芝桜 -白-(1)
一面に広がる白い芝桜。
春の陽の光を受けて、ふわりと輝く花畑。
その中心に佇む白い人。
白髪で白い肌をした老齢の男。
見るもの全てが白一色に包まれて、それはこの世のものではないほどに…
「・・・綺麗だ」
その光景に思わず、言葉が口をついて出てしまった。
呟いた言葉は、目の前に佇む男の耳に届いたようだった。
男の顔がこちらに向けれらる。
しかしその視線は噛み合わない。
白い男は、眼も白かった。
人ならざる者のように感じてしまう。
自分とは違う世界に、彼がいるようだった。
そこで、はたと気づく。
初対面の男に言う台詞ではない。
思わず自分の口を押え、苦笑しながら彼に話しかけた。
「ここは貴方が管理されているのですか?」
すると白い男は小さく笑う。
「ええ。ここの庭師をしております。貴方は…ご主人様のお客様でしょうか」
そう言いながら、足元に置いていた白杖を拾って、こちらに歩いてきた。
そこで気づく。
彼は目が見えていないのだ。
「ああ、お仕事中にすみません」
「いえ、いいんです。丁度休憩しようと思ってましたんでね」
彼は花を踏むことなく、こちらに近づいてきた。
刈りあげられた白髪。
彼の顔には長年刻まれてきた皺があり、額には大きな傷跡があった。
しかしその表情はとても穏やかで、見ていると心が休まるようだった。
「そんなに見ないでくださいよ、穴が開いちまう」
彼は笑う。
思わず胸がどきりと鳴った。
相手には見えていないとはいえ、つい無遠慮に見てしまった。
「も、申し訳ない」
「ははは、こんな盲の爺を見ても、楽しくなんかないでしょうに」
目元の笑い皺。
それが見える距離に男がいる。
楽しいどころか、見惚れていた事に気付いて、思わず頬を掻いた。
男に促されて、共に東屋へと移動する。
木製の腰掛に促され、彼の斜め横に座った。
「申し遅れました。私はこちらの庭師をしております都丹と申します」
「私は菊田と申します。土方様とのお約束の時間まで幾分かありまして、こちらの庭を散策させていただいておりました」
そうですか、と彼は相槌を打つ。
ここからあの白い芝桜が見える。
白い花は光に滲んで、雲のように見えた。
そこの主は、今自分の隣にいる。
「都丹さんは、いつからこちらに?」
「もう30年になりますかねぇ。この目になっちまってから、どうにもならなくなってたところを、土方様が拾ってくださったんです」
「そうでしたか・・・」
こちらが聞きにくいことを、スラスラと彼は言う。
「盲の男に庭の世話をさせるなんて、あの人も随分だと最初は思いましたけどね。性分に合ってたみたいで、今まで務めさせて貰ってます」
すると彼は笑う。
「いいですよ。この目なんか気にせず聞いてください」
「・・・植える花や草木は、都丹さんが決めてらっしゃるんですか?」
「ええ、そうですよ」
「そうなんですね。とても綺麗な白い芝桜だと思ったので・・・」
それでさっきあんな言葉を呟いたのだと、思ってくれただろうか。
随分、言い訳めいた事を言ってしまったと気づく。
すると彼は言葉通りに受取ったようで、嬉しそうに笑った。
「そうですか。あいつらを褒めて貰えて嬉しいですねぇ」
「管理が大変でしょう?」
「最初は大変でしたよ。でも触れば一つ一つ感触が違うし、匂いも違う。結構上手くいくもんですよ」
そう言って、花畑の方を向く。
彼の目に花々は見えていないが、その白い目に花々が映っていた。
「このような仕事を与えて貰えて、ご主人様には感謝してもしきれませんね」
そうやって彼は笑う。
・・・何故だろう。たまらない気持ちになる。
彼の心は草木や花々…そして主人である土方様に独占されているように感じた。
だからだろうか。
どこか浮世離れしたような雰囲気が漂っている。
「ねぇ、都丹さん」
「なんですか?」
「また、ここに来てもいいですか?」
「ご主人様が許されるなら、いつでもどうぞ」
小さく胸が痛む。
彼は当たり前の事を言っており、主人に対して当たり前の感情を持ち合わせているだけだ。
感謝と敬愛。
長年培ってきた信頼。
俺とこの人の間には、まだ無い感情。
・・・そうか俺は、この人に俺を知ってほしいのか。
「ええ、必ず許可を貰ってまた来ます」
「そうですか・・・ここが気に入って貰えて、私は嬉しいですよ」
これから、知ってもらえばいい。
親子程も離れた男に向ける感情ではない事は、気づいていた。
でも、気づいてしまった。
彼に別れを告げて屋敷へと向かう道すがら思う。
この年になって、うんと年上の男に一目惚れするなんてなぁ・・・。
でもそれだけ、あの花園の光景は強烈だったのだ。
運命を感じるほどに・・・。
振り返って、白い花畑を眺める。
きっとこの花畑は、貴方の心の風景なんだろうと思った。
その風景に俺も居たいと思うのは、欲張りだろうか。
