優しい引力 チャイムが鳴った。ぼんやりと文字を追っていた意識を、ふっと浮上させる。次いでスマートフォンが、メッセージが来たと水上を呼んだ。時間を確認するついでにテーブルに投げ出されていた液晶を覗くと、そこそこの数の通知が来ている。
時刻は、日付を回って丁度。律儀な連中だと一笑して、ひとまず立ち上がった。
足の裏が、廊下の冷たさを伝えてくる。十二月頭、もうすっかり冬だ。実家から持ってきた半纏が手放せなくて困る、と腕を擦る。再度、チャイムが急かすように鳴った。
こんな時間に水上の家まで来る相手なんて、大体一人しかいない。聞こえるように、ため息交じりにドアを開ける。
「こんばんは、ええ夜ですね」
ふにゃふにゃとした笑みを浮かべた隠岐が、部屋の前に立っていた。
「普通の人なら寝とる時間やけど」
水上が悪態をついても、どこ吹く風である。ふふ、と隠岐は口元を緩めた。
「でも起きとったやないですか」
「結果論やろ」
至極嬉しそうに笑う隠岐を、追い返す気は水上には欠片もなかった。隠岐がわざわざこんな時間に訪ねてきた理由も、随分とご機嫌な理由も、流石に察しがついている。
「まーまー、寒いからとりあえず入れてください」
ほう、と隠岐が白い息を吐いた。どうやら着の身着のままで来たのか、防寒具も薄手の上着を羽織ったくらいで、見るからに寒そうである。
「はあ、はよ入り」
そう言って水上が暖房の効いた部屋に取って返そうとすると、「水上先輩」と呼びかける声があった。それにつられて振り返ると、閉まったドアの前で隠岐が立ち尽くしている。寒いやろ何しとるん、と口を開こうとした。その時、隠岐が両手を不自然に背中に回していることに気付く。
「耳、塞いだ方がええと思いますよ」
呑気な声。がさり、とビニール袋特有の騒がしい音。鼻の頭を赤くした隠岐が、手に持っていたらしいカラフルな円錐形を水上に向ける。それを認識した瞬間、水上は隠岐の言葉のまま咄嗟に両耳を手で覆った。
パァンッ、と破裂音が鳴り、色とりどりの紙吹雪が、テープが、水上に降り注ぐ。耳を塞いでいても、きんと耳鳴りがして水上は顔を顰めた。薄らとした火薬の臭いが、鼻に纏わりつく。
「先輩。お誕生日、おめでとうございます」
「いや、お前、耳いった……」
水上の苦情に、たははと隠岐が笑った。真っ直ぐに水上に向けてクラッカーを撃ってきたせいで、髪にまでテープが引っかかってしまっている。勿論、床など言わずもがなの有様だ。
「またえらいカラフルになってもうて」
「誰のせいやと思うとるん?」
物の比較的少ない廊下で、わざわざ立ち止まった訳である。部屋でなんかやられてみろ、朝まで掃除する羽目になるところだった。配慮といえば配慮だろうが、そもそもしでかしたことのせいで何とも言い難い。
「ね、先輩」
ひとしきり髪に絡んだテープを取り除くと、隠岐が水上を呼んだ。後でまとめて片付けようとテープを放り、隠岐の方へ意識を向ける。すると、またビニール袋が揺れて、水上に向かって隠岐が両腕を伸ばした。一旦置くなりしたらいいのにという思考が、隠岐が抱きついてきたことによって霧散してしまう。背後でがさがさと物音がして、冷たい頬がひたりと水上の頬に触れた。
「生まれてきてくれて、ありがとうございます」
蜃気楼みたいに隠岐は囁く。水上が一瞬息を詰める間に、隠岐はそっと体を離した。
「……雑なんか熱烈なんか、どっちかにせえ」
腕を回し損ねたことを水上は自分の意識の外へとやり、鼻の頭を掻く。隠岐との関係に恋人というラベルを足して幾ばく、不意におとなう気配に水上はまだ慣れずにいた。
「えー、わりとちゃんと祝おうって気で来たんに」
そんな水上の様子は気にも留めず、ごそごそとビニール袋の中身を隠岐が探る。
「プレゼントとかケーキも買うてきたんですよ」
「それにしては結構雑に扱っとらんかった?」
へへへ、と水上の指摘をスルーして、隠岐は首をゆるりと横に傾けた。
「それとも何か欲しいものありました? 後からでも聞いたりますよぉ」
得意げに言う隠岐に、思わず呆れてしまう。誕生日自由形にも程があるんじゃないだろうか。
「そういうのって早めに聞いとくもんちゃう?」
「ええやないですか。よそはよそ、うちはうちですよ」
水上の思っていた誕生日のセオリーというものは、隠岐相手にはとことん通じないらしい。
「それか何かお願い? とかあったら聞きますし」
「んなもん急に言われても浮かばんわ」
それもそれでいいかと思ってしまうことに目を瞑って、水上は隠岐がいつまでもぶら下げているビニール袋を取り上げた。
