天才達のチェス「モニカ、次はどんなお願いをするつもり?」
枝垂れた髪を一房指に絡ませて愉快そうに笑みを浮かべている。
声色は砂糖菓子を溶かしたみたいに甘ったるく、エリオットは思わず出そうになった舌を引っ込めた。
いつまで経ってもこの声色にはぞわぞわと鳥肌が立つ。
子リス相手だとあの殿下でさえ一筋縄ではいかないのはいい気味だが、いい加減にしてほしいというのが生徒会役員の本音だ。
本気で勝負の行方が気になっているのは、ニールとシリルくらいだろう。
二人はきっと分かっていない。
殿下がただ子リスを手懐けるためだけに彼女をこうしてチェスに誘っているということを。
ちなみにブリジット嬢は冷ややかな表情でそんな殿下を一瞥し、書物に意識を向けている。
会話のキャッチボールよりもチェスをしたほうが、子リスを慣らせるには効果的だ。
普段のことを思えば、それこそシリルのほうがよっぽど彼女と対等に喋れている。
厄介な人間に好かれたもんだと、エリオットは心の片隅で同情した。
対局が始まってしばらくすると、生徒会室の温度が急激に変化しはじめる。
子リスが故意に殿下を無視しているのではなく、単純に彼女の耳に届いていないだけなのだが、シリルはまだ納得がいってないようだ。
自分ならどんな小声であろうが、殿下のお声がけがあればすぐに反応できると。
視線や思考のすべてはチェス盤の上にあるなんて、常人には理解しがたいものだ。
でも子リスの悪癖はそうそう治せるものではないと知っているので、シリルの行き場のない感情が冷気となって惜しみなく溢れ出ている。
ただでさえ殿下の態度は鳥肌ものだというのに、その上冷やされるなんて勘弁したい。
「……誰かさんのせいで、俺はそろそろ暖かい紅茶が飲みたいね」
誰かさんの目がより一層吊り上がる。
このやりとりももう何回かのことで、そう何度も同じ手には乗らないぞと訴えている。
シリルが口を開こうとしたところで、ニールがくしゃみをした。
・・・・・
「……す、すみません。寒いとかじゃなくて、えっと」
正直者のニール、俺は密かにそう呼んでいる。
嘘も付けず、口を滑らせることも多い彼の無自覚な後押しもあって、シリルは紅茶を用意すべく渋々と部屋を出た。
「僕のせいで…」
ニールが申し訳なさそうに項垂れた。
「いいんだよ。なんだかんだ言っても、あいつは紅茶を淹れるのが嫌いじゃない」
以前、鼻歌混じりに紅茶の葉を選んでいたのを見掛けたこともある。
それを言えば、シリルはエリオットのお茶を用意しなくなる恐れがあるので、ここだけの話にしておく。
「……ねぇモニカ、僕が勝ったらきみに僕の名前を呼ばせるというのもいいかもしれないね」
返事がないことに痺れを切らしたのか、殿下がそう呟く。
すると、一瞬子リスの駒を持つ手が震え、エリオットは彼女の目付きが変わるのを見た。
一手、二手と尋常ならざるスピードで対局が進んでいく。
エリオットは自分のことを過小評価するつもりはないが、それでもこの二人を見ていると自分は凡人なのだと嫌でも理解する。
でも別にエリオットは天才になりたいわけじゃない。
チェスの駒同様、己の責務さえ全うできればそれでいいのだ。
ひやりとした空気が頬を撫で、エリオットはチェス盤から視線を上げる。
シリルが紅茶を淹れて戻ってきた。
殿下への一杯を淹れ、次に女性陣、その後渋々といった顔で俺の前にティーカップを置いた。
「茶菓子もなんて気が利くじゃないか」
ふんっと鼻を鳴らすシリルを尻目にエリオットは紅茶を啜った。
シリルは紅茶を淹れるのもそこそこの腕前だ。
様々な茶葉を用意しているものの、エリオットにはお気に入りの紅茶がいくつかある。
実家にいるときはばあやが淹れていたが、学園での生活が長いこともあり、すっかりご無沙汰だ。
今度実家に手紙を書いて、茶葉を手配しよう。
そして、シリルに淹れさせればいい。
シリルはきっと、烈火のごとく騒ぎ立てるが最後は必ず淹れてくれるだろう。
そういうやつだから。
友人ではないと言いつつも、エリオットはシリルのことをよく理解している。
だから少し離れた位置に座ってティーカップを持つシリルを見ながら、彼の配慮が無駄にならないよう、早く勝負の決着が着くことを願った。