嗚呼、俺の最高の人生! がん、と頭を衝撃が揺らした。
水中にいるようだった意識が、急に現実へと引き戻される。遠い喧騒が、膜を剝がすように一歩、近付いた。
緩慢な仕草で机から顔を上げると、しかめ面の教師が当真を見下ろしている。
「せんせー、おはよ」
「おはようじゃない」
出席簿が、もう一度脳天に飛来した。
「いって」
それをリーゼントで受け止めて、頭を擦りながら乱れた髪を直す。
「もうホームルーム終わってるんだぞ。いつから寝てたんだ」
その言葉に、薄ぼんやりとした記憶を辿った。
「さあ、昼飯食った辺りから覚えてねーな」
教師は、呆れたという態度を隠さずに、ため息交じりに眉間を押す。
「お前な、来年は受験なんだぞ。中卒で働くわけでもないんだろ」
「んー、あんまり考えてねえ」
働くのは面倒だろうな、という感想しか今の当真には浮かばない。固まった体を解すべく伸びをすると、教師の視線が突き刺さる。
「夏休み前の今なら、まだ取り返しつくぞ。勉強なら付き合ってやるから、せめて授業くらいちゃんと受けろ」
ううん、と曖昧な返事をした当真を置いて、教師は教室を出て行った。
世間一般で言えば、良い教師というやつなのだろう。一学期から寝てばかり、目も当てられない成績の当真を気にかけている。
「……俺がおかしーんだろうなぁ」
散々に言われている忠告も善意から来るものだ。それを分かっていて当真は、そのどれも耳を貸す気はなかった。
各々部活やら色々なものへと取り組むためにいなくなったのか、既に教室はもぬけの殻である。
起き抜けの気だるさからか、すぐに帰る気にもならず、当真は机の上に寝そべった。
先程から聞こえる窓際の喧騒は、運動部だろうか。
よく熱心にやっていると思う。馬鹿にするような気持ちは欠片もないが、やりたいことも当真には分からない。
何となくで生きてきて、小学校からの持ち上がりでここまできた。親も成績に関しては不干渉だが、勿論完全に放置されているわけではない。
誰かが言うような、やりたいこと、将来、自分がどうやって生きていくのかなど、想像もつかなかった。
ただ、平坦な毎日。息苦しいほどの退屈を、毎日胃が満杯になるまで詰め込まれている。
窓の外、きらきらと注ぐ太陽が、教室に色濃い影を作った。その中に、当真はいる。
この日々が苦痛になった時、呼吸さえやめてしまいたいと思うのだろうか。段々と近付いてくる夏が、たらりと当真の額に汗を這わせる。
「まあ、考えても仕方ねえか」
そもそも、頭を使うのは苦手だ。重たい腰を上げ、ろくに教科書やノートの入っていない鞄を肩に引っかけて、廊下へと足を向ける。
それから数か月もしない折だった。異世界からの侵略者が、この三門市に現れたのは。
*
「ボーダーだっけ、あんたも試しに行ってみたら?」
高校一年の冬。惰性で、家から近い高校に進学。よく見てはいないが、学年では下から数えたほうが早い成績だったらしい。
だが、別段それで当真が変わることはなく、中学と変わらず授業中は眠っているか景色を眺めて過ごし、余暇を自由に使って生きていた当真に向けられたのが、先の一言だった。
それを当真に投げつけた姉といえば、風呂上がりのスキンケアの真っ最中である。パックの貼られた白い顔で、ボーダーの活躍を流すニュースをぼんやりと見ながら言い放った。
当真の返事は別に求めていないのだろう。姉の意識は、すぐにニュース明けのバラエティー番組へと移っていく。他愛のない独り言なのだろう、よくあることだ。
ただ、当真は首を捻る。中々どうして、悪くない提案に思えたのだ。
「確かに、悪くはねーかも」
命の危険はないと、ボーダーは繰り返し謳っている。格別生死に執着があるわけではないが、それならきっと親も反対しないだろう。
「え、まじで行くの?」
何拍か置いて、当真の言葉を受け取った姉がぎょっと顔を上げる。
「んー、まあとりあえずな」
当真は重い腰を上げて、自身の部屋へと引っ込むことにした。片手の携帯には、ボーダーのホームページが表示されている。
翌日、当真はボーダーへと連絡を取ったのだった。
くあ、と当真の口から、早速欠伸がこぼれ落ちる。
どういうわけか当真はボーダーの入隊式の場に立っていた。筆記試験があると聞いた時は落ちたな、と確信したのだが、何の因果か当真でも受かることのできる内容だったらしい。
結構な人数が並んでいて、まるで学校の集会のようだと漠然と思う。お偉いさんの挨拶が終わって、次はボーダー隊員たちによる説明が始まった。
話半分に聞いた感じ、武器にはいくつか種類があり、そのどれを志望するかによって分かれ、また細かく説明を行うらしい。
入隊式までに武器に触れる期間もあったようだが、当然当真は参加していない。どうしたものかと、頭を回す。
トリオン体で身体能力が上がるとはいえ、接近戦をできるほど体力に自信がある訳でもない。銃手や射手も悪くはないが、細かいことを考えながら戦うのは難しいだろう。もっと単純で、分かりやすいものがいいのだが。
当真が唸っていると、もうそれぞれの武器に分かれ始めるようで、隊員たちの列が各々動き出した。自分と同じように迷っている者もいるようだが、そう長く悩んでいられない。
「スナイパーやりたい人は、こっちにどうぞー!」
まだ中学生らしい少年がひらひらと手を振っていた。当真もテレビで見たことがある、確か嵐山隊の誰かだったような気がする。
スナイパー、狙撃手。何と説明されていたのだったか。思い出せないものの他に選択肢があるわけでもない。ひとまずは行くだけ行ってみようと、その嵐山隊が率いる列へと加わった。
ちらりと横目で他のポジションを見やるが、明らかに狙撃手の倍はいそうである。まあ確かにそうか、と納得をした。
狙撃手は専用の狙撃場があるらしく、今回はそこで実際に練習をしながら説明をするらしい。定期的に狙撃手で集まって訓練を行っているらしく、少々面倒だなと息を吐いた。
軽快に繰り返される説明を、右から左へと聞き流しながら無機質な通路を歩く。
「確か同じ学年だったろ、俺たちは」
「うおっ、なんだよいきなり」
ふいに、ずいっと横から声をかけられた。見れば言う通り同年代くらいなのだろう、がたいのいいやつが隣に並ぶ。
「いなかったんだ、タメっぽいのが」
そいつの言う通り、確かに元々志望人数の少ない狙撃手だ。同年代はいるにはいるがグループで固まっているし、後は中学生らしいのがちらほらいるくらいである。
「あー、そうだな。でもごめんな、お前のこと覚えてねーかも」
癖なのか、こんな妙な話し方をするやつがいたら一発で覚えているはずだ。元々人の顔を覚えるのは興味がないから得意ではない。単純に接点がなかったのだろう。
「気にするな。違うからな、クラスが」
穂刈、と名乗られ、当真だと返す。軽く雑談で時間を潰していると、やがて狙撃場に着いた。
「じゃあ、早速説明していくからそれぞれブースに入ってくれ」
施設の簡単な紹介をされた後、射撃ブースに入るように促される。先程の嵐山隊の中学生と代わって、今度は大学生が手際良く指示を出していた。