芝桜 ー白ー 庭師の場合 今日も変わらない一日が始まる。
視力を失ってから、この屋敷で庭師として働くようになって、彼此何十年になるだろうか。ご主人様に拾われて、こうした静かで安定した日々に文句などつけられようか。ただ昔のように目が見えていたなら、今でも彼を守る盾になれていたのではないか…等と考えてしまい、少しだけ歯がゆい。
「馬鹿らしい…」
小さく呟いて、手元の花に触れる。フワフワと小さな花たちが指先を擽る様子に、思わず笑う。今年の芝桜も元気に咲いているようだ。
「…綺麗だ」
聞き覚えのない声がした。思わず白杖に手を伸ばすが、その声に敵意を微塵も感じないので思い直す。ひとつ息を吐いて、胸を落ち着かせてから声の方を向いた。
「ここは貴方が管理されているのですか?」
恐らくご主人様の客人だろう。花を褒めてくれたのだから、愛想良くしなければ…
「ええ。ここの庭師をしております。貴方は…ご主人様のお客様でしょうか」
そう言いつつ、足元に置いていた白杖を拾って、彼に近づいた。
「ああ、お仕事中にすみません」
「いえ、いいんです。丁度休憩しようと思ってましたんでね」
声の感じからして、年の頃は四十代だろうか。低くて柔らかく響く…とても良い声だと思った。こちらが盲の老人だと気づいたのだろう。それにしては、異様に顔を見られているのを感じる。
「そんなに見ないでくださいよ、穴が開いちまう」
見えなくなって、こんな強い視線…嫌でも分かる。いい大人の男なのに、子どもみたいだと思って、少し笑ってしまった。
「も、申し訳ない」
「ははは、こんな盲の爺を見ても、楽しくなんかないでしょうに」
距離が近い。この男の香りだろうか。ふわりと香水の匂いがする。こりゃ、相当いい男だろうな。見えないけれど。
お客をいつまでも立たせておくわけにはいかない。取りあえず東屋へと移動し、木製の腰掛を勧めてから座った。
「申し遅れました。私はこちらの庭師をしております都丹と申します」
「私は菊田と申します。土方様とのお約束の時間まで幾分かありまして、こちらの庭を散策させていただいておりました」
そうですか、と相槌を打ちながら、記憶を呼び起こす。菊田…たしか、ご主人様の知人で、贔屓の警官だったか。俺がここの警備係を引退してから、とんとそちら方面の人間と関わらなくなってしまった。だから面識が無くても仕方が無い。
「都丹さんは、いつからこちらに?」
「もう三十年になりますかねぇ。この目になっちまってから、どうにもならなくなってたところを、土方様が拾ってくださったんです」
「そうでしたか…」
変に気を使われたくは無い。ましてや、ご主人様のお客様だ。こちらの事情は、さっさと伝えてしまうに限る。もっとも全てを伝える必要はないだろう。
「盲の男に庭の世話をさせるなんて、あの人も随分だと最初は思いましたけどね。性分に合ってたみたいで、今まで務めさせて貰ってます」
少し戸惑っているようだったので、軽く笑って見せた。
「いいですよ。この目なんか気にせず聞いてください」
「…植える花や草木は、都丹さんが決めてらっしゃるんですか?」
無難な質問。ずいぶんと優しい男だ。
「ええ、そうですよ」
「そうなんですね。とても綺麗な白い芝桜だと思ったので…」
ああ、やっぱりそうか。手塩にかけて世話した花たちを綺麗だと言っていたんだな。
「そうですか。あいつらを褒めて貰えて嬉しいですねぇ」
「管理が大変でしょう?」
「最初は大変でしたよ。でも触れば一つ一つ感触が違うし、匂いも違う。結構上手くいくもんですよ」
そう言って、花畑の方を向いた。仕事を褒められれば、とても誇らしい。だから素直な気持ちが、口から滑りおちた。
「このような仕事を与えて貰えて、ご主人様には感謝してもしきれませんね」
本当に、土方様には感謝しかない。