(2)
あれから、たった3日後に俺は白い庭に来ていた。
白い花々は、しゃがんだ彼を包むように咲いている。
遠目からその光景を見ていたくて、庭の手前で眺めていた。
少し厳つい顔つきの男だ。
どうみても華奢というわけでもない。
しかし、白く浮かぶその姿を見ていると、花々の化身か何かのように見えた。
とても穏やかな気持ちになる。
・・・覗き見のようで良くないな。
そう思い立って、彼の方へ足を向けた。
すると彼は少し顔を上げ、首を傾ける動作をする。
僅かな足音を聞き取っているのだろうか。
こちらの位置を確認すると、手にしていたスコップをバケツに入れて立ち上がる。
「こんにちは」
話しかけてきたのは、彼の方だった。
「こ、こんにちは。また来てしまいました」
声だけで俺だと分かるだろうか。
少し不安に思うくらいなら、最初から名乗れば良かったと思った。
「菊田様ですよね。どうぞどうぞ」
覚えてくれていた事に、年甲斐もなく心が躍る。
「都丹さん、分かるんですか?」
彼はもちろん、と頷いた。
「菊田様の声はとても良いお声ですから、すぐわかっちまいますよ」
良い声と褒められて、胸が高鳴った。
今日、彼は白杖を持っていなかった。
バケツを片手に、それでも足元の花を踏まずに歩いてくる。
「杖は・・・」
思わず聞いてしまった。
「ああ、大丈夫ですよ。見えはしませんが、ここは慣れていますから」
前は念のため、持っていただけだという。
以前と同じ東屋の腰掛に2人に座る。
距離は人1人分。
彼は苦笑しながら話した。
「でもねぇ、やっぱり予測できない障害物につい躓いちまう事もあるから、怪我が絶えませんよ」
なんてことないと笑うが、とんでもない話だ。
「まさか、その額の傷・・・」
ああこれ、と自分の額をさすりながら言った。
「これは違いますよ。昔ちょっとね」
「昔・・・」
聞いても面白くないですよ、と笑う。
「土方様と一緒にね、まあ色々してましたから。何となく分るでしょう?」
「・・・なるほど」
土方様の旧知の仲間の1人。
こう見えて、昔はなかなかヤンチャな人だったのかもしれない。
いや、もしかしたら、普段はもっと砕けた話方をするのかもしれない。
きっとこの話し方も、余所行きのものだ。
「都丹さん」
「なんでしょう?」
「俺の名前に”様”は付けなくていいですよ」
彼は一瞬言葉に詰まる。
「・・・ご主人様のお客様にそのような・・・」
「いいんです。それに俺はそんな大したもんでもないですし」
少しだけ彼との距離を詰める。
その気配に気づいたのか、彼は少しだけ後ずさった。
「俺は土方様とは同業者じゃないんです。一介の警察官です」
ここで自分が役職が警部だと言ってしまうと、距離を縮めるのに邪魔だろうと思い、言わなかった。
「だから”様”なんてガラじゃないんですよ」
「ですが・・・」
「俺、都丹さんと友達になりたいんです」
ちょっと迫りすぎだろうか。
だが、少々押さないとこの人は『うん』と言ってくれないような気がする。
やれやれ、と首を振り、少し呆れたように言う。
「菊田様は・・・」
「…」
こちらの不満に気づいたようで、言い直してくれた。
「菊田さんはお若い方でしょう?会ったばかりの爺と友達になりたい、なんて・・・」
「年は関係ないでしょう?こんな素敵な庭を管理されている方だから、きっと良い方なんだと思ったんです」
「・・・素敵な庭ねぇ・・・」
おや、と思った。
そのぞんざいな言い方は、知らない彼を見られたようで嬉しくなった。
訝しく思っているに違いない。
「何か企んでいるとかではないですよ。本当に貴方と仲良くなりたいだけなんです」
言えば言うほど、彼の眉間に皺が寄る。
はぁ、とため息をついて、頷いた。
「よしてくださいよ、なんか口説かれてるようでむず痒い・・・」
図星だったが、決して口にはしない。
今は、まだ本音を言うつもりはない。
「あまり深く考えないでください。時々、ここでこうして一緒にお話ができればそれでいいんです。どうですか?」
「・・・まあ、それなら」
心の中で万歳三唱だ。
「よかった!」
自分の声が思わず弾んでいるのを感じた。
彼もそれに気づいて苦笑する。
「・・・物好きですねぇ」
頬杖をついて、こちらに向ける表情は、呆れつつも嫌がっている風では無かった。
「都丹さん、お時間大丈夫ですか?ああ、作業中でしたよね」
足元に置かれたバケツとスコップに目が留まる。
「いえ、別に大丈夫ですが、何ですか?」
「良かったら庭を案内してもらいたいんですが・・・」
すると彼は首をかしげる。
「案内って言っても、大した事はできませんよ。手を加えた、切った、植えたしか言えません」
「それでいいんです。貴方と歩きたいので」
・・・逢引の誘いっぽいな。
流石に引かれたか?
