「晶」
聞き覚えのある声だった。
穏やかで、柔らかい、透き通った声だ。
ファウストに頼まれて薬包紙に薬を包んでいた手を止め、顔を上げて開け払っていた玄関戸の外を見ると、長い白銀の髪の男が立っていた。
「晶、やっと会えた」
「…あなたは」
晶は一瞬押し黙って、思い浮かんだ名前にハッとして、声に出した。
「あなたは、フウィルリン…?」
フウィルリン…、誰だろう、でもその名前を呼ぶと胸がぎゅ、と締め付けられるように熱くなった。
思わず着ている着物の胸元あたりを掴んで、その人から視線を逸らさないまま、玄関に降りてレノックスが拵えてくれた下駄をつっかけた。
晶の目の前に立つその人は、思わず息をとめて見つめてしまうほどに美しい。
太陽の光を浴びている白銀の髪が風で波打ってまるで海面のように、きらきらと光を反射し、青い裾の長い着物が柔らかに広がって、まるで海のようだ。
透き通るような銀の瞳が晶を優しく見つめて微笑んでいて、この人にすごく会いたかったのだと心が訴えるのに、どうしても思い出すことができない。
穏やかな潮風に、ゆらめく銀色。
はためく青の衣。
甘いココナッツのお菓子に、蛍のような灯りで照らされた海の底の石階段。
ゆらめく色とりどりの海藻に、遊ぶように泳ぐ魚たち。
その中で大切な話をしたのに、なにかが頭の中を邪魔してそれ以上を思い出すことができない。
「フウィルリン…俺、あなたのこと…」
思い出せない、という前に、フウィルリンが構わないと安心させるように小さく首を横に振った。
「晶、会えて嬉しい」
「俺も…俺も嬉しい、ごめんなさい、どうしてか涙が溢れてとまらないんです」
目が熱くなってほろほろと涙が溢れる。
袖で強く擦ると、それを止めるようにそっと手を握られてかわりに指で涙を拭われて、優しく抱き寄せられた。
この体温を俺は知っている。
「…フウィルリン?」
「俺と行こう、きっと楽しいよ」
え、と晶が瞬きをした瞬間、その腕に抱きかかえられていた。
「それで?」
脇息に肘を置いたフィガロが冷たい声でレノックスに問いかける。
「ミスラはどうしたの」
「追いかけていったきりです」
レノックスはファウストの住む庵に、晶に会いに行くと言うミスラと共に向かっていたのだが、白と青の鱗を持つ龍が西の方に見えた途端、ミスラが目の色を変えて凄まじい速さでその龍を追いかけて飛んでいったのだ。
どうしたのだろうと、首を捻るも手には晶の昼食を抱えていたためそのまま元々の目的地へと向かったのだがもぬけの空。
まだ終わっていない手付かずの仕事をそのままに晶がひとりでどこかへ行くなどありえないので、大慌てで羽を動かし向かったのが龍の屋敷だった。
「それは西の海の龍じゃろ」
縁側で桜を見上げていたスノウが、何処か懐かしそうな声色で「フウィルリン」とその名前を告げた。
「海の?…時々ここへ来るグワウリンの片割れですか」
「そうじゃ、グワウリンも我も隠居の身。もうあの頃のように暴れたりはせんが、血は隔てようと同じ龍族のよしみで今も顔を合わせることはある。だがフウィルリンはあまり同胞に興味がないようでな。あちこちを一人で飛び回っていると聞いたが…」
「その龍がなぜここに…、ミスラが追って行ったということは晶を連れ去ったのではないですか?」
「うむ、そう考えるのが妥当じゃの」
「晶…」
「ファウスト様…」
「今はミスラに任せるしかない。あいつはあいつで晶にべったりだから…、きっと連れて帰るさ」
「フィガロ様…」
ファウストが、堪らなく不安だと師を見遣った。
「大丈夫、ミスラが連れ戻してくれるさ、必ずね」
と、晶を心配する面々を他所に晶はフウィルリンと空の旅を楽しんでいた。
「わ、わー!」
「晶、どうだ、気持ちいいか?」
「はい、すごい!風が気持ちいいです、フウィルリン、すごい!」
