泡沫 じっと青い瞳が、観察しているという様子を隠さずに、辺りを窺っている。一応自身の状況の説明はされていて、本人も納得しているとは聞いていた。それにしても、と二宮は思った。
立ち尽くした子供を目の前に、ずっとこのままでいさせるわけにもいかない。子供の目線の高さまでしゃがみ込む。それはボーダーの技術班から説明を受ける際、辻󠄀に耳打ちされたことだった。子供相手には――特に二宮のように身長差がある場合は――、まず怖がらせないように気を付ける必要があるらしい。自身の経験と照らし合わせようにも、咄嗟に出てくる思い出もなかった。そういうものかと頷いて、ひとまずはその言に従って動く、と返したのである。
目の前の子供はびくりと大袈裟に肩を跳ねさせて、まじまじと二宮へと視線を向けた。
「二宮だ。好きに呼べ」
ぞんざいに名乗ると、大きな目を瞬かせて小さな口が緩慢に開く。
「……にのみやさん?」
たどたどしい発音に、二宮が肯定するように頷く。すると逡巡したように、子供は口を一度閉じてまた開いた。
「すみはる、です」
心許なさそうに告げ、犬飼は浅く頭を下げる。礼儀はちゃんと躾けられているようで、らしいな、という感想を抱いた。
それ以上続ける話題を失い、つい視線が犬飼の顔に吸い寄せられる。ちゃんと聞いたことはなかったが、色素の薄い金髪と青い瞳は生まれつきのものであるらしい。二宮の視線に、犬飼がどこか居心地悪そうに目を伏せる。見過ぎたかと立ち上がろうとすると、その前に犬飼がおずおずと口を開いた。
「へん……?」
どこか不安そうで、その上短く区切られた言葉の意味を理解できず、つい沈黙を返す。それに気付いてかそうでないのか、犬飼がぽつぽつと再び声を漏らした。
「おれの色、へん?」
色、という言葉で、それが目と髪のことを言っているのだと気付く。犬飼からしたら、変わった色だから見ていたのでは、と思ったらしい。
「違う。綺麗な色だと思って見ていた」
「きれい?」
ぱちぱちと瞬きを繰り返す目に、こぼれ落ちそうだなと馬鹿げた思考が掠める。
「おれ、かっこいいのがいい……」
くしゃりと顔を歪めた犬飼に、つい眉根を寄せた。子供と触れ合うことなど普段の二宮には皆無で、それが犬飼だと言われると尚更印象が一致しなくて戸惑うばかりである。
「別に、格好良くないとは言ってない」
「じゃあ、かっこいい?」
念を押すような言葉に、流石に否定を返そうとは思わない。
「……ああ。空の色だな」
何となしに言った二宮のそれに、犬飼の表情がぱっと華やいだ。
「そらっ!」
その変わりように思わず面食らうと、ほろりと犬飼が顔を綻ばせる。
「おれ、空すきだよ!」
その笑みに、ようやく二宮は見慣れている犬飼の面影を見た。
そもそもの発端は、時々噂に聞くトリオン体の異常に犬飼が巻き込まれたことにある。否、巻き込まれたというよりは飛び込んだというのが正解か。
先の第二次大規模侵攻で発生した、隊員のトリオンキューブ化。その対策として行われた研究の一環として、トリオン体の外殻を変質させ、表出する本人の性質をどこまで変化させることができるのかという実験をしたらしい。参加者を募った結果、好奇心の強い同学年で誘い合わせ、その中に犬飼もいたということのようだ。
結果、他の面子はそもそも外殻の変質も起こらなかったが、犬飼には変化が見られた。だが同時に計算外の不具合も発生し、外殻は幼少期の状態に変容し、それに伴って現在の記憶を失っている、という状態になった。一応、時間経過によるトリオン切れによって解除はされるらしく、後遺症等の懸念もクリアした上での実験だとは聞いている。だが、大事を取って隊長である二宮が、犬飼を監視する手筈となったのだ。
「じゃあ、犬飼先輩のことお願いします」
