水底「ウィルディアヌ、ここ、とっても水が綺麗よ」
柔らかな日差しを受けた水面を掬い上げて、主人は笑う。
初めて出逢ったときの彼女を思い出して、ウィルディアヌはほんの少し目を細めた。
「そうだわ。貴方もたまには羽を伸ばすべきよ」
主人が言わんとする意味を理解して、首をゆっくりと振る。
「いえ」
「大丈夫。ここは普通の人は入って来れない場所だもの」
自分の浅はかな行動や言動のすべては、主人の弱みになる。特にここは何が目を光らせているか分からない、味方のいない場所だ。
ウィルディアヌにとってアイリーンの立場に影響を与えることが一番耐え難いもの。
だから決して悟られないよう、隙を見せないように、そう常日頃から思っているのだが……。
そんなふうに躊躇する従者を見慣れている主人は時に大胆な行動で彼のしがらみを有耶無耶にさせるのが上手である。
もう一度水を掬いあげると、
「えいっ」
ウィルディアヌに向かって水を掛ける。
「……おやめ下さい、アイリーン様」
「貴方がちゃんと水浴びをしたら止めてあげるわ」
無邪気にそう笑って、パシャパシャと水を掛ける。
そのたびに、僅かに捲り上げた主人の袖がじんわりと濡れていく。
まず、長袖を捲り上げるという行為も大臣達からすれば、はしたないとお叱りを受ける対象になってしまうというのに。
「はぁ……」
ため息というのは気苦労などから思わず出る吐息らしい。
精霊には感情を表す術はない。
なので、彼は人間の仕草を学び、真似事ではあるけれど意味を理解して使おうと心掛けている。
つまりは今のため息はまさにこの状況に対する感情表現の表れだ。
「あら、だめよ、ウィルディアヌ。ため息をつくと幸せが遠のくというわ。早く吸い込んで」
もちろん、そんなものは伝承なのだが、従者はそれを知らない。
まさかそのような作法があったとはと、疑うことを知らない彼は言われるがまま、自分が吐き出した分のため息なるものを吸い込んだ。
それから、従者としての言葉を続けた。
「今日は、午後からお茶会の予定が入っております」
「えぇ、そうね。尚更急がないといけないわ」
まったく譲る気のない主人に、思わずもう一度零してしまいそうなため息を飲み込む。
そして、渋々諦めて、その身を白いトカゲへと変化させた。
アイリーンは嬉しそうに彼を抱え、水面へと下ろす。
ウィルディアヌは彼女の手のひらから離れ、そろそろと水の中を泳ぐ。
「水が綺麗だから、貴方の姿がとってもよく見えるわ」
(わたくしも貴方様の美しい金色の髪がきらきらと輝いているのが見えます)
水面から顔を出すと、心底嬉しそうに微笑む主人と目が合った。
自分とは違う美しい水色の瞳が瞬く。
瞳には無力で小さな白いトカゲが映っている。
人間の姿で居た方がアイリーン様の役に立てるはずなのに、彼女は度々ウィルディアヌが白いトカゲになることを望む。
本音を言えば、この姿で居る時は少し歯痒い。
けれど、その水色の瞳を見つめていると、色々な思いは流れ、反対に乾いた地面に水が染み込んでいくように、何かが満ちて、結局は主人の求めるまま、ウィルディアヌは応えてしまうのだ。
「どうかしら。少しは羽を伸ばせた?」
無邪気に差し出された手のひらにそっと、歩み寄る。
(わたくしは、アイリーン様の瞳が映す世界を、叶うのならいつまでもお傍で見ていたい。そう望むことをお許しください。)
ささやかで切なる願いは静かに生まれた。
ウィルディアヌは、自分の中に芽生えた想いを表す言葉をまだ知らない。