菜の花と彼 鯉鶴【菜の花と彼】 鯉登×鶴見
流加 ゆうら
土手一面を埋め尽くす黄色い花々が、風にそよいでザワザワと騒いでいた。
「綺麗ですね」
鶴見さんにそう呼びかければ、彼はニッコリと笑ってくれた。
「ああ」
一面の菜の花が、高く背を伸ばして咲いている。
「ここの菜の花は、毎年凄いですね」
「そうだな。誘って良かったよ」
ああ、本当に幸せだ!あの鶴見さんが、私をここに誘いたいと思ってくださるなんて!
博物館で講習会の手伝いをした後、鶴見さんに誘われて、近くの土手まで散歩する事になった。暖かな日差しに照らされる黄色い絨毯は、春らしくて気分が高揚する。しかも運よく辺りは誰もいない。それとなく左の小指を触れさせれば、自然と手が繫がり、幸せな気持ちになりながら、ゆっくりと歩き出した。
「今日もお疲れ様。だが、あまり無理はするなよ」
「いえ、無理などしていません! 博物館のお手伝いは、それだけでも勉強にもなりますし、皆さんにもお会いしたいですから」
「ふふ、正直だな」
むろん一番の理由は鶴見さんだ。
「今日は尾形が、中学生の弟を連れてきましたね」
「…ああ」
一瞬、鶴見さんの声に寂しげな色を感じた気がした。
「あの男も兄らしい振る舞いをするのですね。なんだか不思議なものだと感心しました」
「不思議とは?」
「あの尾形ですよ? 何を考えているのか分からない表情で、人に関心など無いと思っていました」
今日の尾形とその弟とのやり取りを思い出す。とてもしっかりした弟さんで、参加者の中でも丁寧で、気づかいが素晴らしかった。そして尾形も常に弟を気にし、必要な時にはすぐさまフォローに入るなどしていた。
「きっと…兄として、彼を守るという自覚が強いのだろうな」
「そうですね! 私も兄さぁと一緒にいると、世話を焼かれはしますが、守られていると強く感じます!」
「兄思いだな」
「いえいえ。そういえば鶴見さん、ご兄弟は?」
鶴見さんの家庭事情は複雑だと気づいていたので、今まで聞いたことは無い。しかし兄弟がいるかくらいであれば、当たり障りもないだろうと思って聞くことにした。
「兄がいたよ」
だが、完全に質問選びを間違えたようだった。なんて私は浅はかなのだろう。
「た、大変申し訳ありません!」
「うん? 何を謝る必要があるんだ?」
「ええと…」
ご兄弟の事を過去形に話す……それはつまり、現在は彼に兄はいないという意味になる。なんて答えにくい質問を……私といつやつは!
「ああ、別に亡くなったわけではないよ。私の記憶には無いんだが、養子に出た兄がいるんだ」
「な、なるほど!」
大きく胸をなで下ろした。それにしても気をつけるに越したことはないぞ!音之進!
「なんでも身体が弱かったらしくてな。私の家は昔からの風習を重んじる家でな。身体の弱い子どもは別の家に養子に出すんだ。一度人生を終わらせ、別の家族に生まれ変わる…という意味になるらしい」
「そのような風習が…」
「ちなみに現在も健在らしいが、ほとんど会ったことは無いな」
鶴見さんのご実家は名家らしく、その父親からは幼い頃より跡継ぎとして期待されて育ったらしい。酷く孤独な幼少期だったとも聞く。
「まあ、もし兄が側にいたなら、私はもっと違う人生を送っていたのかもしれないな」
「…」
だが、そのおかげで今があるとも言える。彼の現在までの人間関係が、余りにも希薄だったから……
「…鶴見さんには、私がいますから」
口をついて出た言葉。本心だからこそ、素直にそう伝えられた。鶴見さんが、ふわりと笑った。
「鯉登は、いつも手が温かいな」
ふと指を絡ませるように繋がれてしまい、思わず右手で口を押さえる。いつもの猿叫で、この良い雰囲気を台無しにしたくなかった。少し深呼吸してから、声が震えないようゆっくり話す。
「つ、鶴見さんも、温かいですよ?」
そう言って強く握れば、鶴見さんが小さく笑って、親指で私の手をさすった。柔らかな親指の腹で、ゆるく悪戯するようになぞられて、叫ばないよう奥歯を噛み締める。
「まったく、いつまでも可愛いな」
「か、かわ…いい…ですか…」
くっ…また、子ども扱いをされておる! いや、鶴見さんとしては気取らない私を好ましいと思ってくださるという事なのだから、問題は無い。無いのだけれど…
「…いつになったや、あたに追いつっんやら」
思わずそんな風に呟いてしまう。立場も年齢も、前世から追いつけない。物理的な距離はともかく、精神的に早く大人になりたかった。前世の記憶があっても、精神が大人でいられるわけではないのだ。
「いいじゃないか」
鶴見さんはそう言って、立ち止まる。
「鯉登の成長を側で見ていられるのは、とても嬉しいよ」
「ですが…」
「一人の人間の成長を見守れるんだ。これほど嬉しいことはないよ」
「そう言って頂けるのは嬉しいのですが、なんだか弟の成長を喜んでいるように見えます」
「まあ、当たらずといえども遠からず…だな」
「むむ…」
最初の出会いが中学生だった事もあり、鶴見さんの中で私は、子どもみたいな位置づけにあったのだろう。もちろん、ここ数年は私を男として意識してくださるようになったのだが、それまでの関係性が消えるわけではない。
「そう急がなくて良い。私は鯉登の素直さや真面目な性格、優しい心…他にもたくさんあるが、そのどれもが好きだからね。ゆっくりと見ていたいんだよ」
「鶴見さん…」
思わず感激して涙腺が緩み、気づいた時には口を開いていた。
「あたいもあたん聡明かつ繊細な気づけや、そん全てを包み込んような優しさを、わっぜ愛しちょります!」
「うん……ええと、そうか」
しまった。また早口になってしまった。慌てて言い直そうとするが、鶴見さんの赤くなった頬を見て口を閉じる。どうやら伝わっているようだ。
「つ、鶴見さんは…その、今の」
「…どうだろうな」
「分かってますよね?」
私の早口の薩摩弁を…
「…まあ……な。鯉登との付き合いは長いし…」
「恋人同士になってから、まだ一年と三カ月しか経っておりませんよ?」
「細かいな。いや…そうじゃない…」
少し愁いを帯びた息を少しついて、彼は言った。
「君と出会って何年だ?」
「今年で七年目でしょうか」
「そう、七年だ。そして前世も含めれば、どれ程の時間を共に過ごしたことか…」
風が吹いて、菜の花が騒ぐ。私の胸の高鳴りを表すかのようだった。
「分かっていたよ。君の言葉は、全部…」
その言葉に私は思わず涙ぐみそうになった。鶴見さんは今まで私が何を言っていたか知っていたが、あえて分からないふりをしていたという事だ。でも、裏切られたような気持ちは一切しなかった。だって彼は分かっていた上で、ずっと私に伝えてくれていたから…
私をどれだけ愛しているのかを…
正面から見つめ、その両手を握る。背後に見える黄色の波が、あまりにも美しく彼を彩る。華やかさがあるわけではないが、素朴で優しい花々に包まれる彼。なんて美しい光景か。
それとなく辺りをうかがい、彼の唇に己のそれを落とす。柔らかで温かな熱が小さく花のように綻んで、混じり合っていくのを感じた。