「何かあったら連絡してくださいね」
ぎこちない様子で、辻󠄀と氷見が隊室を出て行った。二宮は仁王立ちのまま、足元へと視線を落とす。腰ほどにある薄い金髪の頭が僅かに動いて、犬飼が二宮を見上げた。
「座ったらどうだ」
そのまま見上げているのは首が痛いだろうと、椅子に座るように促す。すると、はあい、と間延びした返事をして、犬飼は素直に椅子に腰かけた。
「にのみやさんは?」
犬飼が地面に付かない足を持て余したように、ぱたぱたと投げ出す。そして、二宮に問いかけた。
随分と懐かれましたね、とは先ほど出て行った辻󠄀の言である。二宮自身には到底理解できないが、何か二宮の行動なり何かがこの子供に引っかかったらしい。最初の警戒している様子からは、だいぶ気を抜いているように見えた。
今のところ大人しいとはいえ、目を離さない方がいいだろう。そう考えて、犬飼の隣の椅子を引いた。
「にのみやさん、空すき?」
犬飼はぼそぼそと、囁くような声で問う。内緒話のようなそれは、声を押さえるためか口の横に手を添えていた。
「好きでも嫌いでもない」
声量のせいか聞き取りづらく、犬飼の方へと体を傾ける。すると犬飼もそれに合わせて、背を伸ばすような仕草をした。
「そっかー。おれは、空すきだよ」
さっき聞いたな、と口に出しそうになり、慌てて噤む。辻󠄀の言葉を思い出しながら、思考を回転させた。
「……澄晴は、なんで空が好きなんだ」
犬飼、と普段のように呼びかけそうになり、一拍置く。舌馴染みのない名前は、案外自然と口にできた。二宮の問いに、ううんと犬飼は唸る。
「ひこうきがとんだとき、くもができるの。まっすぐなのが」
犬飼の短い腕が、頭上に伸び上がった。その指先が、弧を描くように天井をなぞる。
「だから、そこがすき」
にっ、と口角を上げた犬飼に、二宮は手を伸ばした。
「えっ、なに――」
「暴れるなよ」
脇に手を差し入れて、二宮の声で大人しくなった体を持ち上げる。その軽さに、内心驚いた。
「そこに座ってろ。声がよく聞こえない」
そう言って、犬飼を膝の上に座らせる。犬飼は目を瞠って、視線を自身と二宮の間を何度か往復させた。
静かになった犬飼を見下ろして、息をつく。慣れない、と端的に思った。子供にこうして接することも、普段と違う言葉の選び方をすることも、何もかもが。元々子供はさほど好きじゃない。それが常の二宮がここまでするかと言われれば、否である。そうさせる動機を、二宮自身が掴み切れていなかった。
茫洋としていた犬飼は、はっとしたように微かに頬を紅潮させる。
「にのみやさん、そういうのいやじゃないんだ」
二宮に、というより己が反芻するような言い回しに聞こえた。目的語のはっきりとしない言い方に、二宮は問う。
「何の話だ」
「大人は子どもきらいだって、上のねえちゃんがいってた。にのみやさんもいっしょなのかとおもったけど、そうじゃないの?」
図星をつかれたような心地に、浅く息を呑んだ。確かに、子供は好きじゃない。でもそれを面と向かって犬飼に言うのは、何故か躊躇われた。理由は、まだ判然としない。
「そうじゃないやつもいるだろ」
論点のずれた返答だと自嘲した。自分で言っておきながら、二宮はその解答の不明瞭さに思わず顔を歪める。だが犬飼は気にしていないように、その顔を覗き込んだ。
「じゃあ、にのみやさんは?」
大きな目に、影が落ちる。小さな手が二宮のシャツを掴んでいた。ずっとそうしていれば、生地が伸びるだろう。
「お前のことは嫌いじゃない」
今度は、自然と言葉がこぼれ落ちた。同時に二宮は理解する。きっとこれが全てだと思った。
犬飼がどんな姿になろうと、シャツを伸ばそうと、嫌いだとは欠片も思えず、傷つける可能性があるのなら、言葉を選ぶ。決して子供だからではない。そんな事実を、二宮はようやく理解して、飲み下した。
