犬も食わない「イコさん」
自分を呼び止める声に振り返る。そこには案の定、いや声の主から考えても他の人間がいたら困るのだが、やっぱり街頭に照らされた水上ひとりが憮然とした顔でこちらに向かって左手を差し出していた。はて、たった今「また明日な」と生駒のアパートの目の前で挨拶を交わしたばかりだと言うのにまだ何か用があるのだろうか。生駒は自身のアパートに向かいかけていた足を止めると名前の後に続くはずの水上の言葉を待つ。すっかり冷え込んだ夜道にはどこからか食欲をそそられる香りが漂ってきて、生駒の腹がクルクルと鳴った。今晩は丁度冷蔵庫に人参や玉ねぎが余っていたのでポークシチューにする予定だ。一通り具材を切ってお鍋にぶち込み、煮えるのを待ちながらお風呂に入るという完璧な計画まで企てている。せっかくだしこのまま水上を夕飯にお誘いするのも手かもしれない。うん、ひとまず水上の話を聞いたら誘ってみようかな。そこまで考えて辛抱強く水上の言葉を待ち構えていたのだが、待てども暮らせども水上は口を開くどころか微動だにすらしない。生駒は訳が分からず水上の白い掌と顔を交互に見比べた。
6262