「そうですか。まぁ、いいですよ」
よし、深く考えてくれなかったようだ。
「では早速・・・」
いつもの女性にやる流れで、都丹さんの手を取っていた。
しまった・・・。
「え、えっと・・・」
何か言い訳をしなければと思っていたが、都丹さんは気にするでもなく立ち上がる。
行かないのか?という表情で、こちらに顔を向ける。
そこで気付く。
そうか、目が見えない彼だから、こういう扱いをされる事が良くあるのかもしれない。
え、なにそれ。
手を握っても問題ないって事?
思わず息を大きく吸い込み、ゆっくりと吐き出した。
十代の若者でもあるまいし、手を繋ぐくらいで何をそんなに興奮する事もあるかと思うが、年上の都丹さんの前では仕方がないような気がした。
小さく笑う声がした。
「どうしました?」
「い、いえ・・・」
「できれば次は、声をかけてから触ってくださいね。この通りなんで、驚いちまいますから」
「あ、そうですね。すみません」
こちらの動揺を見透かされているような気もしたが、考えないようにした。
都丹さんの手は少し冷たく、先程弄っていた土の粒の感触がした。
「・・・ああ!すまね…すみません。手を洗いましょう」
口調が一瞬乱れる。
都丹さんは慌てたように手を放そうとしたが、それを逃すまいと握り占める。
「気にしませんよ。さ、行きましょうか」
手は繋げた。
では、どこまで許されるのだろう。
ちょっと好奇心が疼く。
彼は隣の男から恋慕の情を向けられるなんて思ってもいない。
今はそれでいい。
彼の左手を握り、心地のいい声を聞きながら、春の庭を2人でゆっくりと歩いていった。
(3)
この屋敷の庭は、とにかく広い。
今日も都丹さんと手を繋ぎながら、庭を散歩していた。
今日も手を繋いで歩きながら、ちらっと見える柵の向こう側が気になった。
柵によって区切られた庭。
植物はあるものの華やかさが足りない気がした。
「ねえ、都丹さん。あっちは?」
立ち止まって、握っていた手をそのままに、そちらの方へ向ける。
「そっちは秋の庭園ですよ。今は秋に開花する花を植えたり、土壌を休ませたりしてるので、ちょっと寂しい感じでしょう?」
そうだね、と相槌を打ちながら、その庭園を見つめる。
「都丹さん。秋になったら是非あっちも案内してよ」
少し笑う気配がした。
「秋になっても来る気なんですか?」
「もちろん。友達に会いに来るのは当たり前だからね」
その頃には友達どころか、もっと仲が進展しているかもしれない。
手どころか腕を組んで、秋の景色の中2人で歩いているかもしれない。
ぎゅっと手を強く握る。
「どうかしました?」
「ちょっと都丹さんとの未来を思って楽しくなったんだよ」
「俺との未来?」
一人称が『俺』になってる。
少し動揺している気がした。
「…未来なんて…そんなもの…」
「はっきりしない?そうかもね。でも俺は都丹さんと秋になっても、ここで一緒に散歩してると思うよ」
苦笑しているが、それ以上何も言わなかった。
俺よりも年上の彼だ。
曖昧な未来を、子どものように信じられないのは無理はない。
でも、俺だって子どもじゃない。
「言ってしまえばそれは言葉として残るだろ?」
「言葉なんて形ないもんだろ。そんなものに確証はない」
「…少なくとも、都丹さんの心に残せるよ。今日、ここで散歩しながらした約束を…」
ぽつり、と彼はいった。
「…忘れちまうよ」
俺は言った。
「じゃあ、俺が忘れない」
いつの間にか都丹さんの敬語が取れていた。
嬉しく思いつつも、何故か寂しそうに見える都丹さんの事が気になった。
何を、彼は忘れたいのだろう。
その事に踏み込めない今の関係に、俺はもどかしく思った。
(4)
あれから仕事の合間を縫って、何度も彼に会いに行った。
我ながら涙ぐましい努力をしていると思う。
あの白い芝桜は、散り始めている。
変わりゆく景色と違い、彼は初めて会った時と変わらず、どこか掴めない雰囲気を纏っていた。
それでも、だいぶ親しくなれたと思う。
