頑張り屋な君へ、愛情を「まだ主は帰らんのか?今日は遅いなぁ。」
「そうだねぇ…」
ふと目を上げれば時計は午後10時を指している。
いつもならとうに帰宅している時間だけど、今日はまだ姿を見せない主に大広間にいる者は皆落ち着かない様子だ
「ぬしさま、何かよからぬことに巻き込まれてなどいないでしょうね…」
小狐丸は朝整えてもらった髪を撫でながらそう呟く
「やっぱりおむかえにいきましょう!!」
いてもたってもいられないと今剣が立ち上がった瞬間、玄関の戸が開く音がかすかに聞こえた
「!!あるじさまですかね?!」
嬉しそうに駆けていく今剣を追い皆が玄関に急ぐ。その様子をお茶を飲みながら眺める三日月に声をかける
「三日月は行かないのかい?」
「はは、じじいは動くのに時間がかかるからなぁ。あの速さでは動けんよ」
俺も後で向かうということだろう。静かに襖を閉めて私も皆の後を追った
「あるじさま!おかえりなさ……どうしたんですか?」
元気に飛び出した今剣の顔が一瞬にして曇る。それもそうだろう。玄関に姿を見せた主は、朝元気に挨拶をして出ていった人と同一人物とは思えないほどに疲れきった顔をしていたから
「ぁ…ただ…いま、だいじょうぶ、だよ……ありがとね」
無理やり笑顔を浮かべて今剣を撫でる主。その様子がおかしいのは誰が見ても明らかだった
「う……あ、あの」
「おぉ!ようやく戻ったか、遅かったなぁ」
ははは、とその場に似つかわない朗らかな声を響かせ三日月が顔を出す
「みか、づき…ただい、ま」
まるで笑い方を忘れてしまったようにぎこちなく笑う主
「うむ、よくぞ戻ったな。…さぁ、俺達も部屋で休むとしよう」
さぁさぁと玄関に集まっていた三条の者を廊下の奥に押しやっていく三日月。私だけを残して
「三日月」
「今の主には、お前が必要だろう。なぁに、じじいのお節介というやつだ」
俺も休むか〜なんて呑気に部屋に戻っていく三日月を見送るように手を振る主。その瞳に光はなくどこか虚ろを見つめているようだった
「お疲れ様。荷物は私が運ぶよ、預かってもいいかな?」
「あ…うん、ありがと…石切丸」
靴を脱いで式台に上がろうとした主の体が前方に不自然に倒れる。急いで荷物を持っていない腕で抱き止めれば、彼女の視線は床を見つめたまま動かない。
「大丈夫かい主?!」
「……」
これは思ったよりまずいかもしれない。
「少し失礼するよ」
預かった鞄を腕にかけて主を横に抱き上げる。以前より軽く感じるその体は冷えきっていて、生気を感じられない顔は下を向いたまま。
「よく頑張ったね、このまま部屋まで行こうか」
静かな廊下を彼女を抱えたまま進む。床の軋む音がはっきり聞こえる。私と主以外のものはまるで居なくなってしまったかと思うくらいに、静寂に包まれている
「……さぁ、部屋に着いたよ。失礼するね」
襖を開ければいつもの主の部屋なのに、何故かとても無機質な部屋に思えた。近くの座椅子に主を座らせようとするが、主の体には力が入っていないのか私が手を離すとそのまま横に倒れそうになる。もう一度抱き抱えて執務用の背もたれ付きの椅子に座らせると、静かに背もたれに沈み込む
「少し待っていてね、今寝具を準備するよ」
近侍を多く経験しているので主の部屋のどこに布団が仕舞われているかは知っている。手際よく机を片付けて、布団を敷き終わるまで主から言葉が発せられることは無かった
「お待たせ、では布団に……っと、」
そういえば、主は帰ってきてそのままの状態だ。当然まだ夕餉も湯浴みも済んでいない。しかしこの時間にはきっと誰も厨には居ない……そう考えていると、少し低くて優しい声が外から聞こえてきた
「光忠だよ、入ってもいいかい?」
「あぁ、構わないよ」
ありがとう、と入ってきたのは内番着の燭台切。その手には小さなおにぎりとお椀が乗ったお盆がある
「主が帰ってきたと聞いてね。こんな時間だし、食べやすいものをと思って作ったんだけど……食べられそうかな?」
「主、食べられそうかい?」
