恋の予感と贈り物すっかり季節は冬。
朝からとても冷え込んでいる。
「あ~、さっむいな~」
小さく呟いて手を擦り合わせてから、浴場の戸を引いた。
清掃前なので、昨夜の残り湯があるはずだ。
夜警の人間が仕事終わりに使っているだろうから、きっとまだ温かいに違いない。
冷たい水で顔を洗うよりましだろうと、ちょっといただきにきたわけだ。
「あ!門倉さん!おはようご…」
開けた戸を、素早く戻す。
しかし無情にも戸はすぐに開いて、中にいた男に話しかけられた。
「おはようございます!門倉さん!」
「お…おはよう、宇佐美」
早朝から元気のいい挨拶だこと。
「も~、なに閉めてるんですか。お湯貰いにきたんでしょ?」
「そうだけどさぁ…」
なんで先回りされてるんだろう…そう思いつつも、あまり深く考えるのはやめた。
怪盗ラパンであり、見習い執事である宇佐美。
こいつが新人としてこの屋敷にきてから、もうすぐ1ヶ月が経とうとしていた。
この1か月、俺の周りは非常に慌ただしくなった。
こんな風にいつの間にか先回りされて、勤務外でも顔をあわせる事も少なくない。
「門倉さんの分も用意してますので、どうぞ」
「え?…あ、ありがとう」
そうしてお湯が満たされた桶を渡される。
そのまま脱衣所の棚に置いて顔を洗えば、冷たい頬が解けるように温かくなっていった。
顔を上げると、宇佐美がタオルを渡してくれた。
「ありがと…」
素直に受け取り、顔を拭う。
ふわりと鼻孔を擽るのは、爽やかな花の香り。
…すぐさま、俺のタオルじゃないと気づいた。
「これ…お前のだろ。俺のタオルは…」
と言いかけて、やめる。
宇佐美が頬ずり…もとい顔を拭いてるタオル、俺のだよな…
「おい、それ俺の…」
「いいじゃないですか。配られてるやつなんて、どれも同じですよ」
「そうだけど…」
屋敷の使用人には、制服から日用品に至るまで、あらゆるものが支給されている。
タオルもその1つで、手触りの良いもので評判が良かった。
しかし俺のは使い込んだタオルで、宇佐美のは貰ったばかりの新品。
明らかに宇佐美が損してるだろ。
「返せよ。人のお古なんか嫌だろ?」
「使い古した感があっていいですよ。それに…」
タオルに顔を当てた宇佐美が、そのまま大きく息を吸うのが見える。
「…門倉さんの匂いもしますし」
くぐもって聞こえるその言葉に、ますます取り返したくなって、タオルの端を引っ張ったが、微動だにしない…
「じゃ、これいただきますんで」
「おい…」
宇佐美は小脇にタオルを抱え、俺が持っているタオルを指さした。
「それ、代わりにあげますんで、使ってくださいね!」
こうなると、俺のタオルはもう戻らない。
まあ、タオルくらいいいか…と思い直し、今日の予定を思い浮かべる。
今日、西洋では神様の誕生日らしい。
俺が働くこの屋敷は洋館だ。
なんでもわざわざ移築したとかで、その造りは本格的だったりする。
その異国情緒たっぷりの屋敷という事もあって、毎年その日にあやかったパーティなんかをしている。
ご主人様の会社の社員はもちろん、取引先や知り合いに至るまで、多種多様なお客様がいらっしゃる。中には海外のお客様もいる為、パーティもかなり本格的に行っていた。つまりは、年末年始のご挨拶代わりになるわけだ。
その準備もあって、今日はいつもより早く起床していた。
「後で広間に集合な。俺はご主人様の部屋に行ってから合流するから…」
「僕も行きます。早くお仕事覚えたいので」
「真面目だねぇ。いいから、ゆっくりしときなさいよ」
「いいえ。そうはいきません」
有無を言わさぬその言い方。
表情は柔らかいが、視線が冷え切っている。
…初めて会った時もそうだけど、どうもご主人様の事となると突っかかるよな。
「…そう?じゃあ、お湯貰ってこようか」
「はい!」
ご主人様に冷たい水で顔を洗ってもらう訳にはいかない。
そして俺らと違って、風呂の残り湯なんて使ってもらうなんて、もっての外だ。
一度部屋に戻り身支度を整えると、一度洗濯室へ向かい洗い立てのタオルを受け取りつつ、炊事場へ向かいお湯を貰った。
ご主人様の部屋に入る前に、丁度良い温度にするために、水も一緒に調達する。
「じゃあ、宇佐美はその水差し持って…」
「いいえ、お湯は僕が持ちます」
宇佐美は、俺がお湯をひっくり返すのではないかと気を使っているのだろう。
「毎日やってるから、大丈夫だよ」
「そうなんですね。じゃあ、明日もご一緒します!」
…微妙に話が噛み合って無くない?
確かに俺はあまりついていないが、業務に支障が出るようなヘマはしないんだけど……それが、なんでこれから毎日一緒に行くって話になってんの?
