『坊っちゃまとメイド』冒頭sample~はじめまして、坊ちゃま~
僕はエリオット・ハワード、八歳。伸びしろたっぷりの少年である。
そして対する目の前の、僕が知りうるばあやという存在にはちっとも見えない若いメイド服を着た女、名をリィンズベルフィードという。
この人物が現れたのは、三日前に遡る。
それは平凡な日々の終わりであり、非日常の幕開けでもあった。
「つまらないな」
友達(アーク)と会えなくなって、エリオットの日常はまた退屈なものに戻った。
(本当は友達と言うには軽々しすぎる相手なのだが、本人が気にしないと言ったのでエリオットはそれに甘んじている)
その友達が重い病気を患ったので、しばらくは会えないと突然父から言われた。
まだ子供で重い病気という意味を理解していなかったエリオットは数日経てばまたいつものように遊べると思っていた。だけど、三日、五日、一週間経っても事態は変わらない。
屋敷を抜け出して様子を見に行くほどの勇気もないエリオットには、ただ日々をぼんやりと過ごすことしかできずにいた。
家庭教師から渡された宿題を前にペンをくるりと回してみて失敗。ペンから零れたインクが紙を汚した。じんわりと染みていく黒いインクは拭ってみても滲むだけで完全に消えるわけじゃない。
完全に気が削がれてしまったエリオットは本当に不意に窓の外を見た。
そして、目を疑った。
「は?」
普段エリオットの世話を焼いているばあやが居たなら、「そんな口調では旦那様に怒られますよ」と小言を言っていたに違いないだろう。
でも、そんな声が出たのは無理もない。この屋敷を取り囲む鉄の柵、決して低くはないのだが、そこにしがみ付いている人間がいたのだ。
見間違いかと思って、一度目を擦ってみたが、その残像は消えない。不審者であろうか。ハワード家はそこそこな地位にある貴族である。が、盗人が現れるほど治安が悪い土地柄ではないはずだ。
このときのエリオットは、そんな謎めいた出来事に不謹慎にもほんの少し心がわくわくしていた。
そしてこうも思っていた。ようやく友達に手紙を書けるような出来事が起きた、とも。
何を隠そうエリオットは木登りが得意なのだが、幸いエリオットの部屋は一階にあり、窓を開ければなんなく外に飛び出した。
宿題なんて退屈なものは頭からすっぽり抜けて。
新緑が眩しい芝を真っすぐに駆け抜けるのではなく、見つからないようにこそこそ遠回りしてエリオットは手入れされた庭園の木の裏に隠れた。
遠くからでは分からなかったが、随分と変わった不審者である。陽の光を浴びるときらりと輝く金色の長い髪、少し汚れた質素で見たことのない衣服を身に纏い、性別の判断が付かない容姿をしている。
不審者は、ただぼぉっと屋敷の中を見るばかりで、特段怪しい動きはない。
そもそも他人の家を覗いている時点で十分怪しいのだが……。
エリオットも同じように屋敷のほうを向いているが、ただ庭師が木を剪定し水遣りをしていたり、使用人が干していたシーツを伸ばしていたり、特に何も面白みのない光景しか見えない。
(一体、何が目的なんだ)
そんなことを考えていると、
「なかなか見ているだけではわかりませんね」
不審者が言葉を発した。声色は不思議な響きで、やはり女か男かの判断はできない。エリオットは息を殺して動向を窺った。
「時にそこのお方、貴方はここの家の者ですか?」
エリオットの肩がびくりと揺れる。
(気付かれた⁉ いや違う、きっとはったりだ)
口をぐっと押えて、また息を殺す。
「エリオット坊ちゃま~~」
どうやら部屋から抜け出したことがばれたらしい。使用人が自分を呼んでいる声が聞こえた。
「なるほど、ずばりそこにおられるのはエリオット坊ちゃまですね」
まるで名推理を披露するかのような物言いである。ここまでバレてしまっては致し方ない。渋々エリオットは姿を見せた。
「お前は何者だ」
その言葉に柵にしがみ付いていた手を離し、不審者はするりとエリオットの前に降り立った。
「何者、その問いは非常に難しいですね」
眉一つ動かさず顎に手を当て、うんうん口で唸る。
「……じゃあ、何が目的だ」
「あぁそれなら単純明快です。私メイドという職業に興味がありまして」
メイド。こいつのいうメイドが使用人のことを指すなら、エリオットは馬鹿にされているに違いないと憤った。こんなふざけた不審者がいるもんか。
「そんな嘘誰が信じるか」
キっと垂れ目を必死に釣り上げて、自分より遥かに大きい人物を睨みつける。
「私は本気なのですが、難しいですね人間は」
「俺が大声を呼べばたくさんの人間が来るぞ。それが嫌ならもっとましな答えを言え」
「今時の子どもはこんなにツンケンしているものなのですね」
こちらの脅しにも思える言葉もまったく気にする様子もない。
「それではエリオット坊ちゃま、私お伺いしたいことがございます」
