徹夜明けは判断鈍る言うたのに徹夜明けは判断鈍る言うたのに
「お先失礼します」
「お疲れ様です…あら岡くん、酷いクマね。帰ってちゃんとん寝た方がいいわよ」
「あぁ、えぇ?そうします」
朝のシフトに毎日入ってるこのおばさん、名前何やったっけか。週五で挨拶するだけの関係の人に気を遣われるほど僕の顔は酷いらしい。スマホに電源を入れずに画面を鏡代わりにして覗き込むも色まではわからなかった。つい、顔に液晶を近づけた時、パッと画面が明るくなった。
『東京駅着いた。今から待ち合わせんとこ向かう』
『聡実くんもうバイト終わった?』
『待たせたらごめんネ』
ポンポンポン、と連続で届くメッセージを見てメガネを浮かせてゴシゴシと目を擦った。
『今日休みなんで、ゆっくりで大丈夫です』
駅前の広場で柵にもたれ掛かり地面を見つめた。目まぐるしい朝の風景を眺めているよりもじっと動かぬ一点を見つめている方が楽だからだ。僕を頭上から照らす太陽は冬なのに変わらず暑くて着込んだ体にじんわりと汗が滲んでいく。
「おはよーう、聡実くん。待たせてもうた」
そんな声と共に履き潰したスニーカーを革靴でツンツンされる。
「あ、耳と鼻赤くなってるで。中入って待っててくれたらよかったのに」
「いつもの場所言うたの、自分じゃないですか」
挨拶もしないでそんな皮肉を言えば狂児はいつもの感情のよくわからない笑顔を浮かべた。
「こんな寒さじゃ聡実くん指先カッチカチになっとるんとちゃうん?せや、狂児さんが温めたろか?」
そう言って立ち上がった僕の手を取った。
「さっきまでホットコーヒー飲んでたから俺、体ぽっかぽかやねんなって熱ぅ?!」
べらべらと喋る狂児の掌の熱よりも、自分の熱の方が遥かに高かった。人の体温を緩いと感じるくらいには。
「さ、聡実くん、もしかしぃ熱あるんやないん?顔赤いのも寒いからちゃうくて、あっ!クマえげつないことなってる」
「……クマに関しては狂児さんにだけは言われたない」
同じく酷い目元をした狂児にそれだけ言い返した。
いそいそと自分の巻いていたマフラーを外しては自分の首に巻き付けて、コートまでも着せてこようとするのを断った。ただでさえ暑いのだ。
「そんなことより早よ行きましょ。モーニング終わっちゃう」
「いやいや聡実くん?君体調悪いやん?今日は家帰ってゆっくり休まんと」
「……ですか?」
「はぁ?」
「楽しみにしてたの僕だけですか?」
狂児の匂いのするマフラーをキュッと握りしめた。
「せっかく会えたのにもう終わりですか」
なんかすごいことを言ってしまった気がしてその匂いの中に顔の半分を埋めると、メガネが少し曇った。
面食らった顔をした狂児は数秒、いや数十秒口をあんぐり開けて馬鹿みたいに突っ立っていた。僕はそれをじっと見つめることしかできなかった。なんでこの男と約束をしてご飯を食べに行くのか。自分の中で明確になりつつあるその答えの端を言葉にしてしまったのだと気がついた。ただ、狂児がどう受け取るかは知らない。
「聡実くん、家まで送ってく。その前に、コンビニと薬局寄れる?」
その言葉に、頷くことしかできなかった。別に自分の問いかけに対する答えを期待していた訳では無いけど、ずるい大人やなと思った。
カン、カン、と音を立てるアパートの階段は狂児が上ると一際大きく聞こえる。今更すぎてなんで僕の家を知っているのだとか、なんでビニール袋二つ分もいろんなもん買ったのかだとか疑問はあるが聞かなかった。
「……かぎ、開けます」
そう言って、やっと狂児の前に出て玄関を開けた。
