光のお隣さん/第三話 雨は昼過ぎまでという天気予報はぴたりと当たり、店に到着する頃には、傘は要らなくなっていた。つまり通勤時間の終わりを計ったみたいに止まれた訳で、その点について若干もんにゃりするような気持ちもないではないが、雨が上がったこと自体は、素直にありがたいと思う。呑み屋というのは晴天か土砂降りの下でこそ儲かる。月並みな雨は客足を家へと急がせてしまうばかりだ。
疎らに落ちる雫を避けて、軒下で傘を畳み終えると、ポケットから鍵を取り出し、がらがらとシャッターを上げていく。自分を含めた何者もいない、真っ暗でしんとした店内は、いつも一瞬、見たこともないような場所として、目に映る。灯りと賑わいの有無だけで、こうまでも変わるものなのかと。いわゆる接客業を選んだ自分は、たまに思うのだ。こうまでも変わるものだから、この職を選んだのだろうな、と。
ちりん、と涼しげな音がした。左を見ると、花屋のドアから、店主が半身を出している。ガーデングローブを抜かれた右の掌が空に向けられて、緩やかに雲の密度を散らす、空の模様を確かめていた。
「サンクレッドさん」
声を掛けると、白い横顔がこちらを向いた。シャッターを上げる音でいるのは向こうも察していたのだろう、琥珀の目はすぐに細められて、見慣れた微笑を形作る。
「こんにちは」
「どうも。先日は、ご来店ありがとうございました」
「こちらこそ、ありがとうございました。おまけまでしていただいて」
「お口に合いましたか」
「とても。リーンも、ああ見えて、魚が好きなもので。大喜びでした」
「それはよかった」
どうせ捨ててしまう部分だからと、二人の卓には、鯛のかしらを煮付けて、こっそり出したのだ。サンクレッドはともかくとして、濁った目玉のぎょろつく皿は、若いリーンにはあまりウケないだろうとなんとなく思っていたから、これは嬉しい誤算だった。
「本当に、全部、美味しかったです。リーンからも、また行こうまた行こうとねだられてまして。近く、お邪魔するかと思います」
「大歓迎ですよ。お待ちしてます」
身も蓋もない話をすれば、酒を飲めない年齢のリーンと、娘との食事では酒を控えている様子のサンクレッドは、呑み屋にとってありがたい客であるとはとても言えない。呑み屋は呑み屋というだけあって、ほとんどを酒で稼いでいる。料理ばかりを食べられていては、下手すると、赤字にもなりかねない。
だが、それ以前、気持ちのところで、この親子には気兼ねなく来店してほしいと思う。隣人だから仲良くやりたいという思惑も当然ある。しかし同時に、こっそり見させてもらった二人の食べっぷりが、料理を供する者として、嬉しいものだったことも事実だ。リーンは若い女子らしく、スマホで写真を撮ってからぱくぱくと平らげてくれていたし、サンクレッドはいつもの穏やかな微笑で箸を運んでいたが、それを口に入れた瞬間に、おっと、これは、みたいな顔をするタイミングが何度かあった。
美味いものは、人を緩ませる。自分自身が何度となく、馬鹿みたいに緩んできたからこそ、その緩みの真贋は、ある程度はわかるつもりだ。偶然か、はたまた巡り合わせか、お隣さんとなった親子。この二人が緩むところを、もっと見たいと、自然に思う。それを許容するだけの稼ぎも、現状、確保できている。
変わらぬ柔らかな微笑みを浮かべるサンクレッドには、社交辞令として聞こえたか。そうだとしても、構わない。リーンがまた来たがっている、という言葉は事実のはずだ。娘に弱い男親のこと、折れるのは間違いないだろう。
並んだ庇から滴り落ちる雫もずいぶん少なくなった。互いに軽く礼をして、それぞれの扉に手を掛ける。と、そこで不意に思い出した疑問を、彼に投げかけた。
「そういや、前から思ってたんですが、あそこにあるお店の名前」
ベージュグレーの庇を滑る、やや細めの筆致を指す。
「手書きですよね。サンクレッドさんが?」
「いえ。私の師によるものです」
し。ああ、師か。先生か。
