに帰るまでの介助を頼みたい」
唐突な申し出である。ミスラは怪訝な顔をして、上から下までレノを眺めまわした。おそらく、バイタルを読まれている。
「必要を感じませんけど」
「じつは必要なんだ」
「はあ……しょうがないですね。じゃあ、代わりにあれ、買ってください」
「あれ? ああ、CBSCか」
動作テストには摂食アタッチメントのテストは含まれていないが、背に腹は変えられない。いまは、トラブルを起こさずラボまで連れて帰るミッションが最優先だ。
差し出された手をとると、手のひらから指さきまで差のない、のっぺりとした温度が伝わった。その手を引いて、CBSCのフードトラックを目指す。
「あなたの手は〈めんどくさい〉感じはしないですね」
「そうか」
「少し体温が低いですけど。あたためます?」
コンビニエンスストアの店員のような気軽さで、ミスラが訊ねる。
「できるのか?」
「できますよ。拡張機能です。ほら」
「おお……あっ、熱」
「あはは」
ミスラは屈託のない様子で、声をたてて〈笑った〉。暮れどきの陽の光がさして、赤い髪が濃い飴いろに透きとおっている。思わず、目を奪われる。
美しいから──では、なかった。むしろ、逆であると言ってさしつかえない。それはなにしろぎこちなく、いびつで、難解な笑顔だったので、常日ごろ笑顔が硬いとの上司の評価を得ているレノックスは、自分の笑顔もこんな感じなのかもしれないとやや反省した。
護衛型アシストロイドの笑顔というものについて、社会はまだ明るくない。表情に乏しく、威圧感をおおいにそなえた従来型の個体はいまだ高い需要を保っている。しかしその一方で、新世代の護衛型のアシストロイドは〈ほほ笑む〉ことができるようになった。護衛型らしいパワーを維持しつつもフレンドリーなコミュニケーションタイプを持つ個体を打ち出したところ、飛躍的に売上が伸びたからだ。
ミスラはまさしく前者だが、オーナーの引き継ぎのさいに拡張機能を搭載されている。つまり、現在のミスラは〈ほほ笑む〉ことができる。ただし、声をたてて〈笑う〉ことはできない。──はずなのだが。
CBSCを舐める横顔は、いつものどんな表情も読みとれない顔だ。ミルクスタンドの店員が不思議そうにミスラを見ている。護衛型のアシストロイドが嗜好品を与えられるところを見慣れないのかもしれない。
「うまいか?」
律儀に手を繋いだまま、ミスラはのんびりと味覚を楽しんでいる。出発前、オーエンがミスラに「感想を聞かせろ」と求めた理由が、レノックスにはなんとなくわかった気がした。数世代にわたってひたすら護衛の仕事をこなしてきたアシストロイドが、外の世界をどのように見るのかは、たしかに魅力的なデータであるといえる。
ミスラはほとんど食べ終わりつつあるCBSCを見つめると、首をかたむけて「うーん」としばし考えこんだ。
「悪くないですけど、なんか液状化しちゃって食べた気がしないですね。でも、この下のがりがりしたやつは好きです。甘い消し炭みたいで」
味覚のバグがとれないというのは、どうやら本当のことらしい。レノックスは笑って、少し冷えたミスラの手を握りなおした。
数々の誘惑的なものからミスラを遠ざけながら羊たちを回収し、やや疲弊した面もちで施設に戻ったレノックスを、待ち構えていたらしいオーエンが迎えた。
「ミスラ! どうだった?」
廊下の向こう側から、オーエンが叫ぶ。ガルシア博士への連絡はすでに済ませてある。ラボへ直結する搬送用のエレベーターにミスラを乗せて、レノックスはミスラが返事をするまでのあいだ、しばらく扉を押さえていた。
「CBSCを食べましたよ。悪くなかったです」
エレベーターの厚い扉のなかへ消える瞬間、ミスラはそれは美しくほほ笑んでみせた。
「羊の散歩関係ないじゃん」
閉まった扉の手前で、オーエンは呆れた。ミスラに甘いものの自慢をされたのは初めてだったのだろう。顔ばかりは呆れながらも、弾むような楽しさが彼の周りをとりまいている。
翌日の朝早く、ミスラは問題なく兄弟のもとに返送された。ガルシア博士にお小言を食わされたオーエンが、むくれた顔で階上のバルコニーに姿を見せる。
彼はラボの専用エアカーに積みこまれていくミスラに向かって、大きく手を振った。「またね、ポンコツのミスラ」と声を張りあげる。
「今度こそいっしょに遊ぼう。約束だよ」
スリープ状態のミスラはもちろん返事をしなかったが、呼びかけにひととき瞼を持ちあげた。オーエンの声は記録されているだろう。目覚めたとき、ムッとするミスラの顔をレノックスは想像できる。
けれどもそれは、少なくともいまはまだ、彼だけが知っている顔だ。ミスラは怒らない。「ポンコツ」の意味を聞くために、オーエンのもとに通信がはいるまで、あと数時間。