「ほい、これ。冷やしとくもんも入っとるからちゃんと冷蔵庫に入れてな」
袋二つを目の前で渡された。ずっしりとした重みに腕よりも心が折れそうだった。
「中、入んないんですか、狭いですけど」
「聡実くん」
絶対に、踏み込んでこない。きっとこの男には僕との境界線でも見えてるちゃうかってくらい明確に、その線は存在する。
「あ、それとももう仕事ですか。だったらこんなとこまで来てもらってすみません」
「……そんな簡単にヤクザのおじさん家に招いたらいけへんわ」
「今更すぎません?それに狂児さん以外のヤクザもおじさんもこの家には入れる気ないです」
「……聡実くん」
「っまだなんかあるんですか。なんですかいつもに比べて髪ボサボサやし目の下のクマも深いし、中のシャツよれてるし、極め付けにいつもの仕事用の鞄持ってないし!向こうで仕事終わって着替えもせんと新幹線乗ってぼ、僕に会いに来たんやないん?」
はぁはぁと肩で息しながらちょっと怒ってしまった。目尻に涙が滲んだのがわかる。
「ごめんなぁ。体調悪いのにようさん考えさせてしもたなぁ」
柔らかい口調にキッと狂児を睨んだ。もう、泣いてしまっているから威嚇すらできていない。
「……ほんまに、ほんまに入ってええん?」
「ちゃうんやったら出てってください」
キィィ、と音を立てて扉は閉まった。
それと同時に両手に持っていた重さが滑り落ちて、違う重みが全身を覆った。
「聡実くんに会うためだけに朝一番のに乗って東京まで来ました」
「はは、自分で言うん恥っずいなぁ。でもほんまやで?聡実くんの言う通り、今日仕事無いし、朝イチこっち来たら長く一緒にいられるかもて…」
ぎゅっと、背中のコートを握った。きっと後で皺になるくらい強く握った。
「…狂児は女々しいな」
「好きなコには奥手なだけやって。聡実くんはめっさ男前やね」
「うるさいわ」
目一杯背伸びして抱きしめ直した。
「っはぁーー。なんか頭も痛なってきたわ。狂児も寝不足やろ?はよ寝よ?」
ゆっくりと離れていく体と同時に段々と狂児の顔が見えてくる。大きな指の腹で涙の筋を拭われた。
「泣かせてごめんネ?」
少しだけ申し訳なさそうに狂児はそう言う。
「……今日一日一緒にいてくれたら許す」
「いるいる♡一生聡実くんの側にいる♡」
「そんなん無理やろ」
あぁ、徹夜明けは判断鈍るとか誰かが言ってたな。……狂児か。
本調子じゃないのは僕も狂児も同じだろう。続きは寝てから考えればいい。
ただ熱った頬が気持ちに嘘はないことを証拠付けていた。
「とりあえず、なんかお腹に入れて薬飲んでな。食欲はあんねんで?冷凍うどん買ぉたけど、狂児さん作ったろか?」
「お願いします」
そう言ってガチャガチャと狭い台所を鳴らす狂児を横目で見ながらいつもの寝巻きに着替えた。
「アッ聡実くん、服散らかしっぱなし!片付けんでええの?」
「……オカンか。これが定位置なので良いんです」
「後で皺になっても知らへんからね〜」
「狂児さんのコートとマフラーはちゃんとハンガーに掛けてあるからええでしょ。部屋温まったらもう一個の方にジャケットも掛けてくださいね……あ」
「なにぃ?」
「お椀ひとつしか無いです。僕一人暮らしやから」
「ふふ」
「なんで笑うん」
「いや聡実くん一人暮らしなんやな思って」
「そう言ってるでしょ」
「お友達とか呼ばへんの?」
「……狭いし呼ばん。狂児さんが初めてや」
「んふふ」
「変な笑い方すんな」
「っほんま聡実くんは可愛いいな!」
「なんや急に」
狂児の所へ行けばくしゃくしゃと頭を撫でられた。グツグツと音を立てる鍋からはシンプルなだしの匂いがして、バイト中からお腹がすいていた事を思い出した。
