帰った途端、目の前にぬっと竜三の手が差し出された。
「お帰り。ほら、さっさと出せ」
「ただいま。って、何」
何のことか全く分からず首を傾げると、竜三がちっと舌打ちした。失礼なやつだ。
「健診結果、もらったんだろ」
「へ」
確かに今日受け取ったが、何で知ってる。
「ふかさんに聞いた。早く見せろよ」
あっさりと答えを告げた竜三に催促され、のそのそと鞄のなかから受け取ったばかりの封筒を取り出すと差し出す前に素早く奪い取られた。そんなに信用がないのだろうか。大体何でふかもこいつにそんなこと教えてんだ。丶蔵がどんよりとため息を吐く間に、竜三はさっさと封筒の中身を取り出して広げていた。
「相変わらず軽いなあんた。お、血圧は大丈夫だな」
そこか、と顔をしかめると、竜三がふんと鼻で笑う。確かに半年前の数値は少々高かったが、まだぎりぎり正常値だった。なのに塩分の取りすぎだ、と竜三に最近は好物のつまみを禁止され、酒を飲みながら専らいりこをぽりぽりと食べていた。いりこは旨い。けれど酒盗や塩辛も旨いのだ。
「あ」
「え、何」
ぺらりと紙を捲った竜三が驚いた声を上げる。他に何か引っ掛かってたっけ、と竜三を窺っているとひたりと睨まれた。
「尿酸値が上がってるじゃねえか。あんた、いりこも禁止」
「えええ」
「酒も減らせ」
「やだよ」
さすがに横暴すぎて思わず即答してしまったが、竜三から返されたのは笑顔だった。怖い。
「何だ、口寂しいならおれがいくらでも相手してやるぞ?」
そう宣いながらずいと距離を詰められ、慌てて首をぶんぶんと振りながら後退る。すぐに入ってきたばかりのドアまで追い詰められ、どんと顔の両脇に竜三の手がつかれた。横目に見えるその右手には、握り潰された丶蔵の健診結果。いやな汗が背中を流れるのを感じ、顔がひきつる。
「丶蔵」
にっこりと竜三が微笑むが、額に青筋が浮いているのはたぶん丶蔵の気のせいじゃないはずだ。怖すぎてぺたりと背中をドアに張りつける。
「な、なに」
「とりあえず今日は禁酒」
「う、はい」
帰るなり一日の楽しみを奪われて、丶蔵はしょぼくれながらも仕方なく頷くしかなかった。
「はあー」
もう今日だけで何度めになるか。竜三の入れてやった茶を啜りながら丶蔵がどんよりとため息を吐く。正直鬱陶しい。釣られて出そうになったため息を噛み殺し、竜三は丶蔵をじとりと睨んだ。しかし当の本人は竜三の視線に気づかず、肩を落としてもう一度ため息を吐いた。
「はああー」
原因は分かっている。昨日竜三が禁酒を言い渡したからだ。晩酌の楽しみを奪われたと嘆いていた丶蔵は一晩経って諦めたのかと思いきや、仕事から帰って来てからずっと恨みがましくため息をついているのだ。ほぼ毎日飲んでいるとは思っていたが、もしやすでにアル中だったのか。止めるのが遅かったか、と臍を噛む竜三の向かいで仁が丶蔵を見てくすくすと笑う。
「丶蔵、ため息ばっかりだぞ」
「ん? ああ、すまん」
仁に言われて初めて気づいたのか、丶蔵がきょとんと瞬いた。
「そんなに酒浸りになりたいのかよ」
苛立ちを隠さずに睨みつけると丶蔵が眉を下げて苦笑する。
「そうじゃないけどなあ、やっぱ一日の終わりに飲む酒は格別なんだよ」
「まあそれは分かるけど」
うん、と頷く仁に丶蔵がここぞとばかりに顔を輝かせて身を乗り出す。
「だろ?」
「おい仁」
「あ、ごめん」
思わずじとりと竜三が睨むと、仁は肩を竦めてぺろりと舌を出した。そうだった。禁酒中の丶蔵に遠慮して仁も控えているが、こいつも飲むのは好きなんだった。
丶蔵がしょんぼりと座り直し、また大きくため息を吐いた。
「はあー」
背中を丸めた丶蔵の顔がテーブルに載せられてぺしょりと潰れている。余りにも嘆いている様に絆されそうになったが、まだたった一日だ。ここで許したら元の木阿弥だ。そう気を引き締める竜三の前で丶蔵はしつこくため息を吐いてばかりだ。
「はああー」
諦めが悪すぎてだんだん腹が立ってきた。
「丶蔵」
「ん?」
