愛ゆえに「はっ……う、ゔん……っ」
丑三つ時に暗闇から聞こえる唸り声にハッと目を覚ました。
いつもなら鍛錬に出てはこの時間長屋にいない方が多いあいつがしっかりと布団を敷いて横になっている証である。しかしいつもなら傷を負っても悔しさと未熟さから痛みなど顧みずに鍛錬に行こうとするこいつが、動けなくなっているのはやはり今回の怪我は余っ程の事だったのだろう。
心做しか次第に早まっていく呼吸に体を起こし布団から這い出ては、隣で眠る文次郎の枕元に座り直す。
少しずつ暗闇に慣れていく視界で捉えた文次郎は眉間に皺を寄せて冷や汗をかいている。寝苦しいのか時折溢れ出る低い声に返事をするように「もんじろう」と静かに呼び掛けては額に手の平を当てた。
熱い。
傷口から炎症が起こり発熱しているのだろう。未だに緊張の糸が解けず冷え切った身体と微かに震える指先にその体温は余りにも熱かった。
「ん…仙蔵か」
腫れ上がった左目はそのまま、右目だけを開きこちらを見据える文次郎の声は余りにも静かだった。
「…眠れないのか」
「戯け。お前、魘されていたぞ」
「そうか。寝ていたはずなのにやけに疲れている訳だ」
「痛むのか」
「はは、気が抜けたからな」
土井先生を無事救出しこの長屋に辿り着くまで大量に分泌されていたアドレナリンが痛みを幾分か麻痺させていたが、この学び舎に無事戻ってこれた安堵感からか、今はその痛み全てが全身に襲い掛かり顔を顰めたくなるのは仙蔵も同じだった。
文次郎は自分の額に置かれた仙蔵の手の甲を覆うように手の平を重ねる。
「お前、いつから起きていた?随分身体が冷えてるぞ」
「…お前のせいだ。お前のせいで私は眠れん」
ふん、と鼻を鳴らして態とらしくそっぽを向けば文次郎の弱った笑い声が聞こえる。いつもの仙蔵を甘やかす声だ。
「ほら、早くこっちへ入れ。お前の冷たい布団よりかは眠りやすいだろう。責任なら取るぞ」
がば、と布団を捲り上げその隙間に額の上で握られたままになっていた片手を引き込まれる。
お互い傷口を上に向けた半身になってひとつの布団に収まっては、文次郎の胸に飛び込むように抱きついてグリグリと頭を擦り付けた。
抱きしめられるように頭を支えられ背中を摩る大きな手。
ドクドクドク、と1番近くで聞こえるこの心音に少しずつ何かが緩んでいく気がした。目の奥が熱くなってツンとする。吸った息を口から吐こうとすれば唇が震える。
「もう、我慢しなくて良いんだぞ。お前だってその腕痛むだろう。今はおれだけなんだから、気を張る必要もない」
知ったような口を聞く文次郎を睨もうと顔を上げれば、優しく微笑まれ視線を外すことも出来ず、ぼやけていく視界の奥にその表情を焼き付けた。
あぁ、あぁ。
思えばこの忍務の最中、土井先生が中々見つからず文次郎と留三郎が衝突した時も、天鬼と戦った時も、常に自分の役割を全うしようと何があっても冷静でいるべきだと殺していた感情が、このたったひと言で決壊してしまう。
「腕が痛い。肩も痛い」
「あぁ」
「右だけじゃなくて全身痛い」
「あぁ」
「疲れ果てているというのに、眠れん」
「あぁ」
「だがそんな事全てどうでも良い。そんな事よりお前が、文次郎がっ」
うっ、えぐっ、うう…と続きは嗚咽に変わり不安と安堵のような正反対のものが同時に押し寄せては言葉を攫っていく。
「仙蔵」
止めどなく流れ落ちる涙を拭うように目元を指の腹が伝いそのまま頬を包み込む。
「心配してくれたんだな」
「っしんぱいなど、しておらん。が、お前のこととなると私は冷静さを保ってなどいられん」
ぎゅう、と文次郎の背中に回した指に力が入る。
「あぁ、頑張ったな。お前は忍務中、戦いの最中もずっと冷静だったよ。おれの方こそ、お前の右腕が封じられた時かぁっと血が昇ってしまったからな。仙蔵、お前の状況判断はいつも的確だった、凄く助けられたんだ。だからおれも、皆も無事ここに戻って来れた」
ややこをあやす様に文次郎は仙蔵の艶やかな髪と共に形の良い頭を撫で、背中を擦る。
こういう時決して泣くな、なんて文次郎は言わない。ひとしきり溢れる涙を受け止めてくれるのだ。
「薬と消毒の匂いは、あまり好きにはなれん」
「同感だな」
それに交じる血の匂いなどもっと嫌いだ。
「お前が、生きていて、本当にっ、よかった」
「あぁ。おれはもっとお前と一緒に強くなってみせるさ。仙蔵、お前が泣かなくて済むように」
「っ泣いてなどおらん」
あまりにも無理のある言い訳に文次郎はまた笑って仙蔵の顔を胸に押し付けた。
「そうだな、お前の顔を今確認できないから泣いてないのかもしれないな」
この男は知っている。
こんなにも感情を露わにする相手が自分だけである事を。ありのままでいられる相手である事を。
涙を流す相手が、文次郎しかいない事を。
自分しか、仙蔵を泣かすことがない事を。
あの日、接近戦は俺に任せておけと言う文次郎の顔を見た瞬間今にも溢れそうな涙はどこかへ消えてしまい、いつの間にか心は温まり唇は嬉しそうに弧を描いていた。
文次郎と共にあればどんなに困難な道であっても最後には笑っていられることを知っている。
