知らん外国人に突如話しかけられる奥村燐の話奥村燐、15歳。
京都にて知らない外国人に話しかけられ、人生最大の危機を迎える。
「Мне очень жаль, что я обратился к вам неожиданно.
Не хочу показаться грубым, но разве вас не зовут Эгин」
(いや、誰だよこの人……あと何語だよ……)
明らかに英語ではない言語であるし、そもそも燐は英語でさえ小テストで驚異の1点以下を叩き出したどころかアルファベットでさえ怪しいのだ。塾の仲間たちとの勉強会でこれでもマシになったが。そんな彼が英語よりもさらに難易度の高い他言語などわかるはずがない。外国人など、白人も黒人も黄色人種も関係なく、日本語以外を話していたら十把一絡げで「外国人」と認識する程度の解像度しか持ち合わせていない。おそらく大多数の他の日本人も同じだろうが。
彫りが深い端正な顔立ちと濃いヒゲ、白人の歳など判らないがおそらく初老くらいの年齢だろうか。もしかしたら養父と同年代かもしれない。そんな男がかなり必死に話しかけてくるのだ。無下にはできなかった。
「Я очень извиняюсь за то, что внезапно прервал вас. Но, пожалуйста, не могли бы вы выслушать то, что я хочу сказать」
(た、たのむ……雪男、早く終わってくれ……)
こうなったらもう半泣きになって弟の助けを待つしかない。ちなみに今は不浄王との一件を終えて蟠りが解けた塾生たちと一緒に京都見物をしている最中。塾生たちは皆それぞれトイレに行ったり電話がかかってきたり飲み物を買ってきたりで偶然にも燐一人が手持ち無沙汰になったのだ。監視は良いのかという話だが、実は雪男が燐のすぐ隣で電話に出ていたので無問題である。
口調からして仕事の電話だろうか。服の裾を引いて涙目で訴えかけてみたが反応は芳しくない。一応視線で把握してくれてはいるが、終わるまで待てというジェスチャーしか返してくれないのだ。
冷や汗を流しながら何とか場を持たせようとオロオロしていたその時、雪男がピッと通話を切ってこちらに向き直った。
なお余談だが、この瞬間に雪男が切り替えて貼り付けた営業スマイルが天界から舞い降りた天使の微笑に見えたのは秘密である。
「Извините. Я брат этого человека. Он не понимает по-русски, поэтому я отвечу за него(失礼。僕はこの人の弟です。彼はロシア語が分からないので僕が代わりにお答えします)」
「!」
「う、うぇっ!?ゆき、おまっ、わかんの?」
「ロシア語だよ。日常会話程度なら何とかいるから大人しくしてて」
ここでようやくこの外国人が話していたのがロシア語で、彼がロシア人だったということが判明した。
「Вы понимаете по-русски(貴方はロシア語が判るのですか)」
「Я могу говорить, но только в повседневной беседе……(日常会話程度ですが……)」
日常会話程度と言っておきながら非常に流暢なロシア語である。日本人と言えば外国語に弱いというステレオタイプがあるが、それに当てはまらない者もいるのだと驚くロシア人と雪男は淡々と話を詰めて行った。
「Мне очень жаль, что я обратился к вам неожиданно. На самом деле, он был так похож на друга моего деда, что ......(本当にいきなり話しかけてすみません。実は彼が私の祖父の友人にあまりにも似ていたので……)」
「Мой брат похож на друга вашего деда Это правда(僕の兄がお祖父様のご友人に似ていた?それは本当ですか)」
「Да. У меня есть фотография, чтобы показать вам.(はい。ちょうど写真があるのでお見せできます)」
何を話しているのかは知らないが、言語が通じる相手に会っためか急に安心したように肩の力を抜いて落ち着いて話し始めた。
(何話してるんだろ……?)
