祈り、あるいは傲慢 ランク戦ルームの個室。その一画のドアが、無機質な音を立てて開く。一歩二歩と木虎が歩を進めれば、ベイルアウト用のベッドに倒れているのが視界に入った。
「もう今日はやめましょう、草壁さん」
そう言って木虎はベッドの傍らへと歩み寄る。先ほどまで何度も個人戦を繰り返した相手――草壁早紀は、ず、と鼻を啜った。掌で覆った顔は指の隙間からでも見て取れるほどに、目元は赤く腫れ、涙の跡がいくつも頬を這い、きっちりと結わえられていた二束の髪は見るも無惨で、奔放に乱れている。
強く結ばれた唇は、嗚咽を抑えきれていないのか、時折ひくひくと引きつった。それを見て木虎は浅く息を吐いて、草壁に背を向けるようにベッドの空いたスペースに腰を下ろす。そして持ってきていた自身の鞄を開いた。目的のものを求めて中を探ると、どん、と軽い衝撃が木虎の手を止める。
背に走ったそれに、首だけで木虎は振り返った。草壁の顔は見えない。だが、彼女の握りしめた拳が木虎の背を叩いたことは分かる。
その口がはくはく、と動いた。微かな声を拾い上げようと、少しだけ木虎は草壁に身を寄せる。また、草壁の口が動いた。
なんで、どうして、勝てないの。それは、溺れたような声だった。水の中、僅かばかりの空気を求めようにも口を開けば逆に口内の酸素がこぼれ落ちていくような、途方に暮れる声。
こくりと、知らず木虎の喉が鳴る。そして草壁から目を逸らすように目を伏せて、鞄からペットボトルとハンカチ、大振りの櫛を取り出した。
「とりあえず起きたらどう? あなたのことだから、その顔じゃ出られないでしょう」
口をつけていないペットボトルを傾け、ハンカチに水を含ませる。そして赤く腫れた草壁の目に当てるようにと、差し出した。おずおずと受けとられ、浅く息を吐く。
草壁の癇癪ーーと断じていいのか判断しかねるーーは、段々と悪化していた。
一日中、それこそ永遠に続くランク戦の再戦要請を断って少し。いつまで経ってもロビーに現れないものだから、木虎は草壁の元まで来たのだ。そう、いつものように。
身を起こした草壁は、ハンカチで目を押さえている。その眼から、またぽろりと、滴が落ちた。
「後ろ向いて頂戴。髪、直さないと」
ぬるま湯のような声をかけると、緩慢な仕草で草壁が背を見せる。丸まった背中は、時折ひくりと震えて、その度に嗚咽が続いた。木虎は、櫛を構える。
限界だと思った。
もうやめた方がいい。私とあなたを比べるのは無意味だ。あなたは銃手として十分優秀である。どうして私にこだわるの。こんなぼろぼろになるまで、どうしてそこまで。
息が詰まるような心地だった。
どの言葉も本心であるはずなのに、一つとして喉を通らない。
「どうしたら、いいの」
そんなの、木虎こそ一番に知りたかった。か細い声が、部屋に落ちる。
私こそどうすればいい。私は、あなたに何ができるの。反芻する度、木虎の脳は建設的な案を弾き出す。
全て気休めだ、何にもなりはしない。草壁に付き合うことも、きっと意味はない。無駄だ、生産性の欠片もない。こんなことをするくらいだったら、ランク戦の反省をしたり、基礎の練習を詰んだり、的に向かっていた方がまだましである。
時間は有限だ。痛いほどに木虎はそれを知っている。それでも、そんなことよりも、草壁の心を折ってしまうことの方が、木虎にはよほど恐ろしかった。
自分とは違う、少し長い髪を梳く。きっちりと左右に束を分けて、結わえる。震える手を、そうと悟られぬよう、壊れものを触るように。
ただお互い、水底で静かに息だけをしていた。