「なぁ仙蔵、傷が塞がったら久しぶりに町へ出かけよう。この前きり丸のバイト帰りにお前の好きそうな茶屋を見つけたんだ。まぁまだ外出は認められないだろうから、明日は長屋で粥でも作ろうか」
体の内から聞こえてくるその心地の良い声に文次郎はここにいるのだと、また、腕に包まれたままどく、どく、と規則正しく動く心音を一番近くで聞き昂っていた気持ちも次第に落ち着いてくる。
あぁ、失いたくない、と誰にも言えぬ気持ちを最後の一雫と共に流してしまう。
ずぴぃ、と勝手に胸元で鼻をかんではやっとの事で文次郎の方へと顔を向けた。
「水でも飲むか?そこへ汲んである」
「お前は意地を張らないで痛み止めを飲むといい」
「なっ」
「ははん、まだこの味が苦手なんだな?どれ私が口で移してやろうか」
文次郎は話をそらすようにのそのそと起き上がり床を這うように移動し机の上に明かりを灯した。すっかり調子を取り戻した仙蔵は追いかけるように布団から這い出ては文次郎の背中にピッタリとくっつく。
「お前も飲むといい」
文次郎から包みと水の入った竹筒を渡された。仙蔵はすぐに薬とそれから水をたっぷり口に含んで文次郎の顔を両手でつつみ、そっと口付けをした。
自分の体温に変わっていくぬるい水は文次郎の口の中でまた温度を変えてはゆっくりと喉元を過ぎていく。
「……まずい」
べぇと舌を出せば、文次郎は困ったように笑って「お前がやったんだからな」と、お返しとでもいうように再び唇を重ねてくる。
舌に残った苦味も交じりあっているうちに消えていき、ただただ文次郎が欲しくて欲しくて、必死にしがみついて続きを強請った。
数分、数十分が経っていたのかもしれない。薄明かりのなか薬をだしに抱き合って口吸いをして、紅潮した肌はすっかり熱を取り戻していて、酸素が足りず肩で息をしていた二人が唇を離した時一筋の透明な橋がかかるほどだった。お互い離れ難く、欲を孕んだ視線を絡ませながらどうにか落ち着こうと必死に冷静さを取り戻そうとする。
「仙蔵、このままだと明日目が腫れてしまうな。冷やしてから寝た方がスッキリするだろう」
「…お前のこちらの目もちゃんと治ると良いな。私は私が思っているよりお前の顔が好きらしい」
細い指先で眉から頬をなぞれば文次郎はかぁっと頬を赤らめてあからさまに視線を逸らす。
「おい、こちらを見ろ。折角私がお前を褒めているというのに」
「っお前はおれがどれだけ我慢してるか分からないだろう!」
仙蔵の言葉に少しの照れを隠せずにいる文次郎があまりに愛おしい。勿論その反応を見るだけで全てを察する事はできるのだが。
「はは、それは悪い事をしたな。ところでお前は何を我慢しているんだ?」
「うっ、すっかり調子を戻したなぁ?はぁ……本当は、今すぐにでもお前を抱いてしまいたい。きっと止まることなど出来ないし朝日が登って傾いても離してはやれんだろうな」
ごくごく真面目にというように淡々と言葉にする文次郎とは反対に、自分が煽ったにも関わらずかぁっと顔が火照っていくのが分かる。
「お前が不安にならんくらい、おれがそばに居るって全身に教えてやりたい」
じりじりと迫るように近づいてくる文次郎にぎゅっと全身に力が入る。身構えるように、でも逃げるという選択肢はなくて、どうにでもなれ、と身を任せるようにして目を瞑った。
「と、まぁこの様だからそんな事はしない」
ぱっと先程の地を這うような欲に塗れた低い声から、いつもの調子のいい明るい声に変わる。
「なっ、おまえっ」
「はは、襲うような事はしないさ。おれはお前の事がとびきり大事だからな」
顔を赤くし、プンスカと怒る仙蔵を宥めるように文次郎はそう言って「布団に入ろう」と仙蔵の緊張を解くように手を差し伸べた。その手に導かれるままひとつの布団に収まると手元にあった光を消してしまう。身体はまだこんなにも熱いというのに、文次郎の鍛えられた精神力に感心までしてしまう。
「文次郎、私はお前の言ったことを忘れない。明日は一緒に温かい粥を食べるし、次の休みにはお前の言う茶屋に出掛けるからな」
我慢など出来ないのは、自分の方だ。きっと、文次郎の分まで自分は感情に素直に従って生きているのだろう。
「……それから、私はいつでもお前に襲われるのを待っているぞ。朝から晩まで絶対に私を離すなよ?たぁっぷりお前を甘やかしてやる。別に我慢なんてしなくていい。文次郎、お前も私にくらいは全てをさらけ出して欲しい」
すりすりと懐いた子猫のように身を寄せて、心地の良い体温に泣き疲れた瞼は閉じていく。
「仙蔵、おれは十分お前に甘えているよ。こんなに強かで綺麗なお前を手放す気など更々無いのだからな」
あぁ、こいつは今どんな顔をしているのだろうか。
微かに聞こえる文次郎の声と、瞼、そして額へと落とされる熱に促されるようにすとんと眠りの底へ落ちていった。
身体を包み込むその温もりは、翌朝になっても離れることは無かった。目を開ければすぐ横に気持ち良さそうに規則正しく呼吸を繰り返す愛おしい男がいることがひどく嬉しくて、安堵して、口元が緩く弧を描くのを隠すように再び胸に飛び込んだ。