「奥村くん、どないしはったん?」
「お、志摩」
弟が何を話しているのか理解できず、ひたすら首を傾げて雰囲気で掴み取ろうとしていた燐だったが、戻ってきた志摩に唐突に話しかけられて集中が途切れたらしい。慣れた日本語で話しかけられてそちらの方を振り向く。
「いや……なんか、知らねえ人に急に話しかけられて……今雪男がロシア語で話してる」
「うえっ、マジで?センセェ、ロシア語話せんの……」
ドン引きしたような表情で口元に手を当てる志摩。なお彼の英語の成績も人にお見せできないレベルのものである。本人は燐よりマシと言うが勝呂に言わせれば五十歩百歩というやつだ。
「兄さん、ちょっとこっち」
「ドウモ、コンニチハです」
「えっ」
ロシア人が急にカタコトの日本語で話しかけてきて、驚いて固まる燐。今までずっとロシア語だったのだからてっきり日本語が判らないのだと思っていたので、驚くのも無理はないだろう。
「兄さんが自分のお爺さんの昔の友達に瓜二つでびっくりしすぎて、咄嗟に日本語が出てこなかったんだって」
「ホントごめんネ……」
「あ……うん、それはいいんだけど……」
唐突に手招きされて会話に混ざれと言われ、困惑しながらもおずおず雪男の隣に並ぶ燐。
「きみホントにワタシの祖父の古い友人に似てたから、ビックリしたネ。急に話かけて怖い思いをさせてゴメンネ」
「へっ?あ、いや。俺も全然答えられなくて、なんかすんません……」
「でもホントに似てるよ。ホラ、これ」
と言われて差し出されたスマホの画面には、古い写真をスキャンしたと思わしき画像があった。その中にいた人物の一人が目に留まり、息を呑む。
「え……これ、俺……?」
……似ている。どころではない。これで血縁関係が無いと言われた方が信じられないほど燐にそっくりだった。経年劣化もあったし元々白黒写真なので解像度は今の写真と比較にならないほど低いが、それでも似てると感じるのだから瓜二つと言われても否定できない。
髪色も彩度から写真の中の人物は赤毛かブルネットだし、顔立ちも燐より彫りが深いくパーツを注視すれば他人だと判る。しかし全体的に見たら本当によく似ているのだ。奥村兄弟の年上の従兄弟と言えば信じてしまいかねないほどに。
「ネ?ネ?そっくりデショ」
「マジかよ……」
「この人、ワタシの祖父の古い友人。隣にいるのがワタシの祖父ネ。だいたい100年前くらいの写真。これ一枚しか残ってないって、ワタシの祖父、いつも悲しそうに話してくれたから覚えてる」
「一枚しか……?」
「そう。この人、エギンていう。祖父と仲良しだった。実のお父さんがどこかの貴族だったらしいけど、エギンさんは全然関係ない普通の家で育った。でも革命で祖国追われた。命からがら逃げ出して、東に行ったらしいけどそれっきり。生きていたのか死んだのかも判らなかった」
「……エギン?」
なぜだかその名前をつい最近聞いたような気がして記憶を転がす。ほどなくして既視感の正体に行き着いた。
「僕らはエギン姓ではありませんが、母がユリ・エギンという名前だったと聞いたことがあります」
「ユリ!実はこの祖父の友人も名前がユーリィって言うらしい!それでお母さん、今どこ?」
「残念ながら……僕達が産まれてすぐに亡くなったそうです。というより、母の名前もつい最近になって知ったくらいでして……」
「そうですか……でもエギンさん、日本で生きてたかもしれないと判っただけ良かったです。ロシア帰ったら祖父の墓前に報告します。エギンさんのこと、ワタシが小さいときに亡くなる直前までずっと気にしてたからネ」
少し悲しそうな表情をしたが、すぐにパッと表情を明るくして礼を述べる。
「ありがとね。君たち兄弟のこと、祖父の墓前で言っても良い?」
「あ、うん。俺は別に良いッスよ」
「でも、僕達の母方の先祖が本当にお爺さんのご友人だったかなんて判りませんよ。もしかすると他人の空似だったかもってことも……」
「それでも良いです。遠く離れた日本で、祖父が昔語ってくれた友達と同じ名前持ってる人の子供がいたてだけで、ワタシのおじいちゃんきっと救われるから」
「そうですか……あ、もしよければその写真、僕の携帯に送っていただいても?」