「…まあいいや。粗相のないようにな」
「はい!」
こうして元気のいい挨拶を聞いていると、普通に新人教育をしている気分になる。
…いや、そうなんだけど。
お湯の温度調節や気を付ける事を伝えてから、ご主人様の部屋のドアを叩いた。
「失礼します」
「入りなさい」
ドアを開き、ご主人様の寝室に入る。
「おはようございます」
「おはようございます!」
俺と宇佐美の挨拶に、土方様は小さく微笑し口を開いた。
「ああ、おはよう」
今日もご主人様が、かっこいい…
…老齢でありながら、その年を感じさせない力強さを感じる。
ピシッと背筋を伸ばし、長髪を結んでいる仕草には色気さえ感じる。
…いかんいかん、見とれている場合ではない。
いつものようにカーテンを開きながら、宇佐美に手前の鏡の前に桶を置くよう指示する。
「今日は宇佐美もいるんだな」
「はい、少しでも早く一人前になりたいんです!」
「そうか。門倉はここも長いから、良い指導者だろう。精進しなさい」
「はい!」
この新人然とした態度。
爽やか過ぎて、逆に怪しいと感じるのは俺だけか?
「今日は忙しいだろうから、もう準備に向かいなさい」
「いえ、そんな事は…」
「はい、そうしたいと思います!さ、立て込んでるんですから、行きましょう。門倉さん!」
くっ…!朝のご主人様を堪能する時間が…!
肩に置かれた宇佐美の手が、妙に力強いのは気のせいじゃないだろう。
引っ張られるように土方様の部屋を退室し、そのまま広間へ向かう。
「おい、ご主人様に失礼だろ!」
「そのご主人様がいいって言ってるのに、いつまでも居座る方が失礼です」
それは…まあ、一理ある。
少し落ち込みつつ、宇佐美の後ろ頭を見つめるのだった。
――――――――――
パーティはつつがなく終わり、片付けが終わった頃には夜も遅くなっていた。
遅めの夕食を取りながら、この後の事をぼんやりと考える。
ご主人様の就寝時の御用聞きは、キラウシがする事になっているから、もう予定はない。
このままさっさと風呂に入って、寝てしまおうかなと考えながら、味噌汁を喉に流し込む。
視線を正面に向ければ、宇佐美が手を合わせて『ご馳走様でした』と呟くのが見えた。
…ほんと、こうしていると育ちのいい好青年なんだよな。
同じくご馳走様と言ってから、食器を片付けようと腰を上げかけた時だった。
「門倉さん、ちょっとこれからお時間貰えますか?」
「え?」
正直、嫌な予感しかしない。
だが、唐突に連れていかれるわけでもなく、こちらの答えを聞いてくれているから、まだマシだろう。
断ってもいいが、もう今後の予定が無い事を宇佐美は知っている。
あいにく良い誤魔化し方も思いつかなかった。
「…いいけど…夜も遅いし、直ぐ済ませてくれよ」
と、予防線を張れば、問題ないとばかりに頷くのが見えた。
「ええ、そんなにお時間はとらせませんよ」
そう言うと、さっさと食器を俺の分までまとめて、配膳台へ置いてくれた。
「ありがと…」
「さ、行きましょ!」
そう言って、食堂を出ると素早く右手を取られ、そのまま繋いで歩き出した。
誰かに見られたらどうするつもりだ!
「お、おい!」
こちらの抗議の声なんて聞こえてもいないのか、鼻息でも歌うかのように上機嫌に歩いていく宇佐美。
これ以上抗議しても意味はないと諦めて、大人しくついていくと、屋敷の庭へ着いた。
この屋敷は、4つの区画に分かれている。
季節ごとの花や植物が鑑賞できるように考えられていて、かなり広い。
辿り着いた場所は、冬の庭園といわれている場所だった。
低い位置に、白いバラのような花々が咲いているのが見える。
「へぇ…こんな寒いのに、よく咲いてるなぁ…」
と思わず呟くほど、たくさんの花が咲いていた。
花の名前にはあまり詳しくないが、たしか…
「寒芍薬だったか?薬用植物だけど、あえて観賞用に育ててるって、庭師が行ってたな」
「…ここの庭は、本当に手入れが行き届いてますよね」
宇佐美は、花の前で立ち止まった。
自然と俺の足も止まる。
「知ってます?海外では、この花をクリスマスローズっていうんですよ」
「へぇ…」
夜だというのに、はっきりと花が見えるのは、きっとその白さゆえだ。
月と屋敷からのわずかな灯が相まって、まるで雪でも降ったかのように白く輝いていた。
「クリスマスっていうのは、今日の事です」
「海外の神様の誕生日だろ?」
「ええ、そうです。クリスマスは『神様の生まれた日を祝う』という意味なんですって」
右手が握りなおされ、宇佐美が正面に立つ。
「だからですかね。今日は、大事な人に贈り物を渡す日でもあるんですよ?」
「…へぇ~、そうなんだ」