そう問うと主は首を小さく縦に振る。玄関以来ようやく主が反応を示してくれたことに心底安堵した
「よかった!僕は片付けに戻るから、あとは頼んだよ」
頷く私と目線を交わし、火傷しないように気をつけて食べるんだよ?と主の頭を優しく撫でると燭台切は出ていった
「さぁ、ゆっくりお食べ」
主の前にお盆を寄せてあげればあまり力が入らないのか、お椀に伸ばした手が震えている。支えるために手を重ねれば、その手は自分の体温が吸い取られるほどに冷えきっていた
「あぁ、とても冷たい…ゆっくり温めようね」
主のペースでお椀を動かし味噌汁を飲ませれば、主の手は少しずつ温もりを取り戻していく。やがて少しずつ目に生気も感じられるようになってきた
「…ごはん」
どうやらお腹はきちんと空いていたらしい。味噌汁に満足したのかお椀を戻し、お箸に手を伸ばしてお皿に乗ったお握りを少しづつ分けて口に運ぶ。それに込められた温かい思いを感じてか、主の頬に一筋の涙が伝う
「美味しいかい?」
「うん……ありがとう、石切丸」
落ち着きを取り戻しつつあるが無理はさせられない。やはりこのまま休ませてあげたいが体を拭いたりはしたいだろう。少し部屋を開けて湯と手拭いを取りに行こうかと立ち上がるとまた外から声が聞こえた
「あるじさま、はいってもいいですか?」
「いいよ、今剣。…おいで」
すす、とゆっくり開く襖の奥から今剣が顔を出す。その手には桶と手ぬぐいがある
「あるじさまのおからだをふくためにもってきました!」
「今剣…ありがとね…」
近くに寄って桶のお湯に手ぬぐいを浸す今剣の頭を優しく撫でる主。あぁ、良かった。いつものあの子だ
「えへへ、たいしたことではないです!あ、でもまってください。たしか…」
そう言って腰に着いている巾着を漁る今剣。銀色の小さな袋を取りだし手渡された
「小狐丸にもたされたんです!あるじさまのおかおをふくまえにつかうようにって!」
どうやら小狐丸は今剣に化粧落としの布を持たせたようだ。確かに化粧をしたままでは良くない、といつも主に言っていたなと考えながら袋から1枚布を出し、目を瞑った主の化粧を優しく撫でるように拭き取っていく。
気持ちいいのか、くすぐったいのか少し頬が緩んでいる
「いたくないですか?」
「うん、きもちいい」
その間に腕を拭いている今剣が声をかければ、幸せそうな声で主は返事をした
「よし、化粧はこれで大丈夫だね」
「うでとあしはおわりました!あとはあるじさまのきになるところにおつかいくださいね、おいておきますから!」
そう言って桶と手ぬぐいを残して、代わりに主が食べ終わったお盆を手に今剣は帰って行った。
「私はここを閉めて片付けをしているから、終わったらこちらにおいで」
「うん、何から何までありがとう」
「このくらいお易い御用だよ」
顔色も随分良くなったようで安心した。主の辛い顔はあまり見ていたくないからね。
「石切丸、ありがとう。終わったよ」
静かに襖が開いて寝巻きに着替えた主はいつもの彼女で。
「本当に一日よく頑張ったね。今日は早く体を休めた方がいいよ。」
主の眠りを妨げないように部屋から出ようとすると、主が私の腕に抱きついた
「…今日は、あなたにそばにいて欲しいの」
その声はどこか震えているようで、このままにはしておけなかった。
「分かったよ、君が安心して眠りにつくまでそばにいようか。」
「…こっちにきて」
そういって布団の上で手を広げる主。その姿がなんだか幼子のように見えて、可愛らしく見えたのは私だけの秘密だ
「わかったよ。今日はずっとここにいるからね」
「今の主には、お前が必要だろう。」
三日月の言っていたことは、この事だったのだろうか。
穢れを断ち切る神刀としての私ではなく、主の伴侶としての私を彼女は必要としていたのだ。
「ありがとう、おやすみなさい」
「おやすみ。ゆっくり、休むんだよ」
優しく頭を撫でると、綺麗な瞳がゆったりと瞼に隠れ安心した表情で寝息を立て始める。
今の君に必要なのは、きっとごくありふれた、誰にでも言える一言だ
「大好きだよ」