果実と駆け引き目の前には、山盛りの果実が乗せられたボウルが一つ。
「……えっと、なにこれ?」
「おやおや☆ あなた、サクランボもわからないので?」
「いや、それは判るんだけどさ……なに? 急に呼び出したと思って来てみたら……」
呆れたようにジト目になってメフィストを見る燐。ボウルの中にこれでもかと詰め込まれたサクランボとこの後見人との関連性が判らずに困惑していたのだ。確かにそろそろシーズンだが、この悪魔がまさか自慢のためにわざわざ呼ぶはずない。いや、あるかもと思ってしまった。
艶を纏った瑞々しい果実。つるりと舌触りが良さそうだ。見ただけでも果汁をたっぷり身の内に抱えていそうで、かなりの品だということは判る。
「こちらは山形県産のサクランボです。大変高品質な部分ばかりを集めた、大変高価な品です」
「はあ……」
やはりかなり高価な品だったらしい。ボウルの中に無造作に盛られた小さな果実は、スーパーで半額になったアメリカ産のおつとめ品とは天と地ほどの差のある品だ。サクランボを含めて大抵の果物類という嗜好品は、たとえ安くなっていても買おうかどうか悩み抜いてしまう燐にとって面白い話ではない。
くそ、セレブめ。と心の中で悪態をつく。だったら小遣いをもっと上げてくれれば良いのにという苛立ちは腹の中でプチッと潰す。
まさか自慢のためだけに呼び出されたというわけでもあるまい。
「私が今から提案するゲームに勝ったら差し上げます」
「え」
まさかの太っ腹な提案であった。いったいどういう風の吹き回しだろう。一見美味しい話だが、しかし少し待て。こういう都合の良い話には何らかの裏がある。タダより恐ろしいものは無いと幼い燐に諭した獅郎の言葉を思い出して気を引き締める。
「そんなに難しい話じゃありませんよ。手を使わずに口の中でサクランボのヘタを一つ結びにしてごらんなさい☆ 貴方、器用だし簡単でしょう? 初期費用としてそのボウルの中にあるサクランボをお一つプレゼントしますので、やって見せてください」
「ああ、なんだ。そんなんで良いんだ」
いつものような人を小馬鹿にするニヤニヤ嗤いで燐に提案したメフィスト。それに対して燐はきょとんと瞬き一つ。あっけらかんと頷いて、何でもないことのようにひょいとサクランボを一つ口の中に放り込んだ。
これに驚いたのはメフィストである。まさかここまでリアクションが薄いとは思わなかった。いくつかパターンを想定していたのに、そのどれにも当てはまらない行動を取られて面食らう。
「…………」
モゴモゴと目を閉じて口の中に集中する燐。
さてどうしたものかと思案する。
こんな俗説を知っているだろうか。いわく「サクランボのヘタを口で結べる奴は、キスが上手い」と。
丁度諸事情でサクランボを大量に入手する機会があって、メフィストはふと思い付いた。どうせなら燐にさせて試してみようと。
知っていたらこの判りやすい末の弟のことだからメフィストの思惑に気付いて赤面して怒るだろうし、知らずにやったとしても困惑しながら舌の上で結んだサクランボのヘタを確認して真実を教えて恥ずかしい思いをさせられる。
どっちに転んだってメフィストにとっては非常に美味しい状況。リアクションを見る限りおそらく後者だろうが。
しかしこうも反応が薄く、ごく自然体で何でもないことのようにされると面白味がないのもまた事実。つまらなさそうな表情で頬杖を着いたメフィストだったが、そのとき不意に目を開けた燐が静かに歩み寄る。
「おや、なんです」
いつものように執務机に向かって椅子に腰掛けていたメフィストが燐の突然の行動に気付いて背筋を伸ばした瞬間、ぐいっとスカーフを引っ張られて息が詰まった。
犯人は燐だ。彼がメフィストが首に巻いていたスカーフを掴んで問答無用で引き寄せたのだと気付いて、文句を言おうと口を開きかけたそのとき──声をねじ伏せるようにして燐の唇が薄く開きかけていたメフィストの唇を塞ぐ。
「!?」
