何度捨てたってまた拾えばいい「友有」
この名前に込められた意味をお前はちゃんと分かっているだろうか。最後、俺が違う名を名乗った意味を知っているだろうか。多分知らない。お前は何も知らないまま、また俺の前に現れたのだろうか。「友有、友有」と、俺のその名を心の中で唱えねがら、口ずさみながら、叫びながら何を想って六百年も彷徨ったのだろうか。
「とーもーあーりぃー」
正面で顔を覗き込む犬王はゆっくりと顔を傾けていく。
「なんだ?」
「考え事か、友有」
「あぁ、そんなとこだ……何だ?」
「お前が俺の顔じっと見ながら固まっちまったから聞いたまでだ。俺のことでも考えていたのか?何だ?言ってみろ!答えてやる」
「お前はなぜ俺を友有と呼ぶ?」
「友有が自分で付けた名前だからだろ?」
「俺が最後、友魚と名乗ったことを知らなかったのか?」
「知らなかったよ。お前と二度と会わなければ、お前が救われるって言われていたんだ。だから俺は友有が名乗った名前は疎か、処刑されたことすら知らなかった。……いや、噂話で小耳に挟んでいたが、そんなこと信じたくなかった。俺たちの平家物語が封じられようともお前にはどこかで生きていてほしい、ずっとそう願っていたんだ。だから聞かなかった事にした。でも、ちゃんと聞いていたらもっと早くお前に会いに行けたのになぁ」
ケロッと答えるその内容にぽかん、と口が開いてしまう。あぁ知らなかった。俺は知らなかった。なんで犬王が自分を閉じ込め、物語が忘れられてしまうことを了承したのか分からなかった。俺がこんなにも、こんなにも大事にしてきた犬王の物語を捨てるくらいなら死を選ぶ。なのにあいつは将軍に寵愛される道を選んだ。そうとばかり思っていた。
「それよりさ、何でお前は友有を捨てたんだ?」
純粋な疑問が投げかけられた。何と言ったらいいのだろう。伝えねばならないとは思っていたが、一瞬でも疑ってしまった罪悪感も測り知れない。
「俺は最後……、お前に捨てられたのかと思った。お前は犬王の巻を禁止されたところで才能はあるんだから将軍に仕えることができるのは確かだ。でも俺は…お前も一緒に反抗してくれると思っていた。俺の人生は犬王そのものだったのに、お前はそうではなかったのだとそう思ってしまった。俺の隣にお前はもう居ない、それだけが俺に残った事実だった。友一に戻って正しいと言われている平家物語を弾き語る道は俺にもあった。でもやはりそれは俺ではない。お前と出会って変わってしまったからな。お前を語ることの出来ない人生は意味のないものだから、最後に名乗った俺の名は残されたものだ」
一気に話し終えた。静かに聞いていた犬王が口を開くと空気に小さな波ができる。それを感じ取っては静かに目を閉じた。
「ごめんな、友有」
犬王からは意外な言葉がいつも口から飛び出すが、この時は反応が遅れてしまうほどだった。目を開けば、そこには申し訳なさそうに眉を下げてこちらを窺う彼の顔があって名前を呼ぶので精一杯だった。喉がからからに乾いてしまって、なのに目の奥に熱い液体が溜まっていくのがわかるような、そんな感覚だった。
「俺はこんなにもお前のことを知らなかったんだなぁ。ずっと一緒にいたからわかった気になってた。分かってもらえると思っていたんだ。いつもお前は俺の話を聞いて全てを知って楽しそうに語ってくれるから、いつの間にか物語よりも友有のことが大事になっていたんだよ。だから、どうやったらお前が辛い思いをしなくて済むか考えてたつもりなのに、結果的に酷い目に遭わせてしまって、ずっと、ずっと!一人ぼっちにさせてごめんなぁ」
段々と掠れていくその声にドクドクと心臓が震えるのがわかる。ぎゅっとなって苦しい。俺は感情がすぐ体に出てしまうから、今感じてるものはぐちゃぐちゃで何にも喩えられはしないが、堰を切ったように流れ出る熱い涙がきっと代弁しているのだろう。
「っ知らなかったのは俺の方だ。お前のことをわかってると思っていたから、勝手に居なくなったと結論付けてしまった。すまない」
「そう思わせたのは俺のせいだ」
「だが、お前は俺のためにずっと、っ分からなかった」
「友有」
「いぬおう」
そっと涙を拭われ距離が縮まる。犬王に触れた。
「友有。お前は友有だ。これからもずっと俺はお前の隣にいる。だから、友有なんだよ」
何を想って犬王が六百年も彷徨ったのか。そんなことはもう口にしなくとも分かる。ずっと自分の片割れを探していたのだ。犬王にとっての俺はいつも隣にいたのだ。きっと、ずっと、隣にいた。あの日の桜が散って、また咲いて、それを何回繰り返したって落ちていく花びらの隙間に友有の影を探したのだろう。何度も名前を口ずさんで、我らがここにあった唯一の手がかりを失わないように。
「犬王、お前が再び俺の名前を呼んでくれたのがどれほど嬉しかったかわかるか?捨ててしまった名を聞いて思い出した記憶にはどれにもお前がいる、どの言葉にも感覚にもお前がいるんだ。この四文字にはお前が側にいなきゃ意味がないんだ」
「お前が捨てしまったものは全部俺が拾ってやる。どこにいたって探してやる。見つけ出してやるから、俺が友有のことがどれほど大切かじっくり伝えさせてくれ」
そう真っ直ぐに伝える犬王の瞳は、泣き腫らした顔だけをしっかりと捉えている。頬を撫でるその手のひらに自分の手を重ねた輝かしい笑みが二つ、彼の中で揺れた。