「ねぇ、都丹さん」
「なんですか?」
「また、ここに来てもいいですか?」
その言葉に、どこか…縋るような響きを感じた気がした。気のせいだ…きっと。俺が目的だと、聞こえてしまったのは。
「ご主人様が許されるなら、いつでもどうぞ」
「ええ、必ず許可を貰ってまた来ます」
「そうですか…ここが気に入って貰えて、私は嬉しいですよ」
そう言いながら、小さく笑った。
彼に別れを告げ、その足音を聞き送る。
不思議だった。今日、この時、俺はこの男に会うべくして会ったような…そんな気がして仕方が無かった。
そう、運命を感じるほどに…
「…そんなはずない」
呟いた声は風の音にかき消され、芝桜がさらさらと騒いでいる。
目を閉じれば、見えないはずの白い花が、瞼の裏に浮かぶようだった。
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あれから、たった三日後に菊田は庭に来た。そして今、何故か離れた場所で、作業中の俺を見ている。強い視線を浴びたせいで、少なからず動揺した。何なんだ? その熱量は…
やっとこちらへ向かって歩き出す音がしたので、首を傾げて音を聞く。正確にその位置を捉えてから、スコップをバケツに入れて立ち上がった。
「こんにちは」
こちらから挨拶してみる。
「こ、こんにちは。また来てしまいました」
少し動揺した声だった。面白い。
「菊田様ですよね。どうぞどうぞ」
「都丹さん、分かるんですか?」
「菊田様の声はとても良いお声ですから、すぐわかっちまいますよ」
なんて褒めてやれば、菊田は嬉しそうに小さく笑う声がした。思わずこちらも笑いつつ、バケツを手にそちらへ向かうと、菊田が呟いた。
「杖は…」
「ああ、大丈夫ですよ。見えはしませんが、ここは慣れていますから」
以前と同じ東屋の腰掛に二人で座る。距離は人一人分。
「でもねぇ、やっぱり予測できない障害物につい躓いちまう事もあるから、怪我が絶えませんよ」
なんてことないと笑ったが、少し気になったようだった。
「まさか、その額の傷…」
ああこれ、と自分の額をさすりながら言う。
「これは違いますよ。昔ちょっとね」
「昔…」
聞いても面白くないですよ、と笑ってみせた。
「土方様と一緒にね、まあ色々してましたから。何となく分るでしょう?」
こう言えば、菊田はすぐに察したようだった。
「…なるほど…都丹さん」
「なんでしょう?」
「俺の名前に『様』は付けなくていいですよ」
言葉に詰まった。さすがにそんな事はできない。
「…ご主人様のお客様にそのような…」
「いいんです。それに俺はそんな大したもんでもないですし」
菊田が俺に少しだけ近づくのが分かり、思わず後ずさった。
「俺は土方様とは同業者じゃないんです。一介の警察官です」
知ってる。しかも警部だろ。
「だから『様』なんてガラじゃないんですよ」
「ですが…」
「俺、都丹さんと友達になりたいんです」
友達? なんでこんなジジイを? しかも何故呼び方を気にするんだ。強引だなと思いつつ、やれやれ…と首を振る。
「菊田様は…」
不満なのか。仕方が無い…
「菊田さんはお若い方でしょう? 会ったばかりの爺と友達になりたい、なんて…」
「年は関係ないでしょう? こんな素敵な庭を管理されている方だから、きっと良い方なんだと思ったんです」
吹き出しそうになった。良い方、だなんて。
「…素敵な庭ねぇ…」
ぞんざいな言い方になったが、菊田の気分を害していないようだ。むしろ嬉しそうに感じる。
「何か企んでいるとかではないですよ。本当に貴方と仲良くなりたいだけなんです」
言われれば言われるほど、眉間に皺が寄りそうになる。ため息をついて、頷いた。
「よしてくださいよ、なんか口説かれてるようでむず痒い…」
息を飲む音がする。まさか図星? 本当に目的は俺?