そういえばパーティの招待客に、ちょっとした贈り物が渡されていたな…なんて、関係ない事を考える。
もし俺が贈るとしたら…大事な人…それはもちろん。
「門倉さんにとって、大事な人はご主人様なんでしょうね」
ぎくりとして肩が跳ね上がる。
そんな様子をみて、貫くような視線が俺を射抜いた。
分かりやすい嫉妬。
…いや、あえて分かりやすく伝えているんだ、コイツは。
すると少し視線を落とし、握っていた右手が宇佐美の両手に包まれた。
思わず動揺して手を離そうとするが、非力な俺の力など通用しない。
「まあ、そこのところは置いておくとして…」
宇佐美はそう呟いて、手を開くよう促される。
大人しく従うと、手のひらに何かが置かれた。
「僕からの贈り物です」
何も持っていないように見えたのに、いつの間にか現れた小さな箱。
桃色のリボンがついたそれを、思わず凝視した。
「えっ…ええ?」
何で俺に渡すんだ…と言いかけて、口を閉じる。
辺りは静かだ。
いるのは俺と、宇佐美だけ。
今この庭にいるのは、2人きりだ。
特別な日に、大事な人への贈り物がどんな意味を持つのか、いくら鈍感な俺でもわかる。
「開けてみてください」
言われるままリボンを外し、中の白い小箱を開けた。
中に入っていたのは、鈍色に光るカフスボタンだった。
月の光に照らされて灰色の石が見える。
カフスボタン…つまりは、普段使いが出来る物だ。
胸元のタイピンと共に、常につけろという意味なのだろう。
「カフスボタンを贈る意味って、分かりますか?」
え?っと思った瞬間、ふわりと温かい体温が身体を包む。
「『私を抱きしめて』って意味です」
耳元で囁かれる言葉に、顔が赤くなるのを感じる。
小箱を握ったままだったから、思わず強く握ってしまう。
けれど、逃げようという気は起きなかった。
この寒空の中にあって、宇佐美の腕の中は、あまりにも心地よい温かさだったからだろうか。
「……っ…お、お前が、抱きしめてきてるじゃねぇか」
苦し紛れの言い訳みたいだ。
「ウフ、そうですね」
背中に回った手が、優しく撫でる感触がする。
こんな風に労わる様な触れ方をされると、どうしたらいいのか分からなくなる。
「……お、俺は何も返せないぞ?」
「大丈夫ですよ。ちゃんと貰いますから」
なにを…と言いかけたが、声にならなかった。
唇を覆う、柔らかな熱。
中途半端に開いた口に滑り込む舌。
ざらりとした感触が、舌の先端に触れて、思わず首を捩って顔を背けた。
「…っ!…なにを…いきなり…」
「…これだけじゃ、まだまだ足りません」
そう言って唇が近づいたので、慌てて相手の口を手で覆う。
手のひらに息づかいを感じて、嫌でも顔が赤くなるのが分かった。
「別の……別のもので返すから!」
不機嫌に眉を跳ね上げ、自分の口から俺の手を引きはがす。
手は離されずそのまま指が絡まり、少し離れた距離がまた縮まってしまった。
「え~、僕はこれがいいんですけど……僕が満足するまで、このままさせてくれれば…」
「な…、えっと…そう!物には物のお返しがいいんだ!」
我ながら謎の理論を持ち出したような気もするが、気にしてはいられなかった。
こいつが満足するって、どれくらいなのか分からない。
そもそも、これで終わると保証はあるか?!
「じゃあ……今度のお休みに、一緒にお出かけしましょう!その時に、僕へのお返しを見繕ってください」
「へ?」
「嫌なんですか?じゃあ続きを…」
「わ、分かった!そうする、そうするからぁ!」
ああ、なんだか言いくるめられてしまった気がする。
俺の答えに、宇佐美は満足そうにうなずいて、やっと手を離してくれた。
そのまま体が離され、途端に外気の冷たさを自覚する。
宇佐美は、数歩後ろに下がった。
「約束ですからね?」
「…ああ」
気恥ずかしくなって少し頬をかいていると、宇佐美は、くすっと笑った。
そして、くるりと踵を返せば、ふわりと小さく風が起こる。
一瞬だけ目を閉じれば、ばさりという音がした。
再び目を開いた時、その背中にあのマントが見えた。
いつの間に着替えたのか。
あの特徴的な兎耳のシルクハットも見える。
奇術師か何かのように指先を前に出し、そのままモノクルの端を摘まむ。
月と白い花々を背に、こちらをにこりと笑って見つめる怪盗。
まるで、魔法みたいだ。
目が、離せない。
「今夜は用があるので、ここで」
怪盗が一歩近づく。
「…おやすみなさい、門倉さん」
何か言う前に、ふさがる唇。
唐突すぎて、俺は思わず目を閉じてしまった。
一瞬の熱はすぐに去り、再び目を開いた時には、そこに怪盗の姿はなかった。
「怪盗め……」
ポツリと呟いて、手で唇を覆う。
濡らされた唇は冷えてしょうがないのに、頬はひたすら熱く火照るのだった。