丶蔵の方へと身を乗り出すと、情けない表情のまま丶蔵が顔を上げた。園顔を両手で掴み、がぶりと噛みつくように口づける。
「んう」
不意打ちに驚いて開いた唇に舌を捩じ込み、咥内を舐め回しながら丶蔵を床に押し倒す。じゅうと舌を吸い上げ下唇を食んで引っ張りながら離すと、丶蔵は呆然と竜三を見上げていた。
「な、何」
「ため息一回でキス一回な」
「へっ」
にっこりと笑いながらぺちぺちと頬を叩いて丶蔵の上から退く。
「あ、おれも参加しよ」
はーい、と仁が笑って手を上げる。丶蔵はしばらくそのまま転がっていたが、のそりと体を起こしながら恨みがましい目でふたりを睨んだ。
「横暴」
そう呟くと早速ため息を吐いた丶蔵に、今度は仁がけらけらと笑いながら襲いかかった。
ぺきょ、と間抜けな音を立てた瓶から強いアルコール臭が立ち上る。何でも良いからただアルコールを飲みたいだけの丶蔵にはぴったりな、安い酒の匂い。一気に流し込んだ胃がかっと熱くなる。
「はあー、生き返る」
禁酒を言い渡されて一週間。ついでにため息を吐く度にキスされるようになって一週間だ。
丶蔵の為を思ってのことだとは分かっている。だからこそ文句を言いつつも従っていたが、今日は無理だった。仕事で不要なまでに気をすり減らして疲れ果てた体を癒すには、どうしてもアルコールの助けが必要だった。結果、今まさにアル中のおっさんそのものの行動に出てしまっている。
小さなカップの中身を飲み干し、ふうと酒臭い息を吐く。久し振り、というほどでもないにせよ、一週間振りのアルコールが体に染み渡り、ふわふわと気分が浮き立つ。
「よし、帰ろ」
この程度なら匂いも残らないだろう。ゴミ箱に空いた瓶を放り込み、丶蔵は軽い足取りで帰路についた。
一度破った誓いを破るのは容易い。好物のつまみにも酒にもありつけない悲しみにため息を吐いては呆れるふたりにキスされているうちに、いつの間にか丶蔵は帰り道に安酒を買って飲むのが習慣となりかけていた。
今日も今日とて仕事上がりに一杯引っかけて機嫌良く家に帰りつくと、玄関で竜三が待ち構えていた。
「よっ、ただいま」
仁の出迎えか?などと軽口を叩きながら靴を脱いだ途端、竜三にがしりと肩を掴まれ抗う間もなく抱き寄せられた。
「わっ、う」
そのままの勢いでがぶりと噛みつかれるように口付けられる。とはいえもはや丶蔵にとってキスされるのは日常茶飯事だ。素直に受け入れて唇を開くどころか、機嫌が良いのもあって丶蔵は自分から竜三の首に腕を回して抱きついた。背中がきつく抱き締められ、尻がぐいと掴まれて持ち上げられる。
「んん、ふ」
難なく抱き上げられるのは悔しいがもう諦めた。いくら軽いとは言えおっさんなんだから止めてくれと抗議しても聞きやしないのだから仕方ない。浮いた両足も竜三の体に巻きつけてしがみつく。よろけることもなく受け止められ、竜三の舌に咥内を舐め回される。心地好さにふうと鼻から吐息を漏らすと、存外あっさりと唇が離された。
「丶蔵」
「ん?」
何となく物足りない気がして自分から竜三の唇を啄む。何せ丶蔵は機嫌が良かったのだ。だから、竜三の雰囲気が変わったことに気づくのが遅れてしまった。
「あんた飲んできたな?」
「へ」
気づいたときにはもう遅かった。抱き上げられた体がごまかしようもなくびくりと強張る。至近距離で止まった唇にがぶりと噛みつかれた。唇を離した竜三がにっこりと笑う。うわ怖い。
「酒の味がすんぞ」
「あ」
しまった。何度かやってバレなかったからすっかり油断していた。背中にいやな汗が流れる。竜三は固まった丶蔵を抱えたままくるりと向きを変えて歩き出した。
「いやあの、下ろして?」
「逃げる気だろ、だめ」
すげなく却下された上に暴れたら落とすぞ、と脅されて大人しく運ばれていったリビングでは仁がふたりを待っていた。
「おかえり丶蔵」
