極楽浄土は今此処に。「いぬおう、いぬおう!」
そう大声をあげて泣く友有は犬王におぶられて帰宅した。
竜中将の演目が終わり、宴もお開きになり、手伝ってくれた者達が皆帰路についても友有はずっと泣いていた。俺たち以外は皆成仏され、犬王が戻った。戻るという表現が正しいのか分からないが、生まれ変わったというのもまた違うだろう。ただ、二人の目標とすることが達成出来た喜びは測りきれなかった。
「友有、そんなに泣いては声が枯れてしまうぞ」
「うぅ、俺は嬉しいんだ。きっとお前よりも嬉しい」
犬王は着ていた着物の袖で友有の目元を拭ってやる。
「楽しかったなぁ、友有。お前と舞台で共に歌うのは何よりも心地好い。そして安心する」
「何を言う。お前は一人でも立派にやってのける」
「ここまで来れたのはずっとお前が隣に居てくれたからだろう?なぁ、ともあ、り」
ぺたぺたと犬王の顔を触っていた手に力が入ったと思ったら、ちゅう、と頬に熱が触れた。
「……口は今、お前と同じところについておる」
「はは、忘れとった。ではお前からしてくれないか?」
「いいよ、ねぇ目を閉じて」
「俺は盲だからそもそも見えてないがな」
「でもこの直面を見られてる気がしてちょっと恥ずかしい」
「まぁ視えてはいるか。ふふ、俺にだけみせて」
「……わかった」
ふわりと触れるような口付けは、柔らかくてあたたかくて初めての感覚だった。今までとは全く違うのに優しく頭を支えるその手の感じとか、息遣いだとか、何から何まで犬王で不思議だった。嬉しかった。
祗園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。
娑羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。
おごれる人も久しからず、唯春の夜の夢のごとし。
たけき者も遂にはほろびぬ、偏に風の前の塵に同じ。
戸の隙間から遠くで唄う声が聞こえてくる。少し悲しげなその声が風になって通り抜けていった。聴こえてはいるが聞こえないふりをする。そんな事より今が大切だった。
「んっ、ふういぬお、う」
「ともあり、とも、あり」
だって、幸せだった。やっと認められたのだ。犬王が、認められたのだ。きっと比叡座の棟梁になれる。大夫になれる。あぁ犬王が!誰よりも何よりも美しい犬王が。
しがみつく様に抱きしめて、名を呼びあって互いを離さなかった。ぴったりとくっついて溶けてしまうのでは無いかと思うほどに求め合った。受け入れ合った。
今、我らの物語は人生の何章目に当たるのだろうか。いや、これから始まるのだ。今日まではきっと、序章で、終章なんてない。いや、俺たちは分かっている。分かっているはずなのに今この時だけでもそう信じたかった。それ以外は信じたくなかった。さて、この溢れる涙はその全てを知っている。栄華があれば没落がある。だから今が一等輝いてみえる事を。
犬王はいつもあたたかい。話し方も触れ方も何もかもがひどくやさしい。
「竜宮城は無いかもしれん」
「無いのか?」
「あぁ。でもあると言ったらあるんだ」
「あるのか」
「そうだ。でもそれは海の中では無いかもな」
「何処にあるんだ?」
「人によって違うだろう」
疲れ果てて犬王の膝に頭を乗せれば長い髪を愛おしそうに掬われた。
「では、お前のは何処にあるんだ?」
「俺のは、友有が居るところだな」
「死んだ後、俺が居るところか?」
「そう。天国だって地獄だって関係ない。何処よりもお前の隣が俺の一番、幸せな場所なんだ」
「では今此処が、俺の極楽浄土だな」
「なぁんだ、友有も見つけたの?」
「あぁ、竜宮城はあるな」
「うん。あるよ」
ほら、終わりの話をする犬王の言葉からは何処か続きが感じられるだろ?ただ春の夜の夢の如し。犬王にはその夢の先がある。だから俺は犬王だけを信じる。
「なぁ、もう一回口吸いしていい?」
「あぁ、何度でも」
そう言って今度はしかと目を閉じた。
夢から覚めるのはもう少しだけ、先がいい。