「いつまでもそんなとこ突っ立っとると風邪引くで」
「はーい」
水上について隠岐をやっと部屋に入れる。紙テープは後で掃除機でもなんでもかければいいだろう。情緒の欠片もありはしないが、そんなものだ。
隠岐をこんこんと熱を発するストーブの前に座らせて、何か飲み物でも入れてやろうと台所に足を向ける。
「ねえ、先輩」
また蜃気楼が鼓膜を揺らした。
「先輩は、俺より長生きしてくださいね」
水上の足が止まる。実体のない冷たい手が、背筋をなぞった。
「生きて、俺のことたっくさん使ぉてくださいね」
背後を振り返る。そこには変わらず丸まって座る隠岐がいて、それに浅く息を吐いた。
「随分物騒やな」
一応俺誕生日やねんけど、と形ばかりの文句を垂れる。すんません、と隠岐が思っていないだろうに笑った。
「元々物騒なことのために俺らこの街来たんですし、そんなもんやないですか?」
隠岐は、状況にそぐわないだけで特に間違ったことは言っていない。スカウトという名の志願兵だな、と水上は自身を認識している。温かい飲み物を出してやろうなんて気持ちはどこへなりとも消え去って、水上は膝を丸める隠岐の目の前にしゃがみ込んだ。
隠岐は、少しきょとんとした顔で水上を少し見上げる。
「欲しいもん思いついた」
「おっ、なんです?」
一転、興味津々といった様子で目を輝かせた隠岐の眼前に、人差し指を突き付けた。
「お前」
端的に告げた水上に、隠岐が瞳を瞬かせる。長い睫毛が、部屋の安っぽい明かりを反射して光っているような錯覚をした。
数秒の沈黙。水上が隠岐から視線を外さないまま、手を下ろす。客観的に見ると、姿勢だけなら完全にガンをつけるヤンキーのようだ。隠岐が、薄ら頬を赤くしてそこに困惑を混ぜたような顔色で、おずおずと口を開く。
「……先輩こそ、えらい熱烈ですねえ?」
「そうやな」
冗談めかした口調のそれを肯定してやると、むっと一瞬隠岐が口を曲げた。
「で、来年のお前の誕生日になったら、お前に俺んことくれたるから」
あえて先のことを口にすると、隠岐が僅かに目を細める。
「一年も待たすんです?」
「おん」
「いつ死ぬかも分からんのに?」
「あんなぁ」
平坦な声を掻い潜って、隠岐の腕を掴んだ。ストーブに当たっていたからか、体温は温い。むしろよほど水上の方が冷たいくらいだった。
「俺のになるんやろ。勝手に死ぬとか許す訳ないやろ?」
「はは、こわぁ」
言葉尻を震わせて、隠岐がそう吐き出す。隠岐は口を噤んでしまったし、水上も水上で言いたいことは言ってしまった。手慰みのように掴んだ白い手首をゆらゆら揺さぶっていると、隠岐が水上の手をぎゅうと握りしめてくる。
隠岐は眉を下げて、困ったなあと噛みしめるように言った。
「先輩のこと、やっぱ好きやなあ」
途方にくれたように隠岐が言うものだから、ついつい水上もつられて余計なことを口にしてしまう。繋ぎ止めておきたくなってしまうのだ。
「俺も好きやで。やから、精々俺と生きてな」
おもむろに、肩に引っかかっていた紙テープを手繰り寄せる。それを隠岐の首にかけた。顎の下に垂れた切れ端同士を、片手でくるりとより合わせる。それをくいと一度引っ張った。引かれるままに隠岐が近付いて、そのまま口付ける。何度も交わした深いそれではなく、一瞬触れるだけのそれだ。
「んふふ、首輪付けられてしもうた」
耳も目の端も赤くして、嬉しいと言わんばかりに口元をだらしなく緩めて、隠岐がうっそりと微笑む。
「なんでそないな顔できるんお前」
そんな顔をさせたのは水上だが、それでもどうかと思ってしまう。客観的に見れば酷いことを言われているなど一目瞭然である。勿論、それは隠岐も同罪だが。
「俺が嫌がらんことくらい、よおく知っとるでしょ」
ぺらぺらの今にも千切れそうな首輪を、花でも愛でるみたいに隠岐がなぞる。
「そやけどなぁ」
隠岐の言い分を素直に認めるのは、いささかばつが悪い。この性根まで好かれていることを水上が享受していると、その事実を素直に呑み込めたら苦労はしないのだ。
隠岐は満足したのか、繋いだ手を離してテーブルに置かれたビニール袋に手を伸ばす。誕生日の人間よりも前にケーキにありつこうなんて、自由なものだ。
「その前に、どこかの誰かさんが散らかしたの片付けんといかんやろ」
小言混じりに隠岐を小突くと、ううっと唸るような声が返ってくる。
「サプライズなんに、なんでそんなこと言うん?」
渋る背中を廊下へと追い立て、寝床につくまでまだまだかかりそうだと水上は小さく笑った。