恐ろしいこと 無機質な白い部屋。
「おー、まじかこれ」
暢気な声が隣から響く。黙殺。
格子状のタイルで囲まれた部屋。扉一つしかない空間に、奈良坂と当真は立っていた。
「……これが、あのトリガーバグなのか?」
頭痛を堪えながら奈良坂がそう絞り出すように言うと、当真はけらけらと笑う。
「だろうなぁ。トラップの暴発って触れ込みだったが、開発室でふざけて作ったやつなんだってさ」
嫌な補足情報は恐らく当真の隊長からだろう。奈良坂は重いため息を吐き出した。
一週間ほど前だったか、隊員にトリオン体のバグと使用上の注意が勧告された。内容は、トリガー起動時にトリオン体がボーダー内の仮想空間に飛ばされてしまうというものである。
安全上は問題はないが、戦闘用トリガーを使用することができず、破壊も不可。通信も外部からの接触を待つしかなく、トリオン切れを待つのみ、という代物だ。
ただ一つ、扉に記された指令。それをクリアすれば簡単に出ることができると、注意事項には書かれていた。
当真の言い草から考えて、元は近界民の尋問用のものを改良または改悪したのだろうな、と現実逃避をする。
「まあ、このままここにいるわけにもいかねえだろ」
珍しくまともなことを言う当真に、視線を向けた。くあ、と伸びをした当真は、普段の様子と少しも変わらない。
「……あんたに言われるとはな」
「どういう意味だよ」
にやりと当真が口角を上げる。ふんとそこから目を外し、奈良坂は扉へと向き直った。
見たところ、指令のようなものは書かれていない。奈良坂の眉間に皺が刻まれる。
「とりあえず出られるか試してみようぜ」
当真がおもむろに扉へと手を伸ばした。危険がないとはいえ不用意だと制止しようとするが、それより前に扉がふっと変化する。
「ああ? なんだこれ」
最初に声をあげたのは当真だった。奈良坂は黙ったまま、否何と言っていいのか分からないが正しい。扉に刻まれた文字列を見つめていた。
『相手に言いたくないことを一つ言う』
「ヤんないと出られない部屋じゃねえんだ?」
「……当真さん」
諫めるように睨むと、ふっと当真が笑み崩す。
「それだったら早かっただろ」
簡単に言ってのけるさまに、頭痛が酷くなったような錯覚がした。
「こんなところでできるか。それに、こっちの方が時間はかからない」
「へえ。じゃあお前なんか思いつくの?」
その言葉に従って思考を巡らせる。しばしの逡巡の後、奈良坂は緩慢に口を開いた。
「あんたのことは、スナイパーとして尊敬はしている」
一抹の居た堪れなさと共に口にすると、わざとらしく当真がひゅうと口笛を吹く。当然だろう、という顔が憎らしい。
ブブーッ。
「……はあ?」
静かな部屋に響く、間の抜けた音につい剣呑な声が出た。
「っ、くく、駄目だってさ」
くつくつと笑う当真に歯噛みし、再び回答を絞り出す。
「べたべたと他人にくっつくの、やめてくれ」
ブブーッ。
「……あんたの顔が好きだ」
ブブーッ。
「……顔だけじゃない」
ブブーッ。
結果として奈良坂は頭を抱えることとなり、当真はけらけらと腹を抱えて笑うことになった。
結局一度も正解を導き出せていない。そもそも何を基準に正解を選んでいるのか、自分のことなのだから自分が知らないはずがない、など様々な葛藤が脳内を駆け巡る。
奈良坂が扉と格闘している間、当真は一つも回答していない。
「あんたは何かないのか」
万策尽きたとばかりに、当真を睨むと珍しくその視線が逸らされる。それに違和感を感じる間もなく、ぱかりとその口が開いた。
「お前は、生きてるうちにゃ俺には勝てねーよ」
似つかわしくない、淡々とした声色。それに滲む感情を、上手く取り切れない。
ピンポン、と小気味よい音が部屋に落ちる。部屋の空気から、乖離したように空々しく響いた。
珍しく、当真の表情に笑みは薄い。
「俺だって、自分の実力は理解している。それに分別も多少はある」
当真の言っていることなんて、それこそ今更だ。だからこそ、その当真の躊躇は、払拭しなければならない。
「それでも、俺が諦められると思うか?」
挑むように当真を見据えると、当真が顔を上げる。奈良坂を見つめるその目が、一瞬だけ幼げに見開かれた。
そして、その表情が分かりやすく綻ぶ。ふっと当真は眉尻を下げ、口元を緩めた。変遷に、浮きたつ心があった。
「そうかよ。……なあ、お前は?」
いつもの調子を取り戻したのか、当真が奈良坂に投げかける。
「気分いーから、なんでも聞き流してやるよ」
鷹揚なようで尊大に笑って、当真はひらひらと手を振った。
「俺は――」
そんな当真に促され、おずおずと奈良坂は視線を彷徨わせる。そしてゆっくりと手を伸ばした。
その、肩を掴む。
「あんたが遠征に行くたびに、言いようのない感情を抱く」
浅く、呼吸を繰り返した。当真はじっと奈良坂を見下ろしている。
「俺のいないところで死にはしないか、今が最後になりはしないか」
音は鳴らない。だから当真も、それを待っていた。当真の肩に込めた力が、奈良坂の意志とは関係なしに強くなる。
「いっそあんたが」
苦しげに、奈良坂は息を吐いた。溺れながら、それでも息をしようと藻掻くように、肩口の手を当真の首へと滑らせる。
凹凸のはっきりとした、生白い喉元。
「知らない誰かに殺されるくらいなら、俺が――」
続く言葉に、当真は口角を上げた。喉にかかる手は、圧迫感しか与えず苦しいだけだろう。それでもである。
ピンポン。二回目の音に次いで、無機質な扉が微かな電子音を立てて、ゆっくりと開いた。
はっと、手を離す。たらりと、背を冷たい汗が伝った。眩暈のような感覚に、息を呑む。すると、奈良坂の顔に影が下りた。
柔らかで、少しかさついた感触は、慣れ親しんでしまったそれである。はむ、と唇を食まれ、ちゅ、と甘やかな音を残してそれは離れていった。
「続きは後でな」
呆気に取られた奈良坂を残し、当真は踵を返す。それをぼんやりと目で追っていると、後ろ姿の当真が喉を軽く擦った。
そこに先程の奈良坂の無体の痕跡はない。力が入っていたとは思うものの、元より痕などつけるほど力はかけていなかった。
ただ、当真の指先の動きが、首元を這わせるような、添えられていた感触を確かめるような、そんな動きに見えてしまったのだ。
ぞくりと、身の内に沸き立つ欲を、自覚する。
受容されるということは、恐ろしいことだ。
際限のない欲に喉を焼かれる。奈良坂ははっと。当真を追いかけて部屋を出た。