「もとは師がやっていた店なんです。それが、四年前に、亡くなりまして。ご子息は教職に就いていらして、お孫さんたちはまだ幼い。畳むしかないか、という話になっていたので、私が引き取ったんです」
そうだったのか。てっきりサンクレッド自身がひらいた店と思っていた。
「引き取った、というのは嘘かな。ふらふらしていた私が巧く滑り込んだ、というのが正しい」
語る口調は、ほんの僅かだが、自嘲の響きを含んでいる。
「ですから、己の腕一本でお店を構えて経営されている、貴方を本当に尊敬します」
いくぶん下から投げかけられる視線は、少し、くすぐったい。
「ありがとうございます」
「私の方は、もとより道楽でやっていた店だから、潰しても一向に構わないと、ご子息からは言われてるんですが。だからこそ、なのかもしれません。肩の力を抜いてやっていたら、なんとか回るようにはなって」
「ご謙遜を」
「事実ですよ」
「お店を閉めたあとも、遅くまで、残っておいでじゃないですか。何のかまではわかりませんが、勉強してらっしゃるんでしょ?」
きょとん、と音がしそうなくらいに、琥珀の目が丸まった。微笑がデフォルトではあるが、決して表情変化に乏しい男ではないのだと、最近、気付いたところだ。
「お客さんの見送りに出るとき、いつも思ってるんですよ。ああ、サンクレッドさん、今夜も頑張ってるんだな、って」
「それ、は──」
珍しく言葉に詰まる。伏せがちになった睫毛の下で、視線を彷徨わせている様子が、奇妙に微笑ましかった。
「なんだか……少し、気恥ずかしいな。ですが、ありがとうございます」
案外、かわいいところがあるな、と。
思いはしても、口に出さない程度には、色々と弁えている。お互い、いい歳をした男なのだ。これを伝えて喜ばれる可能性は、限りなく低い。
「ああ。それと、そちらさえよければですが、タメ口で話しませんか」
再び丸くなる目。ころころと変わる表情は、降らせるものは降らせたとばかり、雲の過ぎ去る空にも似ている。
「見たとこ同じくらいの歳だし、もう、お隣さんなんだ。というのは建前で、単に、俺が楽ってだけですが」
商売柄、人並みに、言葉遣いは学んだつもりだ。タメ口の方が楽だというのは嘘偽りない事実だが、敬語を遣うことがつらいという訳では、特にない。それを削ぎ落とすタイミングも、直感的に、計っている。
正直なところを言うならば、彼との間では、まだ少し、早いのではないかと思う。それでも、一歩を詰めたかった。理由はいまいちはっきりしないが。敢えて言うなら、先ほどの、不意を突かれて、照れた顔。あれを見て、今ならいけると思い、同時に、ちょっとした欲も出たのだ。
新たな表情が見てみたい。最良のお隣さんであり、申し分のない花屋であり、娘と良好な関係を築いているらしい父親の、微笑以外の表情を。垣間見せてもすぐに微笑へと戻してしまう別の顔を、もう少し、見せておいてほしい。それには、お隣さんより少し、友人に近付いた方がいい。
「……じゃあ、そうさせてもらおうか」
不思議なもので、飾りを落とした声は、いつもより鋭く聞こえる。表情までも、二割増し、男前が引き立って見えた。言ってよかったなと思う。こちらの方が、断然、好い。
「私にも、さん付けは要らない」
「わかった。よろしくな、サンクレッド」
「ああ」
ええ、ではなく、ああ、と応じた。やはりたいそうな男前だ。
目配せに近い礼を交わして、今度こそ、互いの店に戻る。磨りガラスの向こうの彼は、今、どんな顔をしているのだろう。これまでであればその表情は、柔らかな微笑一択だったが。
覗いて見たい衝動を制して、引き戸をひらき、照明を点けた。その瞬間に、真っ暗な部屋は、たちまち仕事場に変化する。開店前の景気付けとして、ぱん、と両頬を手で打った。
浮かれている。こういうときは、慎重な味見が必要だ。料理人の機嫌など、お客さまには関係のないこと。変わらぬ、あるいは変わるなら、昨日より美味い料理を出す。それこそが己の仕事であり、ここは、そのための場所なのだ。