にこにこと微笑んでいる目が笑ってない仁は竜三以上にこわい。思わず顔をひきつらせて竜三にしがみついたが、苦笑する竜三にあっさりと引き剥がされて仁の向かいに座らされた。すがり付いた手もぺしりと払われ、竜三は丶蔵を置いてさっさと仁の隣に腰を下ろした。
「丶蔵」
「はいっ」
ぴっと背筋を伸ばして答える丶蔵の前に差し出されたのは一枚の紙とペンだった。
「ここまでしなくても良いと思ってたんだけどね」
「おれたちが甘かった」
残念だと嘯く仁に竜三もため息を吐きながら頷く。恐る恐る目を向けた紙の上には、でかでかと堅苦しい文字が踊っていた。
「誓約書…?」
「そ。丶蔵がまた飲んで帰ってきたら、ここに書いてある通りにしてもらうから」
「まあ、あんたが飲まなきゃ良いだけなんだがな」
仁がそう宣言して微笑む横で、竜三がふんと鼻で笑う。
A4の紙はびっしりと黒い文字で埋められていたが、誓約書と大きく書いてある以外は字が小さくて全く読めない。おまけにとても眼鏡を出せる状況じゃない。ごくりと息を呑んでみみずののたくっている紙を睨んでいると、仁の手が下の方にある署名欄らしき箇所をとんとんと指で叩いて示した。
「ここ、サインして」
まさか断らないよな、という圧をひしひしと感じる仁の笑顔に慌てて頷き、丶蔵は内容もわからないまま素直にペンを取った。書き終わった途端、仁がさっさと紙を奪い取る。
「はい。じゃ、次飲んだら覚悟してね」
飽くまで笑っている仁がおそろしく怖い。今更だが何を書いてあったのか気になるが怖くて聞けない。飲まなきゃ良いだけだと分かっていたが守れる自信が自分でも今一つ心許なく、情けなく呻くようにふたりに告げる。
「もう飲まない」
「楽しみだな」
どうせすぐだろ、とにやつく竜三の態度に反論できずため息を吐くと、すかさず襟首を掴まれて引き寄せられまた唇を塞がれた。
「わっ、ちょっ、ま、待てって!」
「待たねえよ」
往生際悪く喚いて抵抗する丶蔵の体を竜三がぽいっとベッドの上に放り出す。ぎゃっと声を上げた丶蔵は仰向けにひっくり返され、あっという間に服を脱がされていた。
「諦めなよ丶蔵」
くすくすと笑いながら三脚を立てる仁を見て、竜三に下着を引っこ抜かれた丶蔵が目を丸くする。
「いや、仁なんだそれ」
「これ? カメラ」
三脚に載せたカメラをしっかりと丶蔵の方へ向けた。伯父さんにもらったビデオカメラがようやく役に立つ。
「何でカメラ!?」
あっさりと裸に剥かれた丶蔵がシーツの上でずりずりと体を後ろへと退きながらカメラを指差して叫ぶ。
「もちろんハメ撮りするから」
「は?」
「だって丶蔵サインしたでしょ」
「へ?」
「誓約書」
「え?」
ぽかんと口を開けて動きを止めた丶蔵に思わず竜三と顔を見合わせて苦笑する。
「読まずにサインするからだよ」
「いやだって読めなかったし」
そのために小さな字にしたが、本当に読めなかったらしい。念のために持ってきた丶蔵のサイン入りの誓約書をポケットから取り出して広げて見せる。
「今から読む?」
「だから読めな、あっ、めがね取ってくる」
「お、眼鏡したままするのも良いな」
これ幸いと逃げ出そうとしてベッドから足を下ろした丶蔵がぼそりと呟いた竜三の声にぴたりとまた動きを止めた。
「う、や、やっぱりいい」
「そうか、じゃ早速始めるか」
ぎくしゃくと振り向いた丶蔵が竜三に引っ張られて悲鳴を上げてシーツの上にひっくり返る。竜三は構わず丶蔵の首許に顔を伏せてすんすんと鼻を鳴らした。
「ひっ嗅ぐなっ、せ、せめて風呂っ」
わあわあと喚いて暴れる丶蔵から顔を上げ、竜三が「あ」と呟いた。
「そうだ風呂」
「だね。洗ってあげなきゃ」
誓約書を確認し、仁も頷く。そこにはしっかりとふたりが丶蔵を洗うことまで書いてあった。もちろん、体の至るところを、だ。
「ぅわあっ」
一瞬ほっと息を吐いた丶蔵がまたひょいと竜三の肩に抱え上げられて悲鳴を上げる。
「なっ、何!?」
「何って風呂だろ」
「丶蔵、しっかり洗ってあげるからね」
ふふ、と笑いながら竜三に担がれた丶蔵の頭を撫でると、嘘、と呟いた丶蔵が涙目で仁を見ていた。