結局狂児の分は鍋のままで、煮込まれた柔らかいうどんを啜った。
「お味はどう?」
「なんか」
「ん?」
「僕の為に誰かが作ってくれたご飯久しぶりやなって。 ……おいしいですよ」
「ははは」
「…なんなん」
「嬉しいなぁ」
狂児はじっとこっちを見て、目を細めた。
「そうですか」
あったかいもん食べるも鼻水出るのなんでやろ。鼻をかむついでに曇ったメガネのレンズもティッシュで拭いた。
「これ、ダサない?」
「狂児さんにその感覚、あったんですか?……これが1番大きい服なんです」
クローゼットの奥にしまってあったスウェットセットを狂児に差し出した。
「兄に、引越しの時に似合わんからあげるって押し付けられて、でも僕だって兄ちゃんと雰囲気同じだから似合うわけないしなんかサイズデカいし、ダサいし。スーツで寝るよりこっちのが楽やと思いますよ」
聞かれてもないのにそんな事を口にして半ば無理やり押し付けた。
「それもそうやな。ありがとう」
「いえ」
ワイシャツを脱ぐと背中一面の紋紋につい視線は釘付けになって、つぅー、と人差し指で模様をなぞる。
「……気になるぅ?」
「いや、全部は初めて見たなって」
「下にも入っとるんやけど、聡実くん見る?」
カチャカチャとベルトを外し、見せつけるようにズボンを下ろす。
「あほか。はよ着替えろ」
「んふふ」
結論、このダサいスウェットは狂児によく似合った。似合ったと言うより、顔とスタイルの良さから釣り合いがギリギリ取れていると言った方が的確ではあるが。
「聡実くん、どう?はは、裾足りへんかったな」
「……なんかムカつくな」
「照れんでええよ。なぁこれ、聡実くんの匂いするなぁ」
「嬉しそうやな」
「ん〜」
ピピピピ、ピピピピ
「お、何度やった?」
「……三十八度二分」
「あかん、こんな事してる場合ちゃうな。はよ寝んと。疲れ溜まってたんやな」
子どもの頃から使ってる少し古い体温計は最近のやつの三倍は時間がかかるし、あ、この前予防接種で病院行った時渡された体温計、十五秒位で終わってびっくりした。今となってはコレが本当の体温を示しているのか分からない。
「布団、一組しかないんですけど」
「聡実くんが寝れればええよ。俺はどこでも寝れるしな」
「一緒に寝んの?」
「へ」
「狂児さんデカいし窮屈かもしれへんけど、嫌?」
「……こっちおいで、聡実くん」
「早いな」
狂児は僕より早く僕の布団に潜り込んで、作った隙間をトントンと叩く。
途端に気恥ずかしくなって、狂児に背を向けるようにして隣に横たわった。何言ってんだ、僕。でも僕が寝てるのを横で正座してじっと見つめられるよりマシやろ。そんな事を考えていてもドクドクと跳ねる心臓は、布団の外に出ていってしまうほど大きかった。眼鏡を外してその辺に置いて、肩にかかる布団を少し引っ張っる。
「聡実くん」
いつもの声より近く、そして、低い。
「なに」
「布団ちゃんと被ってる?」
「大丈夫です。狂児さんこそ、狭ないですか?」
「俺は大丈夫だけど、聡実くん、もうちょっと近づきたいなぁ」
その言葉と共に下腹部にどっしりとした重みが乗っかって、ぐい、と引き寄せられた。僕も意を決して狂児の方を向いた。家に招いたのは狂児を逃がさない為なのに何故か僕が逃げていた事に気づいたからだ。
「狂児さん、お願いがあるんです」
「なに?なんでも言って?」
メガネを外してしまったから、今狂児がどんな顔をしているのかも分からない。
「僕が寝て起きても、ここにおって」