晶をしっかり抱き上げたままフウィルリンはするすると空を飛んで、時折悪戯っぽく笑ってふざけるみたいに一回転をする。
「わわっ、フウィルリン!」
「大丈夫、晶のことはぜったいに離したりしないよ、やっと会えた友達なのだから」
晶はその言葉が嬉しくて、フウィルリンの首に回していた腕に力を入れて、ぎゅ、と抱きついた。
そのときだった。
ロケットみたいな速さで、白い衣をはためかせたミスラが突っ込んできたのだ。
「ミスラ!」
フウィルリンは「あはは」と幼い顔で笑って、ミスラの来訪を喜んだ。
「ミスラも来た!」
「…フウィルリン、フウィルリンでしょう」
ミスラは確かめるみたいに、噛み締めて彼の名前を呼んだ。
懐かしい、友に会ったように。
それに応える様に、フウィルリンは真っ直ぐな銀色の目を細めていたずらっぽく笑う。
「黄昏時の続きだな!」
「あはは、やっぱりフウィルリンだ」
「ミスラ、もう一回、やろう」
「はい、何度でも」
フウィルリンは抱いていた晶をやっぱり口の中に入れて龍の姿になった。
晶は奥に入り込まないように牙にひしっと、捕まる。
「フウィルリン、こわいです!」
「ふふ、晶、また海に浮かぶか?」
「それもいいですけど…せっかく三人で会えたのだから、お話しながらお菓子を食べに行きませんか?美味しいお団子のお店を知っているんです」
「晶はお腹が空いてるようだけど、ミスラはどうする?」
「…そういえば俺も昼飯を食べていません」
「なら決まりだ、晶、美味しいご飯を食べよう、それからその団子も食べてみたい」
「そうしましょう!だから口から出して、フウィルリン…」
「ん?あぁ、また口から出ようとしてるな、待って、晶」
晶がもぞもぞと動いて外に出ようとするとフウィルリンは人の姿に戻って先程のように晶を抱きかかえた。
「う、わ、わー!フウィルリン!」
くるりと一回転してフウィルリンはころころと笑って、ミスラと並んだ。
「晶は俺が持ちます」
「持…荷物じゃないんですから…」
「なぜ?俺が抱えていくからいい」
「晶も俺の方がいいはずです」
「えっ?」
「そうなのか?」
「い、いえ、俺は」
「ほら、晶は俺の方がいいって」
「は?俺の方がかっこいいし強いです」
「晶は俺の方が好みだと思う」
濃い翠と、透き通るような銀色に見つめられて、晶は眉を下げて、二人に答える。
「えっ、えと…フウィルリンもミスラもかっこいいです…」
「なんですか、はっきり言えばいいでしょう、フウィルリンより俺の方が好きだと、だっていつも手を握って一緒に寝てくれるし、撫でてくれるじゃないですか」
「そ、それは、ミスラが寝れないから…」
「俺より先にぐーすか寝てるじゃないですか」
「晶とミスラは毎日一緒に寝ているの?」
「ま、毎日じゃないです!俺はファウストの家に住んでるし…」
「なら俺も一緒に住みたい。晶の棲家はどこ?」
「は?」
フウィルリンの提案をミスラが鼻に皺を寄せて嫌がった。
なんだか剣呑な空気だ。
喧嘩し始めてしまったらどうしよう、と晶が慌てたところで、晶のお腹がきゅー、と鳴ってお昼を知らせた。
「…それより食事にしましょう、俺もたまにはネロのご飯が食べたいです」
「ネロ?」
「は、はい!ネロのご飯すっごく美味しいんです。大人気の食堂なんですよ」
「ならすぐに行こう、ミスラ、どちらがはやく着くか競走しよう」
「いいですね、俺の方がはやいに決まってますけど」
「えっ、待ってください!安全運転でお願いします!フウィルリン、ミスラ!」
「うんてん?」
「なんですか、うんてんって、ほら、フウィルリン」
「わかった、晶、俺にしっかり捕まって」
「ふ、フウィル、わ、わー!」
どこまでも澄み渡った雲ひとつない青空に、楽しそうなふたりの笑い声と、ひとりの叫び声が響き渡った。