硬直。なにせいきなりのことで、メフィストにとっては予想外にも程があったのだ。突飛な行動に驚いて目を白黒させている間にも、いやそれゆえに燐はふっと目を閉じて口吻を交わしたまま好き放題し始める。
「ふ……ん……」
ちゅう、とぎこちない動きで吸い上げ、相手の舌先をぺろりと舐め上げる。よくぞまあサクランボを口に含んだままそんなことができるものだと感心した。
まさか丸ごと飲み込んでしまったのかと思ったがそんなわけもなく、潰された果肉の甘酸っぱい香りが鼻に抜ける。
「は、……」
まるで別の生き物のように器用に蠢く燐の舌が、何かをメフィストの口の中に運び込んだ。
ちょいと舌の上に乗せられたそれがサクランボの果肉だと気付いたとき、既に燐はメフィストから離れた後だった。
口の中に放り込まれたサクランボの果実は、種とヘタだけ綺麗に取り除かれていた。しかも一箇所だけに切れ目を入れてそこから種の周りの果肉だけを取り去るという、なんとも器用な剥かれ方している。
呆然とするメフィストを前にして、にや、と挑発するような笑みを浮かべた燐がペロッと舌先を見せた。
その上には、一つ結びにされたサクランボのヘタが一つ。よく見ればヘタに種が引っ付いたままだった。恐ろしいほどの器用さである。
「ふぉれでひいのか?」
「……あ、はい。合格です」
なにはともあれ約束は約束である。何か、ルール外の別の場所での敗北感を植え付けられたような気がして心此処にあらずといった状態のまま、メフィストは機械仕掛けの人形か何かのように茫洋と頷いた。
「んー、じゃあこれ貰ってくな」
ヘタと種を口の中に戻し、意気揚々とサクランボの入ったボウルを大事そうに両手で抱える燐。ところであのヘタと種は一応捨てる部位のはずだが、いったいどうするつもりだろう。そのまま飲み込みのか、それとも後で吐き出して捨てるのか。
「ああ、そうだ。メフィスト、知ってるか?」
などと考えていたら、退室する直前の燐がドアを開けたまま振り返る。ボウルは両手で抱えたまま、肘と身体を使って開けたドアが閉じないように足で維持していた。
「サクランボのヘタを口の中で結べるヤツって、キスが上手いらしいぞ」
……自分が言おうと思っていたセリフがそっくりそのまま燐の口から出てきて、思わず目が点になりそうだった。まさしく鳩が豆鉄砲を食らったような、そんな間の抜けた顔で唖然とするメフィストを尻目に「じゃあなー」と声が小さくなっていく。
パタン、と閉じられたドアの向こうで去っていく気配を感じながら、メフィストはずるずると椅子からずり落ちる。
「……それ、私が言おうと思ってたんですけど」
とりあえず文句だけ言っておく。それを投げつける相手はとうに退散した後だったが、我に返ると妙な小っ恥ずかしさが湧いて出てくる。
思わず顔に熱が集まるのを感じて片手で覆いながら、メフィストはあの末の弟をいったいどうしてくれようかと考えるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
焼き上がったばかりの見慣れないケーキを前に、雪男は不思議そうに首を傾げた。
「えっ、と。一応聞いとくね。これなに?」
「んー? なんか、キルシュ……? トルテっていう、サクランボのケーキだって」
ああなるほど、サクランボか。使用されている果実の正体を知った雪男が納得したように頷く。
「それにしたって、よくこんな量が手に入ったね。高かったでしょ?」
「いや? メフィストから貰ったもんだぞ」
暗に食費が足りなかったら追加を要求して良いと伝えたが、それには及ばなかったようだ。
雪男としてはたまには贅沢して良いと思っていたので別に買っても良かったのだが、まさか貰い物とは。
「メフィストとの勝負に勝った戦利品ってやつだな」
「フェレス卿と……? 何の勝負?」
「んー?」
ケーキにしたものは、あのボウルの半分ほど。まだまだ残っていた生のサクランボを、雪男の前に切り分けて置いたケーキのホイップクリームの上にそっと乗せて、燐は意味深な表情で人差し指を唇にそっと添える。
「──秘密」
END