そう、ダサいスウェットに向かって言葉を発した。微かに震える指先はまた狂児の背中の布を掴む。
「うん」
「あと、もし、これが一時の気の迷いじゃなくて僕と同じ気持ちやったら、目が覚めてから教えて」
「僕は狂児のこと、好きやから……寝るわ。おやすみ」
言い逃げするかのように言葉を吐き出して、目を瞑った。
「……あかん、聡実くん。堪忍して」
ボソボソと狂児はそう何か言葉を続けて、自分の胸に僕を引き寄せた。ふんわりと香る狂児の匂いは嫌いじゃなかった。どこか安心するその匂いに睡魔はすぐそこまで来ていて、ぎゅう、と抱きしめられる熱に意識は直ぐに飛んでしまった。
それから何時間経ったのだろうか。
冬は十七時前に鳴る夕方のチャイムでふと目が覚めた。酷くぼやける視界は薄暗く、目の前の男の胸元しか見えなかった。身動ごうと体を揺らすも、がっしりと抱きしめられていて動けない。段々と状況が掴めてくるのは頭がスッキリしたからだろうか。少し違和感のあるそこにやっとの思いで触れると、額に熱さまシートが貼られていた。
「…さと、み、くん?」
「きょうじ」
「起きた?具合はどう?」
「だいじょうぶ…これ、きょうじが貼ったん?」
上手く口が回らず、やけにゆっくりそう聞いた。
「そう。さとみくん、寝とったらめっちゃポカポカしてきたから、そう言えばさっき買ぉたな〜って思って付けた。嫌やった?」
「いえ、全然気づかんかったから」
「聡実くんよう寝てたし、起こさないようにそーっとやったからね」
少しずつクリアになっていく視界に狂児の姿が浮かんでくる。はらりと前髪が垂れ下がっている。
「狂児さんは?よう眠れた?」
これ飲みなさい、と枕元に置かれたスポークドリンクを手渡され、少しだけ体を起こした。
「うーん、寝たよ」
「歯切れ悪いな。布団薄いから寝心地は悪いですけど」
「ちゃうねん、聡実くんの寝顔見とったら何時間も経っとっただけでな、好きな子が俺の腕の中でぐっすり寝てんねんで?そんなん目に焼き付けとかなきゃ〜なって」
何の弁解なのか分からない、サラッと言われたその言葉を黙ったまま頭の中で反芻させ、甘いスポドリを喉に流し込んだ。
「それにな、聡実くん寝る前に言ってくれたやろ。だから俺もちゃんと伝えな思ってな」
狂児の方を向いてちゃんと体を起こせば、狂児もこちらを向いて正座をする。
でも狂児の顔が見れなかった。怖い。言葉にされるのが怖かった。狂児はずるい大人やから、変な優しさで自分の心を守ろうとするから。いつだって狂児は僕の判断に任せるから。強引に誘っといて、それでも距離を取ってくる。居なくなったと思ったら突然目の前に現れて、でも僕が会わん方がええっていったらそうやなって答える。でも今日だって僕の為にここまで来て、僕の気持ち聞いて、それでも起きるまでずっと抱きしめていてくれた。それでも、離れていくかもしれないという可能性を捨てきれなくて、狂児の気持ちを聞くのが怖かった。
それ程に、僕は、きっと僕が思っているよりも遥かに、成田狂児が好きだから。
「聡実くん」
そう言って無意識に膝の上で丸められた手の甲を大きな手のひらで覆われた。
「聡実くんの傍にずっといさせてください。
俺にとって聡実くんが何よりも大事やねん。好きって言葉じゃ足りへんくらい好き」
「っそんなん、僕の方が狂児のこと好きや!」
「っはは、嬉しい。聡実くん、俺世界で一番幸せもんやな」
狂児は本当に世界で一番幸せそうに笑って、僕の手を取って引き寄せては抱きしめた。
互いの存在を確かめるように、ぎゅうっと抱きしめあっては笑った。