「ほんと?」
犬飼が喜色も露わに、ぎゅっと服を掴む手に力を込める。ああ、と頷くと、二宮にも分かるほど嬉しそうに口の端を緩めた。頬を紅潮させて、犬飼は再度二宮を呼ぶ。
隊室にはずっと二人しかいないのに、それでも誰かに聞かれることを厭うように、犬飼は二宮の耳に顔を寄せた。膝から犬飼がずり落ちないように腰を支えて、二宮もまた腰を曲げる。
「ね、にのみやさん。おれね、大きくなったらひこうきのパイロットになるの」
昔どこかで聞いたような話だった。確か、犬飼がパイロットで、辻󠄀が恐竜博士、氷見がケーキ屋で、鳩原が保育士だったか。
「……いいんじゃないか」
世間話の延長だった話の中で、今もその夢を目指していると言った者はいなかった。だけど、目の前の犬飼には、空を飛ぶ光景が見えているのだろう。
「そしたら、にのみやさんものせてあげるね」
やくそくだよ、内緒話は締め括られて、犬飼が二宮の指を握る。小さな手には指でさえ少し余るが、これで指切りのつもりなのだろう。それを軽く揺すってやると、嬉しそうに犬飼は笑った。
犬飼が話して、聞いて、それに二宮が答える。二宮からしたら何が楽しいのかと思える問答も、この年頃の子供がそうなのか犬飼が特殊なのか、終始楽しげにしていた。
「辻󠄀戻りまし、た……」
隊室のドアが空いて、そこからした声がぶつ切りのように不自然に響く。珍しく見開かれた辻󠄀の視線が、まじまじと二宮と犬飼を見つめていた。
「……それは、大丈夫なんですか?」
「何がだ」
先ほど買い与えた紙パックを、犬飼が両手で抱えている。頬が膨らむほどストローを吸うものだから、べこっと間の抜けた音がしてぶどうの文字がひしゃげた。二宮の膝から落ちないように、それを支えてやる。どさりと音がして、顔を上げると辻󠄀の鞄が肩から床に落ちていた。
「大丈夫か、辻󠄀」
「いえ、大丈夫です。二宮さんがいいんなら、いいんですけど」
何事もなかったように、辻󠄀は鞄を拾ってテーブルに置く。そして犬飼の方をちらりと見て、鞄からスマートフォンを取り出した。
「写真、撮ってもいいですか?」
唐突な申し出に、つい辻󠄀へと顔を向ける。本人はいたって真剣のようで、レンズ自体は向けられていないもののカメラアプリは起動されているようで、両手でスマートフォンを構えていた。
「……構わんが、ボーダーの外には出すなよ」
今日はもうそういう日なのかもしれないと、渋々と二宮が了承を出す。特に二宮自身は撮られることは気にしない。無論、相手にもよるが。
「はい、それは勿論。犬飼先輩に見せようかと思って」
「自分の顔なら、家にアルバムでも何でもあるだろ」
別に犬飼も、記憶があるならまだしも、ない時のものを見せられても困るだろう。そう思って言ったのだが、辻󠄀は予想に反して首を横に振る。
「……多分、びっくりすると思いますよ」
澄晴くんも撮ってもいいかな、と辻󠄀が尋ねると、犬飼は飲み終わってへこんだ紙パックをレンズから見えないように背中に隠す。
「かっこよくとってね」
そう言って犬飼は笑い、小さな手が拙いピースサインを作った。
「じゃあ撮りますね」
レンズが向けられ、シャッター音が続く。みせてみせて、とせがむ犬飼に、辻󠄀が慌ててスマートフォンをテーブルに置いた。犬飼が持っていた紙パックを引き受けて、ぼんやりとテーブルに乗り出す子供を眺める。
「なあに、にのみやさん」
視線に気付いたのか、犬飼が顔を上げた。どうやら写真の出来には満足したらしい。
「いや、何も」
小さい、と漠然と思った。形を確かめるように頭を撫ぜる。不思議そうに首を傾げる犬飼の顔が、殊更脳に焼き付いていた。