愛してる世界は平和になった。昔のRPGのエンディングに表示されそうな現実に荒船は目眩を催す。
戦うべき敵は全て撤退し、文字通り三門市は平和になったのだ。そうなると、わざわざボーダーという組織に集まる理由はなくなる。今後また近界民が襲ってくる可能性もあるとはいえ、全盛期のように巨大である必要はなくなったのだ。
大学を卒業しようという時期の荒船は、ボーダーへの就職を望んだ。人数が少なくなったぶん、少数精鋭としての人材の質をあげるための育成係に選ばれたためだ。
対して、同年代の友人らは残る者もいれば自らの道を選ぶ者もいた。
特に県外からのスカウト組はあらかた地元に帰る選択をしたようだ。
荒船と交際していた水上も、その一人だった。
物理的な距離を挟んだまま交際を続けることと、ボーダー活動の両立は、荒船の立てる理論の中では不可能なものだった。水上の意見も同じだった。
満場一致で「離別」の結論が出て1週間後、水上が大阪に戻る新幹線の切符を買ってきた。
「荷物置いてくなよ」
「せやな」
いざ水上が荒船の家から持ち出した私物は、キャリーケースの半分程度に収まるものだった。歯ブラシやら消耗品はさておき、せいぜいパジャマとして置いていた服と夜更かしして泊まった時の私服程度だ。自分たちは何年付き合ったかとふと疑問に浮かんだ荒船がカレンダーを見れば、付き合った年より4年進んだ数字が書かれている。
4年の結果は、45リットルの半分にも満たない空間しか埋め尽くさなかった。なんだか胸が冷え切る思いだ。
全ての荷物をまとめ終わったあと、水上は普段と変わらない表情でキャリーケースを縦にした。中でがさりと音がする。半分からなんだからもっと固定しろと苦言を呈したくなったが、やめた。もうそう言うのは終わりの時期だ。
「荒船」
「なんだよ」
真っ直ぐ見つめてもそらされることがない金色は、一瞬揺らめいた。交際して初めて見たかもしれないその現象に荒船は目を見張る。
「次会えるのはこっち遊びに来た時か、お前が来る時ぐらいやろ。なんか言うとくことあるか?」
言うとくこと。
そんな言葉に、荒船は再び目眩がする。
何を言えばいいかと達者な脳みそは考えているようだ。しかし出てこない。まるで酸素を掬い損ねたようにただ口が乾いて肺が痛くなった。喘ぐように呼吸をしていると目頭が熱くなる。
きっと情けない姿をしていると、荒船は口元を抑えた。震える唇が指の腹に当たっている。
「愛してる……」
今にも沸騰しそうなほど煮えたぎった脳みそが吐き出したのは、それだけだった。
別れたくない、も、行かないでくれ、も、何も出ない。ただ過去形にしたくないその言葉だけが零れてしまった。
愛してるなんて、1度も伝えたことは無かった。愛していたのに、わざわざ伝える必要なんてないと思っていた。どうしてその言葉が出たのか、荒船は分からなかった。
「……」
視線の先の水上は微かに首を横に傾げ、それから人差し指を立てた。見慣れた髪がふわっと揺れる。それは水上が良くする、聞こえなかった時のもう一度を催促する動きだった。
____良かった、聞こえなかった。荒船の心は安堵の波に包まれる。もう2度と言えなかったとしても、何故か安心した。
きっと同じ言葉を返されても返されなくても、涙が出てしまう予感がしていたから。
今度はちゃんと、息が吸えた。
「…元気でな」
水上は縦に首を振って頷いた。
熱い目頭から涙は零れていないだろうか。最後に見せる顔がそんなに情けないなんてやってられない。そう荒船が目元を手で隠そうとする合間に、水上の声が響いた。
「愛しとる」
確かに聞こえたその言葉に、荒船の目が見開かれる。
*
紫色の瞳が大きく見開かれて、いつ零れるかと見ていた涙がついに床に落ちた。
それと同時に荒船は目元を抑える。もう見えてしまった涙は彼の手を辿って、ぽたぽたと音を立てていた。
「聞きたくなかった」
震えている声はそう言った。
そうだろうなと思った。どうせ言っても言わなくても結果は変わらないはずだったのに、言ってしまったからよけい悪化した。
「俺も言いたくなかったわ」
目の前の荒船は未だに目元を押えている。何も見ないようにと、口と耳だけに集中している。
そんな今ならいいかと、水上は強ばらせていた顔の緊張を解いた。
途端に頬が冷たくなった。音を立てずにただ、冷たい涙が下に落ちる。
「さいていだお前……」
そうやな、最低やな。
もう俺達にはそんな言葉、言うだけで聞くだけで辛いだけなのにな。
分かってるはずなのに、なんで口が動いたのか水上は分からなかった。
ただ4年の月日の中で今が1番、愛してると言えるタイミングだっただけだ。お互い強がりで言葉足らずな俺たちに訪れた、最初で最後の緩みだ。
「もう行くわ、荒船も元気でな」
濃い茶色の髪を最後にと触れば、いつもと変わらない柔らかな感触がした。微かに巻きついてきた毛先が、プツリと切れる。
片手に引っ提げたキャリーケースはひどく軽い。
大阪までの片道切符をポケットから取り出して、水上はため息を吐いた。
切符の後ろから、もう1枚同じものが顔を覗かせている。要らなくなったそれを公園のゴミ箱に捨てて、見慣れた道路でキャリーケースを引いた。