他人行儀だった口調はだいぶ取れてきたし、冗談を軽く言い合えるまでにはなれた。
もっとも、手を繋ぐ以上には発展していないのだが・・・。
「もうすぐ夏でも来ちまいそうな陽気だねぇ」
いつもの東屋で一休みしながら、都丹さんは首元の釦を1つ外す。
少し斜め前に座る俺の目に、飛びこむその光景。
一瞬、下世話な思考が頭をよぎり、持っていた水の入ったコップを煽った。
飲み切ってしまったコップを握りつつ、悟られないよう小さく息を吐く。
何か言おうと、肌に感じる気温のままに言葉を出した。
「たしかに、こう暑いと海に飛び込みたくなるな」
空は抜けるように青い。
夏の空のような高さは無い。
しかし今日の眩しい日差しは、肌を焼くだろう。
「海か・・・久しく行ってないなぁ」
「都丹さんは泳ぎは得意?」
さあ、と彼は言う。
「昔はそれなりに。この目になってからは全く泳いでねぇから…どうかな?」
「そっか。じゃあちょっと先だけど、夏になったら俺と海に行かない?泳ぎに不安があるなら、手を繋いで先導するからさ」
あわよくば、これをきっかけにして、更にお近づきに・・・という気持ちもないわけではない。
2人で旅行なんて、いいよなぁ。
都丹さんは笑う。
「おいおい、爺を海に誘うとか大丈夫か?いい人と行きなよ」
その”いい人”は貴方だから、誘ってるんだよな…。
ちょっと考えて冗談めかして言った。
「都丹さんと一緒なのが、いいんだけどな」
不意に笑顔が消える。
・・・まずい、踏み込み過ぎたか?
「あのなぁ、冗談でも言っちゃいけねぇ事があるぞ?お前さん、屋敷の女中達が良く噂してるのを聞くぜ?」
「噂?」
都丹さんは、暑いのか更にシャツの釦を外す。
思わず目が彼の胸元に向かう。
彼は見えていないから、気付くはずもなく話を続けた。
「菊田さんは”良い男”だってな。よくここに来るから、取りなしてくれって相談を受けた事もあるくらいだ」
・・・余計なことを、と思いつつ話を聴く。
「色男のあんたが、男相手の冗談でも、逢引の誘いなんかしちゃあいけない。折角の縁も消えちまうぞ?」
「俺は別に気にしないけどな」
「・・・より取り見取りだからか?」
違う、という意味で都丹さんの隣に座り直した。
「あのね、都丹さん。俺にも考えがあって独り身なの」
「考え?」
「そう、俺なりに考えているのさ」
近づいたからこそ、白い首筋が良く見えた。
無防備になっている胸元も。
役得ではあるが、自分がそういう対象だと思われてない事は、少し寂しい。
そこで、ちょっとだけ仕掛けてみる事にした。
「それに今はさ、こうして・・・」
触るよ、と声をかけて、彼の左手を取った。
自分の右の掌を滑らせるように合わせて、指を絡ませる。
びくり、と動いて彼は体を離そうとしたが、そのまま優しく握りしめると、その場に留まってくれた。
「こうやって都丹さんと、手を繋いで一緒にいるのが、今は一番嬉しいし、幸せなんだよ」
少しだけ、彼の白い頬が染まった気がした。
「・・・え・・・あ」
彼は何か言おうとして、言えなくて・・・。
「・・・ったく、何なんだよこれ」
やっと吐き出した言葉は、困惑しているようだった。
・・・これは、一歩進めたのでは?
本当はそのまま手の甲に口付けたいくらいだが、さすがに出来ない。
「・・・離せよ」
「それはダメかな。だって今日もこれから散歩でしょ?このまま繋いだ方がいいし」
「あのな・・・散歩んとき、こんな繋ぎ方しないだろ」
小さく「・・・友達は」と聞こえた気がした。
指と指が絡むように繋がれた手。
恋人繋ぎのようなそれ。
彼の手は開いたままだが、俺の手はしっかりと握りしめている。
都丹さんも握り返してくれたらいいのに・・・。
俺は気づかないふりをして、立ち上がった。
「ほら、行こうか」
「おい!」
言っても聞かないと諦めたのか、都丹さんも続いて立ち上がった。
「・・・強引だな」
あきれるように呟いた彼の手。
されるがままだったその手。
東屋を出た時には、握り返してくれていた。