「イイデスヨ!そのくらいお安いご用です」
そのあと彼は雪男の携帯にその写真を送り、兄弟とにこやかに握手した後に去っていった。
「……ところで革命って何?」
「えっ、そこから?」
「ロシア革命。100年くらい前にロシアで起きた革命です。二月革命で当時の皇帝だったニコライ2世が退位したことで帝政ロシアが崩壊して、次の十月革命でソ連が誕生したところまでを纏めてロシア革命と言うんです。今度世界史で習うでしょうから、奥村くんも志摩くんも覚えておいて損は無いと思いますよ?」
「うぐっ……よ、余計なこと言うんじゃなかった……」
「……当時国外に亡命した白系ロシア人の中には日本に逃れた人もいたらしいし……その中にいたとしてもおかしくはないな……」
送られてきた写真の中で穏やかに微笑む「エギン」という青年をじっと眺めながら、雪男は一人ボソッと呟いた。写真を見る限りでは革命や争い事と縁があるとは思えない、穏やかで優しげな青年だ。どことなく漂う気品は彼がどこかの貴族の庶子だからだろうか。あと十年ほど成長した燐がもう少し落ち着きを覚えて賢そうな表情をしていたら、ちょうど写真の中の彼のようになるのかもしれない。
思わぬところで手に入った「ユリ・エギン」に纏わる可能性の高い情報。名前からして純粋な日本人ではないと思っていたがなるほど。革命で祖国を追われた白系ロシア人の末裔だったのなら色々な部分に辻褄が合う。
「……雪男?」
「あ、うん。何でもないよ」
弟から漂う不穏な空気を察したのか、訝しげな表情で首を傾げる燐。しかし雪男はパッと営業スマイルを貼り付けて事務的に対応するだけだ。
「それよりも皆さん遅いですね……何かトラブルでもあったのでしょうか」
「あー、それがトイレがめっちゃ混んでまして……たぶんそろそろ帰ってきやると思いますし、このまま待っといた方がええんとちゃいます?すれ違いになっても面倒やし」
「それもそうですね。では待ちましょう」
「……うん」
少し気になるようだが燐も控え目に賛同する。ちなみに志摩は電話がかかってきたのでその場を離脱したため、トイレの混雑には巻き込まれていない。
(これ、報告しといた方がエエんかなぁ。まー、さっき電話切ってもーたしかけ直すんもメンドイし……そもそも精度がゲロ低い情報やしな。やめとこやめとこ)
……要するに、イルミナティへの定期報告の時間だったので離脱したのだが。
(雪男……気のせいじゃねえよな……?)
弟の様子がどことなくおかしい。言葉では表せないがそう感じたのだ。まるでエンドウ豆が敷布団の下に入り込んだような気味の悪い違和感。放置すれば間違いなく大きな亀裂が入る前兆のような。
「……俺、英語頑張ろうかな」
「その前に日本語の勉強をした方が良いと思うよ」
「ひでぇ!もうちょっとオ、オプション?に包めよ!」
「酷いのは兄さんの国語力と語彙だろ……」
不意に感じた不安を払拭しようと口にした思い付きの目標は、しかし当の弟本人の手によって鋭利な刃物として突き返されてサクッと刺さった。兄が残したいっそ伝説と言ったほうがまだ救いのある暗澹たる成績を思い出し、若干こめかみに青筋を浮かべる雪男。今のもおそらく「オブラート」だと言いたかったのだろう。たぶん。
今はまだ、兄弟同士でこんな軽いやり取りができる頃。しかし歪みが正されないまま時間が経ち、やがて歪みを許容できなくなったら……その時は。
END
2024/08/02
※最初の部分翻訳
Мне очень жаль, что я обратился к вам неожиданно.
Не хочу показаться грубым, но разве вас не зовут Эгин
→突然呼び止めてしまって申し訳ありません。失礼を承知で伺いますが、貴方はエギンというお名前ではないでしょうか。
Я очень извиняюсь за то, что внезапно прервал вас. Но, пожалуйста, не могли бы вы выслушать то, что я хочу сказать
→邪魔をしてしまって本当に申し訳ないと思っています。ですがどうか私の話を聞いて頂けないでしょうか。