「あまり深く考えないでください。時々、ここでこうして一緒にお話ができればそれでいいんです。どうですか?」
まだ確証は持てないが、素直な男の下心に苦笑する。
「まあ、それなら」
「よかった!」
分かりやすい男だ。
「…物好きですねぇ」
頬杖をついて、菊田に顔を向ける。呆れるが、真っ直ぐな所は嫌いじゃなかった。
「都丹さん、お時間大丈夫ですか? ああ、作業中でしたよね」
足元に置かれたバケツとスコップを見たのだろう。
「いえ、別に大丈夫ですが、何ですか?」
「良かったら庭を案内してもらいたいんですが…」
少し首をかしげた。
「案内って言っても、大した事はできませんよ。手を加えた、切った、植えたしか言えません」
「それでいいんです。貴方と歩きたいので」
ああ、本当にそういう事なのか…
「そうですか。まぁ、いいですよ」
あっけらかんと答えてやれば、安心するようなため息が聞こえた。
「では早速…」
自然な流れで、手を握られた。
「え、えっと…」
あまりにも自然すぎて、さぞモテる男なのだろうと察する。しかし何故か、手を握ってきた当の本人が動揺していた。目の見えない俺への配慮として、手を取ったのでは無いのだろう。
…本当に分かりやすい男。なんだかその動揺がおかしくて、気にする風でも無く立ち上がった。そして普通だと言わんばかりに菊田へ顔を向け、首を傾げてみせる。
「どうしました?」
「い、いえ…」
「できれば次は、声をかけてから触ってくださいね。この通りなんで、驚いちまいますから」
「あ、そうですね。すみません」
本当におかしな男だ。だが、先程まで弄っていた土の粒の感触に気づいて、声を上げてしまう。
「…ああ! すまね…すみません。手を洗いましょう」
思わず口調が一瞬乱れてしまった。慌てて手を放そうとしたが、それを逃すまいと握り占められてしまう。
「気にしませんよ。さ、行きましょうか」
気にしてくれよ、なんて言えない。まったく…変な男だ。こんな年寄りと友人になりたいだなんて。
彼の右手に握られつつ、心地のいい声を聞きながら、春の庭を二人で歩いていった。
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今日も菊田と手を繋ぎながら、庭を散歩していた。
「ねえ、都丹さん。あっちは?」
立ち止まり、握っていた手をある方向に向けられる。
「そっちは秋の庭園ですよ。今は秋に開花する花を植えたり、土壌を休ませたりしてるので、ちょっと寂しい感じでしょう?」
菊田は何かを思いついたようで、少しソワソワしながら言った。
「都丹さん。秋になったら是非あっちも案内してよ」
少し笑ってしまう。
「秋になっても来る気なんですか?」
「もちろん。友達に会いに来るのは当たり前だからね」
友達…ねぇ……
内心苦笑していると、手を強く握られた。
「どうかしました?」
「ちょっと都丹さんとの未来を思って、楽しくなったんだよ」
「俺との未来?」
唐突な話に、思わず素が出た。
「…未来なんて…そんなもの…」
「はっきりしない? そうかもね。でも俺は都丹さんと秋になっても、ここで一緒に散歩してると思うよ」
何というか自信家だな。孤独な年寄りに、慈悲の心でも芽生えたのかね。
「言ってしまえば、それは言葉として残るだろ?」
「言葉なんて形ないもんだろ。そんなものに確証はない」
「…少なくとも、都丹さんの心に残せるよ。今日、ここで散歩しながらした約束を…」
不意に果たせなかった約束が、頭を過った。
「…忘れちまうよ」
なんだか虚しくなって、思わず口から滑りおちた。
「じゃあ、俺が忘れない」
ああ、この俺よりもずっと若い男は、まだ約束や未来を信じているんだな。眩しくもあり、悲しくもあって、俺は何も言えなかった。
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あれから菊田は、何度も庭に来た。白い芝桜は、散り始めている。変わりゆく季節と違い、菊田は変わらず何度も俺に会いに来た。さすがに知人から友人といって良いほどに、仲良くなったと思う。自分の畏まった口調も、いつの間にか取れていた。
「もうすぐ夏でも来ちまいそうな陽気だねぇ」
今日は、春とは思えないくらい暑い日差しを感じる。いつもの東屋で一休みしながら、自分の首元の釦を一つ外した。
菊田の視線を、己の胸元に感じる。そして少し息を飲む音がして、水を飲む音がそれに続いた。まさかシジイの肌に動揺した…なんて言わないよな?