「なんだ」
「メイドというのはどうしたらなれるものですか?」
なかなか天邪鬼な性格をしているエリオットだが、問われたことにはきちんと答える。
「誰かに雇われればいいんじゃないか?」
「なるほど。特別な資格が必要というわけではないのですね」
「立派な屋敷に勤めればそれ相応の箔もつくけどな」
「立派なお屋敷……はて」
顔色も変えずにこちらの言葉を反芻する姿を見ていると、何と話しているのか分からなくなる。
「まぁ、もちろん俺の家なんかは立派だな」
そう言うと、ぽんっと手を叩く。
「……エリオット坊ちゃま、私を雇っていただけますか?」
その不審者を前に、エリオットはまた口の悪い言葉を発した。
「は?」
「坊ちゃま~」
使用人の声はすぐそこまで来ていて、エリオットはそちらに気を取られた。
「まったく! 勝手に屋敷を抜け出してはいけませんと散々申し上げていますでしょう」
「違う。僕はこの不審者を見つけて……」
振り返れば、そこには誰もいない。忽然と不審者は姿を消していた。
まるで初めからそこには何もいなかったかのように。
結局、部屋に戻って、ばあやという見張りがついたまま宿題をした。別に難しくはなかったのだけど、先ほどまでのことが幻とは思えなくて、無駄に時間が掛かってしまった。
その二日後。
苦手な野菜を添えた朝食。父が居るときは、嫌でも食べなくてはならないのだが、今日は居ないから食べなくてもいい。
そんな勝手な理論を持って、エリオットは食事を終わらせた。食事が終わりナプキンで口を拭ったところで、
「坊ちゃま」
野菜を残すなんて、そうばあやの小言が始まるなとぼんやり顔を上げると、
「おまえは……」
呆然と呟いた言葉は幸いばあやには届かなかった。
エリオットの目の前にはばあやとそれから使用人と同様の衣服に身を包んだその人物はあの不審者。
「今日から、新米のメイドが入りました」
どこから突っ込めばいいのか、分からない。
「坊ちゃま。リィンズベルフィードと申します。今日からここで立派なメイドになるべく、修行させていただきます」
「……いや、ないだろ」
きょとんとする不審者兼メイドは首を傾げた。
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拝啓 愛しいカーラ
手紙を書くのは初めてです。きっと貴女も精霊から手紙を受け取るのは初めてでしょう。この手紙が二人にとって特別なものになるに違いありませんね。
私は今、立派なメイドになるべく、修行に励んでおります。
貴女の生意気すぎる弟子が仰った通り、私はまだ人間という生体を理解しておりません。それ故に貴女不在の家を守るにはまだまだ技量と知識が足りないことを自覚しました。
というわけで、私はとある屋敷のメイドとして働いています。
初めてのことばかりですが、早速貴女の弟子によく似た坊ちゃまと仲良くなりました。
これなら貴女の元に帰るのもそう遠くはないようです。
私が戻るまでお体にはくれぐれもお気をつけて。
リィンズベルフィード
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「お前、一体何が目的だ」
メイド長、言わば上司に言い渡された窓拭きをしているリンを問い詰める。
「エリオット坊ちゃま、いかがいたしましたか」
眉をぎゅっと寄せて、いかにも不機嫌な顔をしているのだが、リンにはそんなことは分からない。
「だから、一体何の目的でうちのメイドなんかに」
「言ったではありませんか。私は一人前のメイドにならねばならないのです」
「それは聞いた……ほんと、なんでお前雇われたんだ」
「あぁそれでしたら、あの後私は街に向かいました。「買いすぎてしまったわ」と荷物をたくさん持ったメイド長と出会ったのです。荷物持ちをかってでた私は道すがら住むところも帰るところもない身の上を離すとメイド長が住み込みのメイドの話をくれたのです」
エリオットは驚いていた。よもやメイド長がそんな嘘めいた話を信じるとは思わなかったのである。
この不審者も最初に見た時の服は奇妙だったし、そのみすぼらしい恰好を見て、彼女は放っておけなかったのだろうか。
しょっちゅうエリオットを諫め叱り、それこそ実の肉親よりも甲斐甲斐しく世話を焼くばあや(というにはまだ若く、歳は四十三歳である)は確かに時々甘いから。
「……仮にあいつがそう言ったとしても、僕はまだお前のことを疑ってるからな。見張って、怪しい動きをしたら、追い出してやる」
くっと最大限に鋭い目つきを向ける。
「……エリオット坊ちゃまはお年の割に随分と難しい言葉を知ってらっしゃいますね」
ゴォオオン。今戦いのゴングは鳴った。
僕と、メイドの非凡な日常という名の戦いのはじまりである。