後輩と秋の空「ええ加減機嫌直さんかい」
ぽすり。大して力の入っていないチョップが落ちてきた。それを頭で受けとめた俺は、じとりと水上先輩を横目で見る。先輩は薄くため息をつきながら、きゅっと眉根をひそめて片眉が上がった。絵に描いたような呆れ顔である。
それに抗議するように頬を膨らませると、ふっと口の端だけで笑われた。解せん。
苦し紛れに寮への道を行く足を速めても、意に介した様子もない。苛立ちというほどではないが、行き場のないもやもやを持て余しているのだ。
「だって、元々俺が教えてもらう予定やったのに……」
情けない声を出している自覚はあるが、それでも不満はたらたらと口をつく。
近頃はすっかり日も短くなって、少し下校時間が遅れればあっという間に夜になってしまう。そんな中を本部帰りでもないのに先輩と帰っているのは、放課後に残って勉強を見てもらっていたからだ。今日は九月二十八日の金曜日で、あと二日で隠岐の誕生日になる。日曜日がだからと、クラスメイトには随分構ってもらった。そのついでにと当日防衛任務で会うはずの――なんなら土曜日は先輩の部屋に泊まる約束をしている――先輩にもねだってみたところ、思わぬ了承をもらったのである。色々皆にちやほやされたせいか、珍しく衆人環視の場で先輩に甘やかされたせいか、つい欲をかいた。俺は何も考えずに、中間テストの勉強教えてもらいたいなあ、と言ってしまったのである。
その途端あれよあれよといううちに、二年の成績がやばいやつらに見つかってしまった。先輩はそりゃ頭がいい。その上面倒くさがりはするものの、教え方もこれまた上手いのだ。いつもその恩恵を受けているからこそよく知っている。けれど米屋を筆頭に頼まれた時にてっきり断ると思っていたのだが、俺の想像とは反対に先輩はあっさり引き受けてしまった。
流石に先輩だけが教え役とはならなかったものの、その内に国近先輩や当真先輩までどこからともなく現れて教えを乞うていた。そうなるとどうなるかというと、当然発端の俺は放置である。他の面々に教えたり教えてもらったりはしたものの、俺が先輩にお願いしたのにと内心腐っていた。
結局そのまま解散になり、表面上は穏やかに皆と別れた俺は先輩だけになった今こうしてごねているわけである。
「別に、お前にはいつも教えてやっとるやろ」
「それはいつも有難い思てますけど……。でも今日はちゃうやないですか」
暗に誕生日なのにという目を向けても、先輩は知らん顔だ。
「そもそもまだ誕生日ちゃうやんけ」
「そうなんですけど」
それでも先輩を独り占めしたかった、と言えていたら苦労しない。一応付き合ってはいるものの、素直に寂しいと言えるほどの勇気は持っていなかった。
「あーもう、いつまで愚図っとんねん」
焦れたように先輩が頭を掻き、細められた目が一瞬こちらを捉えてすぐにどこかへと視線が逸らされる。
窘められてひとまず口はつぐんだものの、不満を完全に払拭できたわけではなく、少し足が重い。別に俺だって好きで愚図っているわけではないし、帰ってもこの空気なのは流石に嫌だ。でもそれはそれとして、とぐるぐるまとまらない思考を抱えていると、いつの間にかわずかに先を歩く先輩がぽそりとこちらを見ないままに何かを告げる。
「コンビニでなんか買うたるから、とりあえず拗ねんのやめたら?」
つい足を止めてまじまじと背中を見つめていると、足音で気付いたのかバツが悪そうに先輩が振り返った。言い方には少しトゲがあるものの、困ったように眉尻を下げる先輩にようやくもやもやが飲み下せたような気がする。
「おでん、食べたいです」
ぐう、と小さく腹が鳴って、それを擦った。食べたいものを素直に口にすると、お前なあ、と先輩が口を開く。
「流石にまだ売ってへんやろ」
それは俺も知っていた。家の最寄りにコンビニなんかあったら、そりゃ日を置かずに行くに決まっている。食べたいものと咄嗟に思い浮かんだのがそれだったというだけで、別に先輩がこちらの機嫌を取ろうと言ったことならなんだっていいのだ。
「じゃあアイスでも買うてもらおかな」
「極端か?」
途端に弾む足取りは、ひどく正直だ。首を傾げる先輩の横に並ぶと、あー、と呻くような声が隣から聞こえてくる。
「……スーパーでも寄るか?」
おずおずといった口調で吐き出されたそれに、俺は思わず目を見開いた。逡巡したのだろう先輩が、露骨に目を逸らす。
「……ええんです? この前帰り道からちょっと遠回りになるから、あっこのスーパー使いにくい言うとったやないですか」
珍しく覚えていた数ヵ月前の愚痴を反芻すると、先輩の顔が見事な渋面になった。
「ほんま余計なことばっか覚えとるなお前は」
早口で捲し立てられるように先輩が毒づく。
「そんなん言うたって、覚えとるもんはしゃあないやないですか」
俺がぶつぶつと文句を言うと、はあ、と本日何度目かの先輩のため息が重なった。
「当日はどうせ任務終わりに隊でなんかするやろうし、今はおでんで勘弁してくれませんかねえ」
慇懃無礼な敬語が吐き出され、俺は目を見開く。その上、帰ったら構ったるから、と続けば尚更だ。しょうがないというていで差し出された甘さに、単純な俺は抵抗する術は持っていない。
「しゃあないなあ」
動揺から上擦った声も、きっと見抜かれているだろう。その証拠に、調子に乗るなと言うように脇を肘で小突かれる。でも俺はその耳が街灯に照らされて、少し赤いのを知っていた。その倍の熱をこちらも抱えている。だからなんだって構わないと、ふふっとこぼした息が帰り路に落ちた。