「たしかに、こう暑いと海に飛び込みたくなるな」
菊田の声が、取り繕ったように聞こえるのは気のせいか。俺は何を馬鹿な事をと、軽く頭を振った。
「海か…久しく行ってないなぁ」
「都丹さんは泳ぎは得意?」
さあ…と呟いて、記憶を辿る。
「昔はそれなりに。この目になってからは全く泳いでねぇから…どうかな?」
「そっか。じゃあちょっと先だけど、夏になったら俺と海に行かない? 泳ぎに不安があるなら、手を繋いで先導するからさ」
まさかの誘いに、思わず笑う。
「おいおい、爺を海に誘うとか大丈夫か? いい人と行きなよ」
この男の真意が分からない。ただの社交辞令なら、ここで話は終わるはずだ。
「都丹さんと一緒なのが、いいんだけどな」
思わず真顔になる。
「あのなぁ、冗談でも言っちゃいけねぇ事があるぞ? お前さん、屋敷の女中達が良く噂してるのを聞くぜ?」
「噂?」
なんだか更に暑く感じて、シャツの釦をもう一つ外した。
「菊田さんは『良い男』だってな。よくここに来るから、取りなしてくれって相談を受けた事もあるくらいだ」
なんだったら今朝も言われた。俺の勝手な判断で紹介は出来ないと、やんわり断ったばかりだ。
「色男のあんたが、男相手の冗談でも、逢引の誘いなんかしちゃあいけない。折角の縁も消えちまうぞ?」
「俺は別に気にしないけどな」
…この男、相当モテるな。
「…より取り見取りだからか?」
自分の声が、少し尖っている気がする。すると、菊田は隣に座り直した。
「あのね、都丹さん。俺にも考えがあって独り身なの」
「考え?」
「そう、俺なりに考えているのさ」
まあ、誰でも事情はあるだろう。ホッとする気持ちが生まれて、内心首を捻る。せっかく出来た友人が、早々に結婚して会いに来なくなるのは寂しい。そうだ、それに違いない。
「それに今はさ、こうして…」
触るよ、と声をかけられて、左手を握られた。右の掌を滑らせるように合わせて、指を絡ませられる。思わず体を離そうとしたが、そのまま優しく握りしめられてしまい、逃げられない。
「こうやって都丹さんと、手を繋いで一緒にいるのが、今は一番嬉しいし、幸せなんだよ」
さすがにおかしい。友人同士で繋ぐ形じゃない。柄にもなく動揺し、頬が熱くなるのを感じる。
「…え……あ」
何か言わなくてはと思うのに、何も言えない。
「…ったく、何なんだよこれ」
やっと吐き出した言葉は、自分でも分かるくらい困惑している。なんだか居たたまれなくて、少々乱暴な口調になった。
「…離せよ」
「それはダメかな。だって今日もこれから散歩でしょ?このまま繋いだ方がいいし」
「あのな…散歩んとき、こんな繋ぎ方しないだろ………友達は」
指と指が絡むように繋がれた手。
それは恋人繋ぎのようなそれ。
握り返すなんて出来なくて、ただ為すがままになっていた。菊田も気づいているはずなのに離してくれず、立ち上がって口を開いた。
「ほら、行こうか」
「おい!」
これは言っても聞かないのだろう。なんだか年下に翻弄されるのが悔しくて、ポツリと呟いていた。
「…強引だな」
このままでもいいけれど、なんだかそれも勿体ない…なんて思ってしまったからだろう。東屋を出た頃には、諦めてその手を握り返してやるのだった。